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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  191

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 しかしやがては苦悩も疲れ、その手は麻痺《まひ》してくる。
 クリストフの神経はゆるんできた。
 彼はたえず眠りつづけた。
 その睡眠の飢えはいつまでも満たされそうにないかと思われた。

 ついにある夜彼は非常に深い眠りに陥って、翌日の午後になってようやく眼を覚ました。
 家は寂然《じゃくねん》としていた。
 ブラウンは夫妻とも外出していた。
 窓が開いていて、輝かしい空気が笑っていた。

 クリストフは堪えがたい重荷をおろした心地だった。
 立ち上がって庭に降りた。
 修道院めいた高い壁に囲まれてる狭い方形の庭だった。

 芝生や平凡な花の植わってる桝《ます》形の間に砂の小径がついていた。
 葡萄蔓《ぶどうづる》や薔薇《ばら》が巻き込まれてる青葉棚が一つあった。
 一筋の細い水の流れが人造岩の洞穴《ほらあな》から流れ出していた。

 壁に接してる一本のアカシアがその香ばしい枝を隣りの庭の上にたれていた。
 その方面に赤い砂岩でできた教会堂の古い塔がそびえていた。

 午後の四時だった。
 庭はもう影に包まれていた。
 日の光はまだ樹木の梢《こずえ》と赤い塔とに当たっていた。

 クリストフは青葉棚の下にすわり、背を壁のほうに向け、頭を後ろにそらして、葡萄蔓と薔薇とのからまってる間から、清澄な空をながめた。
 悪夢から覚めたような気持だった。

 そよともしない沈黙がこめていた。
 頭の上には一蔓の薔薇が懶《ものう》げにたれ下がっていた。

 突然、もっとも美しい一輪の薔薇が散り去った。
 雪白の花弁《かべん》が空中に散らされた。
 美しい無垢《むく》の生命が死んでゆくのに似ていた。
 いかにも単純に……!

 クリストフの精神には、それが悲痛なほどやさしい意義を帯びて映じた。
 彼は感きわまって、両手に顔を隠しながら咽《むせ》び泣いた……。

 塔の鐘が鳴った。
 一つの教会堂から他の教会堂へと、音が答え合った……。

 クリストフは時のたつのを意識しなかった。
 顔をあげたときには、鐘の音は消え失せ、日は沈んでいた。
 彼は涙のために心が和らげられていた。
 精神が洗われたようになっていた。

 自分のうちに音楽の小さい流れが湧《わ》き出るのに耳を傾け、細い三日月が夕空にすべりゆくのをながめた。
 家へもどってくる人の足音に我に返った。
 そして自分の室へ上がってゆき、錠をおろして閉じこもり、音楽の泉が流れ出すままに任した。

 ブラウンは彼を食事に呼びに来て、扉《とびら》をたたき、開けようとした。
 クリストフは返辞をしなかった。
 ブラウンは心配して、扉の鍵穴からのぞいたが、クリストフが書き散らした楽譜の中で机の上に半ば横たわってるのを見て、ようやく安心した。

 数時間後に、クリストフは疲れはてて降りてきた。
 下の広間には、医師のブラウンが書物を読みながら彼を待ち焦がれていた。

 彼はブラウンを抱擁して、やって来たときからの自分の振る舞いを詫《わ》び、そして聞かれない先から、その数週間の劇的事変を語り始めた。
 彼がブラウンにそんな話をしたのはこのとき一回きりだった。

 ブラウンがよく理解したろうとは彼も信じかねた。
 なぜなら、彼は支離滅裂な話し方をしていたし、夜はもう更《ふ》けていて、ブラウンは好奇心をそそられながらも眠くてたまらながっていた。

 ついに――(二時が打った)――クリストフもそれに気づいた。
 二人は寝室に退く挨拶《あいさつ》をかわした。

 そのときから、クリストフの生活は立て直った。
 彼は一時の激昂状態の中にとどまってはいなかった。
 ふたたび自分の悲しみのほうへ心を向けた。

 しかしその悲しみは普通のものであって、生きるのを妨げるものではなかった。
 生き返ること、それが彼には必要だったのだ!

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