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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  85

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    十二 天神の杜


 さて、さっきから、簾戸《すだれど》一重へだてた茶の間に坐りこんで、聞き耳を立てていたお祖母さんに、店の話声が逐一《ちくいち》聞えていないはずはなかった。
 お祖母さんは、事の成行しだいでは、自分で店に出て打って、春月亭のお内儀《かみ》と一太刀交える肚になり、半ば腰を浮かしてさえいたのである。

 ところが、次郎がだしぬけに「酒はいくらでもあるんだ」と叫んで、汲桶《ため》をさげて井戸端の方に走って行ったのを見ると、さすがにちょっと驚いたふうでもあったが、そのまま腰を落ちつけてしまい、それからは、横目でじろじろ店の方を睨んだり、何かひとりでうなずいたりするだけだった。

 そして、春月亭のお内儀がいよいよ店を出て行ったのがわかると、いかにも皮肉な笑いをうかべて、仕切りの簾をあけ、
 「次郎うまくやったね。
  いい気味だったよ。」
 と、何度も二人にうなずいて見せた。

 仙吉が、
 「しかし、このままではおさまりますまい。
  かえって藪蛇《やぶへび》になるかも知れませんぜ。」
 と、心配そうに言うと、
 「そんな気の弱いことでどうするんだね。
  渡したものに、まるで酒の気がないというのではあるまいし、文句を言って来たら、
  こちらの上酒はそんなのでございますって答えてやるまでさ。
  ねえ、次郎。」
 と、仙吉をたしなめる一方、いかにもそれが次郎の最初からの肚《はら》だったと言わぬはかりの調子だった。

 次郎は、その時までまだ土間に突っ立ったまま、春月亭のお内儀が去った表通りを睨んでいたが、お祖母さんにそう言われると、急にこれまでの興奮からさめてしまった。
 彼の耳には、お祖母さんの言葉がたまらなく下劣《げれつ》にきこえ、その下劣さが、そのまま自分の行為の下劣さを説明しているということに気がついて、ひやりとするものを感じたのである。

 彼は、何かに驚いたようにお祖母さんの顔を見上げた。
 それから、そろそろと視線を売場の酒甕の方に転じたが、その眼はしだいに冷たい悲しげな光を帯び、最後に、さっき自分がひねった栓《せん》口に釘付けにされたまま、人形の眼のように動かなくなってしまった。

 「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。
  それに、だいいち思いきりがいいんだよ。仙吉も、こんな時には、少し見習ったらどうだえ。」
 お祖母さんは、次郎の気持にはまるで無頓着らしく、仙吉にそう言うと、すっと頭をひっこめて簾戸をしめた。

 次郎の眼は、その瞬間、稲妻のように動いてお祖母さんのうしろ姿を逐ったが、そのあと、また栓口に釘付けにされてしまい、暑いさかりの土間の空気に、ぴんと氷のように冷たい線を張った。
 彼の動かない眼にひきかえ、彼の頭の中には、たえがたい羞恥《しゅうち》の感情が旋風《せんぷう》のように渦巻いていた。
 その旋風の中を、朝倉先生夫妻をはじめ、白鳥会で彼が尊敬している生徒たちの顔が、つぎつぎに流れていた。

 大沢や恭一の顔も、むろんその中にあった。
 しかし、どの顔よりも彼の心を惑乱させたのは、父俊亮の顔だった。
 俊亮の顔が浮かんで来たのは、時間からいうとずっと後のことだったが、それは忽ちのうちに他の顔を押しのけ、悲痛なまなざしをもって彼にせまって来るのだった。

 自分は、さっき自分のやったことで、自分自身を辱《はず》かしめただけでなく、父さんをも辱かしめていたのだ。
 いや、父さんこそは誰よりも大きな辱かしめをうけた人だったのだ。
 彼の心は、そう気がつくと今までとはちがった意味でうずきはじめた。

 先生や友人に対する自分の面目、そんなものは、自分が父に与えた恥辱にくらべると物の数ではなかった。
 春月亭のお内儀のまえに手をついて、陳弁《ちんべん》し謝罪しなければならない父、思っただけで、彼は身ぶるいした。

 「次郎さん、こうなったからには、もう、お祖母さんの仰《おっ》しゃるように、
  押しづよく出るより手はありませんよ。
  しかし、旦那が帰っておいでたら、何と仰しゃいますかね。」
 さっきから、店のあがり框に腰かけて、首をふったり、額を掌で叩いたりして考えこんでいた仙吉は、いかにもなげやった調子で、そう言いながら、ひょいと立ちあがって、売場の方に歩いて行った。

