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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  201

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 彼女は悪魔を恐れていたことを省略した。
 当時彼女の想像は悪魔につきまとわれていた。
 悪魔が教会堂の中にはいることができないで、まわりをうろついている、という話をきかされていた。

 そして彼女は、蜘蛛《くも》や蜥蜴《とかげ》や蟻《あり》など、木の葉の下、地面の上、または壁の裂け目に、うようよしてる、無格好な小さな動物の形の下に、悪魔を見るような気がしていた。

 それから彼女は、自分の住んでた家のこと、日の射《さ》さない自分の室のこと、などを話した。
 彼女はそんなものを喜んで思い起こした。
 眠れない夜をそこで過ごしながらいろんなことを考えめぐらしたのだった……。

 「どんなことですか。」
 「馬鹿げたことですわ。」
 「話してください。」
 彼女は嫌《いや》だと頭を振った。

 「なぜです?」
 彼女は顔を赤らめ、つぎには笑って、言い添えた。
 「そして昼間働いてる間もそうでした。」
 彼女はそのことをちょっと考え、ふたたび笑って、こう言葉を結んだ。
 「それは馬鹿げたことなんです、いけないことなんです。」

 彼は冗談に言った。
 「では恐《こわ》くなかったんですね。」
 「何が?」
 「神の罰を受けるのが。」
 彼女の顔は冷たくなった。
 「そんなことを言ってはいけません。」と彼女は言った。

 彼は話頭を転じた。
 先刻争いながら彼女が示した力をほめた。
 彼女はまた信頼の表情に返って、小娘時代の乱暴を話した。

 彼女は「腕白小僧時代の……」と言った。
 というのは、彼女は子供のころ、男の児《こ》の遊びや喧嘩《けんか》にはいりたがっていたから。

 あるときなんかは、自分より首だけ背の高い男の友だちといっしょになって、突然|拳固《げんこ》を食《くら》わした。
 きっと返報されることと思っていた。
 ところがその男の児は、彼女になぐられたと喚《わめ》きながら逃げていった。

 またあるときは、田舎《いなか》で、草を食ってる黒牛の背中によじ登った。
 牛は驚いて、彼女を樹木にたたきつけた。
 危うく死ぬところだった。

 また彼女は、二階の窓から飛べやしないと自分で思ったために、かえってそれをほんとうにやってみた。
 幸いにもちょっと身体をくじいただけだった。

 家に一人きりでいるときには、奇怪な危ない仕事を考えついた。
 さまざまな不思議な苦しみを自分の身体に与えた。

 「今のように真面目《まじめ》くさってるあなたを見ては、
  とてもそんなことは信じられませんね……。」と彼は言った。

 「ああもしも、」と彼女は言った、
 「時によって、自分の室に一人きりでいるときに、私をご覧なすったら!」
 「なんですって!
  今でもまだ?……」
 彼女は笑った。

 彼女は彼に――話をあちらこちらに移しながら――猟をすることがあるかと尋ねた。
 彼はないと言い張った。
 彼女は、あるとき鉄砲で鶫《つぐみ》をうって、命中さしたことがあると言った。

 彼は憤慨した。
 「まあ!」と彼女は言った、「それがどうしましたの?」
 「あなたにはいったい心がないんですか。」
 「そんなこと知りませんわ。」
 「動物だってわれわれと同様に生物《いきもの》だとは、考えないんですか。」

 「それはそうですわ。」と彼女は言った。
 「ちょうどお聞きしたかったことですが、
  動物に魂があるとあなたは思っておいでになりますの。」
 「ええ、そう思っています。」
 「牧師はそうでないと言っています。
  でも私は、動物にも魂があると考えますわ。
  まず第一に、」としごく真面目に彼女は言い添えた、
 「自分は前世は動物だったと思っていますの。」

 彼は笑いだした。
 「笑うことはありませんわ。」と彼女は言った。(が自分も笑っていた。)
 「子供のときに私が一人で考えてた話のうちには、そのこともはいっていました。

  私は自分を猫《ねこ》や犬や小鳥や鶏や仔牛《こうし》であると想像してみました。
  そういう動物の欲望を自分に感じました。
  その毛や羽を自分にもしばらく生やしてみたい気がしました。
  もうそうなってる気さえしました。
  あなたにはそんなことはおわかりになりませんでしょうね。」

