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名作を読みませんかコミュのはつ恋  ツルゲーネフ  9

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 六

 その晩いっぱいとあくる朝の間じゅう、わたしはなんだか鬱々と沈み込んだ気持で過した。
 忘れもしない、わたしは勉強しようと思って、カイダノーフを読み始めたが、結局この有名な教科書のぱらりと組んだ行やページが、眼の前にちらちらするばかりで、なんにもならなかった。

 十遍も立て続けにわたしは、『ユリウス・ケーザルは武勇世にすぐれ』という文句を読み下したが、何ひとつ頭に入らないので、本を投げ出してしまった。

 夕飯の前になると、わたしはまたポマードを塗りたくって、またもやフロックコートとネクタイを着けた。
 「そりゃ、どういうつもりなの?」と、母が尋ねた。

 「お前はまだ大学生じゃないんですよ。
  それに、試験だって受かるかどうかわかりもしないのにさ。
  あの短い上着だって、まだついこのあいだ縫わせたばかりじゃないか?
  勿体ないですよ!」

 「お客様が来るので」とわたしは、ほとんど必死になってささやいた。
 「馬鹿をお言い! あれがお客様なものですか!」
 降参するよりほかはなかった。
 わたしはフロックを短い上着に着替えたが、ネクタイは取らなかった。

 公爵夫人は娘を連れて、夕食の三十分前にやって来た。
 老婦人は、すでにわたしにはお馴染の例の緑色の服の上に黄色いショールを引っかけ、火のような色のリボン飾りのついた旧式の室内帽をかぶっていた。

 彼女はたちまち手形の話をやり出して、溜息をついたり、自分の貧乏を訴えたり、『おねだり』を始めたりするのだったが、礼儀も作法もさっぱりお構いなしで、相変らず騒々しく嗅ぎ煙草を嗅いだり、椅子の上で気まま勝手に身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしていた。
 自分が公爵夫人だなどということは、てんで念頭に浮んでもこないらしい。

 それに引替えジナイーダは、すこぶるツンと、ほとんど傲慢なほどに構えて、あっぱれ公爵令嬢であった。
 その顔には、冷やかな、ぴくりともしない尊大な表情が表われていたので。わたしにはまるで別人のように見え、あの眼差しもあの微笑も、てんで見当らなかったけれど、それでいてこの新しい姿になっても、わたしにはやはり素晴らしいお嬢さんと思われた。

 着ているのは、ふわりとした薄い紗の服で、淡青い唐草模様がついていた。
 髪はイギリス風に、長い房をなして両の頬に垂れかかっていた。
 この髪かたちが、彼女の顔の冷やかな表情に、しっくり合っていた。

 父は食事の間、彼女の横に席を占めて、もちまえの優美で落着きはらった慇懃さで、隣席の令嬢のお相手をつとめていた。
 父は時おり彼女の顔をちらりと眺めやる、彼女の方でも、時たま父を見返す。

 その彼女の顔つきが、じつに不思議な、ほとんど敵意をふくんだものだった。
 二人はフランス語で話し合っていたが、わたしは今でも思い出す、ジナイーダの発音の奇麗さに、びっくりしたものである。

 公爵夫人は食事の間も、例によってちっとも遠慮せずに、さかんに食べては、料理を褒めそやした。
 母は、いかにもこの相手が荷厄介らしく、なんだか滅入ったような気乗りのしない調子で、しぶしぶ受け答えをしていた。
 父は時たま、かすかに眉の根をひそめた。

 ジナイーダもやはり、母の気に入らなかった。
 「なんだか高慢ちきな娘だこと」と、母はあくる日そう言った。
 「よく考えてみるがいいわ。
  何を高慢ぶることがあるんだろう。
  あんなグリゼットみたいな顔をしてさ《アヴェク・サ・ミーヌ・ド・グリゼット》!」

 「君は確か、パリの下町娘を見たことがないはずだが」と、父はチクリと刺した。
 「ええ、ありがたいことにね!」
 「もちろん、ありがたいことには違いないが……
  だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?」

 わたしの方へは、ジナイーダはてんで注意を向けずじまいだった。
 食事が済むと間もなく、公爵夫人は別れの挨拶をし始めた。
 「どうぞ今後とも、よろしくお力添えのほどを、
  奥様《おくさま》にも旦那様にもお願いしますよ」と、彼女は、歌うように声を引っぱりながら母と父に言った。

 「仕方ありませんわ!
  いい時もありましたけれど、返らぬ昔でしてねえ。
  これでももとは、奥方様と立てられたものですけど」と彼女は、いやな笑い声を立てて言い添えて、
 「背に腹は、とやら申しましてねえ」

 父はうやうやしく夫人に一礼すると、控え室のドアまで腕を貸して送って行った。
 わたしは、つんつるてんの短い上着を着たまま、じっとそこに突っ立って、死刑を言い渡された囚人よろしくのていで床を見つめていた。

 ジナイーダの冷たい態度を見て、すっかり悄気てしまったのである。
 ところが、ああなんという驚きだったろう。
 彼女はわたしの前を通り過ぎる時、例の優しい表情を眼に浮べて、わたしにこうささやいたのだ。

 「今夜八時に、うちへいらっしゃいね。
  よくって、きっとよ……」
 わたしはあまりの思いがけなさに、両手をひろげたが、それなり彼女は、白いスカーフをふわりと頭にかけると、さっさと向うへ行ってしまった。

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