 そして、酒甕と酒甕との間にさしこんであった物尺《ものさし》をとって上酒の方の甕に突きこみ、中身の分量をはかっていたが、
 「あと二升あまり這入っていますが、これはこのままじゃあ、下酒の方にもまわせませんね。
  かといって、新しい樽がはいるまでには腐ってしまいましょうし、
  いっそ捨ててしまいましょうか。」

 次郎は、しかし、それに受け答えする余裕もなかった。
 彼は妙に気ちがいじみた眼を仙吉になげたあと、がくりと首をたれた。
 それから、よろけるような足どりで、ふらふらと表通りに出て行った。
 彼の足は、ひとりでに町はずれの方に向かっていた。

 旧藩時代、城下の第一防禦線をなしていた、幅七八間の川に擬宝珠《ぎぼしゅ》のついた古風な橋がかかって居り、その向こうは一面の青田である。次郎は、橋の袂まで来て、青田の中を真直に貫いている国道の乾《かわ》き切った色を、まぶしそうに眺めていたが、そのまま橋を渡らないで、川沿いに路を左にとった。

 二丁ほど行くと、樟の大木に囲まれた天神の杜がある。
 彼はその境内にはいったが、社殿にはぬかずこうともせず、日陰を二三間あるいては立ちどまり、また二三間あるいては立ちどまりした。
 そのうちに、ふと何か思いついたように、本殿のうしろの、境内で最も大きい樟の木に向かってまっすぐに歩き出した。

 この大樟の根元は、らくに蓆一枚ぐらい敷けるほどの楕円形な空洞になっている。
 近所の子供たちが、その中で、ままごと遊びなどをしているのを、彼はこれまでによく見かけていたのである。
 のぞいて見ると、いくぶんしめっぽそうに見えたが、十分ふみならされた枯葉が、ぴったり重なりあって、つやつや光っていた。

 彼は、その中にはいり、すぐごろりと仰向きにねころんで、両掌《りょうて》を枕にした。
 内部の朽ちた木膚が不規則な円錐形をなして、すぐ顔の上に蔽いかぶさっている。
 下の方は、すれて滑らかなつやさえ出ているが、上に行くに従って、きめが荒く、さわったらぼろぼろとくずれそうに思える。
 円錐形の頂上にあたるところは渦巻くようにねじれていて、その奥から、闇が大きな蜘蛛の足のように影をなげている。

 次郎の眼が、そうした光景を観察したのも、しかし、ほんの一瞬だった。
 彼は、ねころぶとすぐ、ふかいため息をついて瞼をとじた。そして、心のうずきが、ぴくぴくと眉根を伝わって来るのをじっと我慢した。

 「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。
  それに、だいいち、思いきりがいいんだよ。」
 お祖母さんがさっき言ったそんな言葉が、そのうちに、彼の記憶を否応《いやおう》なしに遠い過去にねじ向けて行った。

 今の彼にとっては、そんな言葉にふさわしい彼の過去は、思い出しても身の縮むようなことばかりだった。
 とりわけ、お祖母さんが大事にかくしていた羊羹の折箱を盗み出して、下駄でふみにじった時の記憶が、膚寒いほどの思いで蘇って来た。

 彼は、もう仰向けにねていることさえ出来ず、空洞の奥の方に、横向きに身をちぢめ、頭を膝にくっつけるほどに抱えこんだ。
 しんとした境内に、いつから鳴き出したのか、じいじいと蝉の声がきこえていたが、それが彼の耳には、いやな耳鳴のように思えた。

 彼は、とうとう日が暮れるころまでそこを動かなかった。
 しかし、猛烈な蚊の襲来には、さすがにいたたまれず、全身をかきむしりながら、やっとそこを出て、またあたりをぶらつき出した。

 見ると、拝殿の近くには、涼みがてらの参詣者らしい浴衣がけの人が、ちらほら動いている。
 おりおり鈴の音もきこえて来た。彼は、なぜということもなしに、自分も鈴を鳴らしてみたい気になり、石燈籠の近くから参道の石畳をふんで、拝殿のまえに進んだ。

 拝殿は、もう真暗だった。
 奥の本殿からうすぼんやりと光が流れて、眼のまえの賽銭箱のふちをあるかなきかに浮かしている。
 次郎はじっとそれに眼をこらした。
 そのうちに、なぜか涙がひとりでにこみあげて来た。