 「あなたは不思議な動物ですね。
  けれど、そういうふうに動物との親しみが感じられるのに、
  どうして動物を害することができるんですか。」

 「人はいつでもだれかを害するものですわ。
  ある者は私を害しますし、私はまた他の者を害します。
  それが世の掟《おきて》ですもの。
  私は不平を言いません。
  世の中ではくよくよしてはいけません。
  私は好んで自分自身をも害することがあります。」

 「自分自身を?」
 「自分自身をです。
  このとおり、ある日私は金鎚《かなづち》で、この手に釘《くぎ》を打ち込みました。」

 「なんのために?」
 「なんのためにでもありません。」
 (彼女は十字架につけられたがってたことは言わなかった。)
 「私に手をかしてください。」と彼女は言った。
 「どうするつもりですか。」
 「まあかしてごらんなさい。」

 彼は手を出してやった。
 彼女はそれをつかんで、彼が声をたてるほど強く握りしめた。
 そして彼らは二人の百姓同志のように、できるだけ相手を害し合って遊んだ。

 彼らはなんの下心もなしにただ愉快だった。
 生活の連鎖や、過去の悲しみや、未来の懸念や、彼らの心中に積もってきた嵐《あらし》など、すべて他のことは、消え失《う》せてしまっていた。

 彼らは幾里も歩いた。
 少しも疲労を感じなかった。
 突然彼女は立ち止まり地面に身を投げ出し、藁《わら》の上に寝ころんで、もうなんとも言わなかった。

 両腕を枕《まくら》にして仰向けに寝そべり、空をながめた。
 なんという平和だろう!
 なんという安らかさだろう!

 数歩向こうには隠れた泉が、あるいは弱くあるいは強く打つ動脈のように、間を置いては湧《わ》き出していた。
 地平線は真珠母色にぼかされていた。
 裸の黒い樹木が立っている紫色の地面の上には、靄《もや》が漂っていた。

 晩冬の太陽、褪金色の若い太陽が眠っていた。
 光ってる矢のように、小鳥が空中を飛んでいた。
 田舎《いなか》の鐘の物静かな音が、村から村へと呼び合い答え合っていた。

 クリストフはアンナの近くにすわって、その姿をうちながめた。
 彼女は彼のことを頭においていなかった。
 その美しい口は黙って笑っていた。
 クリストフは考えていた。

 これはまさしくあなたですか。
 もう私にはあなたがわかりません。
 私にも、私にもそんな気がします。
 私は別な人間になったようです。

 私はもう恐《こわ》くありません。
 もう彼が恐くはありません。
 ああ私は彼からどんなに息をふさがれてたことでしょう。
 彼からどんなに苦しめられたことでしょう?

 私は柩《ひつぎ》の中に釘《くぎ》付けにされてたような気がします。
 今ようやく私は息がつけます。
 この身体は、この心は、私のものです。

 自分の身体。
 自由な自分の身体。
 自由な自分の心。
 自分の力、自分の美、自分の喜び。

 そして私は、今までそれを知りませんでした。
 自分自身を知りませんでした!
 あなたはいったい私をどうなすったのですか……。

 そういうふうに彼女が静かに嘆息するのを、彼は耳に聞くような気がした。
 しかし彼女は、自分が幸福であることや、すべてがよいということ以外には、何にも考えてはいなかった。

 もう夕暮れになりかけていた。
 紫がかった灰色の靄《もや》の帷《とばり》の下に、すでに四時ごろから、太陽は生き疲れて姿を隠した。

 クリストフは立ち上がって、アンナに近寄った。
 彼女の上をのぞき込んだ。
 彼女は大空に浮かんでるような眩暈《めまい》をまだいっぱいたたえてる眼つきを、彼のほうへ向けた。

 数秒かかってようやく彼を見てとった。
 するとその眼は、惑乱を伝える謎《なぞ》のような微笑を浮かべて、彼をじっと見つめた。

 その凝視からのがれるために、彼はちょっと眼を閉じた。
 ふたたび眼を開いたが、やはり彼女からながめられていた。
 そして彼には、幾日も二人はそういうふうに見合ってたような気がした。
 たがいに魂の中を読みとってるのだった。
 しかし何を読みとったかを、二人は知ろうと欲しなかった。

 彼は彼女に手を差し出した。
 彼女は一言もいわずにその手をとった。
 二人は村のほうへもどっていった。

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