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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  182

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 「クリストフ!」と彼は懇願した。
 クリストフは耳に入れなかった。
 「クリストフ!」
 「え?」

 「帰ろうよ。」
 「恐いのか。」とクリストフは言った。
 彼は進みつづけた。
 オリヴィエは悲しげな微笑を浮かべてついていった。

 彼らから数列先の所、押し返された民衆が人垣を作ってる危険区域の中に、新聞売捌所《うりさばきじょ》の屋根に上ってる佝僂《せむし》の少年の姿を、オリヴィエは認めた。
 少年は両手で屋根につかまり、危《あぶ》なげな様子でうずくまって、兵士らの壁の彼方《かなた》を笑いながら見渡し、そしてまた群集のほうへ、揚々たるふうで振り向いていた。

 彼はオリヴィエを見てとって、輝かしい眼つきを投げかけた。
 それからふたたび、彼方の広場のほうを窺《うかが》い始めた。
 何かを待ちながら希望に輝いた眼を見開いていた。

 何を待っていたのか!
 来るべきものをである……。
 ただに彼ばかりではなかった。
 彼の周囲の多くの者も、奇跡を待っていた。
 そしてオリヴィエはクリストフの顔を見ながら、クリストフもまた待ってるのを気づいた……。

 オリヴィエは少年を呼びかけ、降りてこいと叫んだ。
 エマニュエルは聞こえないふうをした。
 もうオリヴィエのほうをも見なかった。
 彼はクリストフの姿に眼をとめたのだった。
 そして、半ばはオリヴィエに自分の勇気を示すために、半ばはオリヴィエがクリストフといっしょにいるのを罰するために、喧騒《けんそう》の中に身を曝《さら》して喜んでいた。

 そのうちにクリストフとオリヴィエは、群集中に何人かの知人を見出した。
 金色の髯《ひげ》を生やしたコカールがいた。
 彼はただ少しの小競合《ぜりあ》いを期待してるばかりであって、将《まさ》に水が堤にあふれんとする瞬間を老練な眼で見守っていた。

 その先のほうには別嬪《べっぴん》のベルトがいた。
 彼女はあたりの人々からちやほやされながら半可通な言葉をかわしていた。
 彼女はうまく第一列にはいり込んで、声をからしながら警官らをののしっていた。

 コカールはクリストフに近寄ってきた。
 クリストフは彼を見てまた嘲弄《ちょうろう》しだした。
 「僕が言ったとおりだ。何事も起こりゃしないよ。」
 「なあに!」とコカールは言った。
 「あまりここにいないがいいよ。
  じきにたいへんなことになるからな。」
 「法螺《ほら》を吹くなよ。」とクリストフは言った。

 ちょうどそのとき、胸甲兵らは石をぶっつけられるのに我慢しきれないで、広場の入り口を閑くために進んできた。
 中央の隊伍《たいご》が駆け足で前進してきた。

 すぐに人々は散乱し始めた。
 福音書の言葉に従えば最初のものが最後の者だった。
 しかし彼らは長くそうしてはいまいとつとめた。

 憤激してる逃走者らは、自分らの潰走《かいそう》をつぐなうために、追っかけてくる者どもをののしり、一撃をも受けない先から「人殺し!」と叫んでいた。

 ベルトは鰻《うなぎ》のように列の間を縫い歩いて、鋭い叫び声をたてていた。
 ふたたび仲間の者といっしょになり、コカールの広い背中の後ろに隠れ、ほっと息をつき、クリストフのほうに身を寄せ、恐がってかあるいは他の理由からか、彼の腕をぎゅっとつかみ、オリヴィエにちらりと横目を使い、それからまた金切り声でののしりながら、敵のほうに拳《こぶし》を差し出した。

 コカールはクリストフの腕をとらえて言った。
 「オーレリーのところへ行こう。」
 数歩行けばよかった。
 ベルトはグライヨーといっしょに先にはいっていった。
 クリストフはオリヴィエを従えてはいりかけた。

 街路は両方へ斜面をなしていた。
 牛乳店の前の人道からは、五、六段下に中央路が見おろされた。
 オリヴィエは人波から出て息をついた。
 飲食店の不潔な空気やそれら狂人どもの高話などの中にはいることは、思っただけでも嫌《いや》だった。

 彼はクリストフに言った。
 「僕は家に帰るよ。」
 「帰りたまえ。」とクリストフは言った。
 「一時間ばかりのうちには僕も君のところへ行くよ。」

 「もう危ない真似《まね》はよせよ、クリストフ。」
 「弱虫めが!」とクリストは笑いながら言った。
 彼は牛乳店へはいった。

 オリヴィエは店の角《かど》を曲がっていった。
 数歩行ってから、混雑を離れた横町へはいった。
 愛護してる少年の面影が頭を掠《かす》めた。
 彼は振り返ってその姿を捜した。

 ちょうど彼がエマニュエルを見つけ出した間ぎわに、エマニュエルはその見張り場所から落ち、群集につき飛ばされて地面にころがった。
 逃走者らはその上を踏み越えていった。

 警官らがやって来た。オリヴィエは何にも考えなかった。
 いきなり人道の段から飛び降りて助けに駆け寄った。
 一人の土工がその危険を認めた。

 引き抜かれた剣、子供を起こそうと手を差し出してるオリヴィエ、その二人を引っくり返した警官らの暴虐な人波、などを彼は見てとった。
 彼は叫び声をあげて、みずから駆けつけてきた。

 仲間の者らがそのあとにつづいて駆けてきた。
 飲食店の入り口にいた他の者らも駆けてきた。
 彼らの呼び声をきいて、飲食店の中にいた者らも駆けてきた。

 両者は犬のように取っ組み合った。
 女たちは人道の段の上に残って叫び出した。
 かくて、貴族的な小中流人のオリヴィエは、だれよりも戦いをもっとも好んでいなかったにもかかわらず、戦いの火蓋《ひぶた》を切ったのだった……。

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