 それは、しかし、悔悟の涙といえるようなきびしい涙ではなかった。
 むしろ、乳母のお浜や、亡くなった母やの思い出にもつながっている、人なつかしい、甘い涙といった方が適当だったのである。

 彼は、ついさっきまで、胸いっぱい、乾き切った栗のいがでもつめこんでいるような気持でいたのだが、その涙と同時に、何か知ら、胸のうちが温かくぬれて行くような感じになって来たのだった。
 彼は涙をふいて、もう一度本殿の方にじっと瞳をこらした。
 それから静かに鈴をふり、拍手《かしわで》をして、つつましく頭をたれた。

 その瞬間、どうしたわけか、ふと、はっきり彼の眼に浮かんで来た人の顔があった。
 それは宝鏡先生の顔だった。
 巨大なおどおどしたその顔が、次郎には、今はふしぎになつかしまれた。
 生徒の見送りをさけて、というよりは、見送る生徒が皆無でありはしないかを恐れて、こっそり駅を立ったであろう先生の淋しい心が、何かしみじみとした気持に彼をさそいこむのだった。

 参拝を終えて参道を鳥居の方に歩きながら、彼は、ふと、人間の弱さということを考えた。
 それは、彼がこれまでに、まるで考えたことのない問題ではなかった。
 しかし、この時ほど真実味をもって彼の胸をうったこともなかったのである。

 これまでに彼が考えて来た人間の弱さというのは、普通に謂ゆる意志薄弱とか、臆病とかいったような意味以上のものではなかった。
 従って彼は、自分をさほどに弱い人間だとは思っていず、たとえば白鳥会などで、自分が自分に捉われていることに気がついたり、自分を制しきれないでつい荒っぽい言動に出たりしても、それを自分が弱いせいだとは少しも考えていなかったのである。

 彼は、弱い人間の標本として、よく宝鏡先生を思いうかべていた。
 そのために、あとでは、却ってある意味で先生に心をひかれるようにさえなったくらいなのである。

 しかし、今の彼の気持は、全くべつだった。
 人間は弱い。
 宝鏡先生も弱いが、自分もそれに劣らず弱い。
 もともと強い人間なんて、この世の中には一人もいないのではないか。

 かりに強い人間がいるとしても、それはその人間が強いのではなくて、何かもっと大きな力がその奥に仂いているからにちがいない。
 彼の考えは、いつの間にか神というものにぶっつかっていた。
 それは、彼がたった今拝んだ天神様とは限らない、眼に見えぬ秘密な力だった。
 むろん、それが彼の胸深く信仰という形をとるまでには、まだ非常に距離があるらしかった。

 しかし、それは決して概念の戯《たわむ》れではなかった。
 彼は少くとも真に彼自身の弱さを知り、心からへり下りたい気持になっていたのである。
 それは、彼が中学に入学して間もないころ、「人に愛される喜び」から「人を愛する喜び」への転機において経験したものよりも、はるかに純粋な経験だった。

 前の経験では、それが彼の健気な道心の発露であったとはいえ、その中にはまだ作為の跡があり、自負や功名心がいくぶん手伝っていなかったとはいえなかった。
 今の次郎には、そうしたまじり気は少しもなかった。

 彼はただひしひしと自分の弱さを感じていた。
 そして宝鏡先生は、もはや一段高い立場から同情される人ではなくて、同じ弱い人間として、心から親しんで行きたい人になっていたのである。
 そこには、もう、「愛されたい」とか「愛したい」とかいうような、自分自身を価値づけた立場は少しも残されていなかった。

 在るものはただ大いなるものにへり下る心だけであり、そのへり下る心から、宝鏡先生のような弱い心の人が、悲しいまでに彼に親しまれて来たのである。
 この純粋な気持は、彼の胸をふしぎに爽《さわ》やかにした。

 同時に彼は、一刻も早く父のまえに身をなげ出して謝りたい気持になった。
 その気持には、もう何のはからいもなかったのである。
 そうだ。
 父さんは、もうとうに帰って来ておいでだろう。
 ぐずぐずしては居れない。
 彼は、急いで鳥居をくぐり、ふたたび川沿いの路に出たが、向う岸の暗い青田から水を渡って吹いて来る風は彼の額に凉しかった。

 彼は、いくぶんはずむような足どりで家に急いだ。

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