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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  74

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 「しかし、――」
 と、朝倉先生は、次郎の顔を注意ぶかく見まもりながら、
 「人間の世の中には、誤解ということがある。これは、時と場合によって免れがたいことだ。
  君だって、これまでに、人を誤解したことが何度もあるだろう。」
 次郎の頭には、幼いころからの自分の生活が、一瞬、走馬燈のようにまわった。

 「どうだね。」
 朝倉先生はやさしく返事をうながした。
 「あります。」
 次郎は素直《すなお》に答えて、少しうなだれた。
 「誤解された人は気の毒だ。
  だから、そういう人があったら、みんなでその人のために弁護をしてやらなければならん。
  これはあたりまえのことだ。」
 次郎は、小田先生の顔をそっとのぞいて見たいような気がしたが、視線はわずかに青い毛氈の上をはっただけだった。

 「しかし、気の毒なのは、誤解された人だけではない。
  誤解する人も、やっぱり気の毒だよ。
  どうかすると、誤解された人以上に、その人をいたわってやらなければならないこともある。
  君は、自分で、そんなふうに考えたことはないかね。」
 次郎には、急には返事が出来なかった。

 朝倉先生は、毛氈の上に組んでいた手を、そのまま顎の下にもっていって、数でも読むように指を動かしていたが、
 「君が、自分で人を誤解した時のことを、よく考えてみたら、わかるだろう。」

 次郎は、もう一度、自分の過去につきもどされた。
 いろんな人の顔が彼の前にちらついた。
 その中には、亡くなった母の観音様に似た顔もあった。
 彼の頭からは、その時、宝鏡先生のことなどすっかり拭い去られてしまっていた。

 「わかるはずだと思うがね。」
 朝倉先生は、組んだ手をもう一度毛氈の上にもどして、少し顔をつき出した。
 「わかります。」
 次郎の顔は、もうその時には、毛氈にくっつくように垂れていた。

 「うむ――」
 と、朝倉先生はうなずいて、また手を顎の下にやった。
 そして、しばらく考えていたが、
 「そこで、宝鏡先生の君に対する誤解だが、むろん、小田先生をはじめ、私も、
  出来るだけ君に悪気がなかったことをお伝えはする。
  しかし、一番の早道は、君が自分で直接君の気持をお話しすることだと思うが、どうだね。」

 次郎は、しかしぴったりしない気持だった。
 宝鏡先生の方から呼び出しがあればとにかく、自分から進んで弁解に行く必要はない、そんなことをするのは屈辱だ、という気がしてならなかったのである。

 彼は答えなかった。
 「いやかね。」
 と、朝倉先生は、組んだ手を解《と》いて、代る代るもみながら、
 「いやなら、仕方がない。いやなものを無理強いされても、
  かえって誤解を深めるはかりだろうからね。
  どうです、小田先生、本田の気持がもう少し落ちついてからにしちゃあ。」

 「しかし……いいでしょうか。」
 小田先生は、何か言いにくそうに、言葉の途中をにごした。
 「仕方がありませんよ。
  無理をして、取返しのつかん結果になるより、当分このままの方がいいでしょう。」
 「はあ……」
 小田先生の返事はやはり煮えきらなかった。

 次郎には、しかし、その煮えきらない理由が小田先生の宝鏡先生に対する立場にあるということが、もうはっきりわかっていた。
 「じゃあ、もう本田は引きとらしていいでしょう。」
 朝倉先生はおさえつけるような調子でそう言って、半ば腰をうかした。

 「ええ。」
 と、小田先生も、あきらめたように、
 「じゃあ、本田、用があったらまた呼ぶから、今日はこれで引きとっていいよ。」
 次郎は、朝倉先生に対して済まないような、それでいて何か物足りないような気がしながら、立ち上った。

 朝倉先生は、腰をうかしたまま、いつもの澄んだ眼でじっと彼の様子を見つめていたが、また腰をおちつけて、
 「うむ、そう。
  念のために言っておくがね。」
 と、手で合図をして、もう一度次郎にも腰をおろさせ、

 「君は、今では、宝鏡先生の誤解を解く必要はない、と思っているかもしれん。
  しかしそれは何といっても君の誤りだ。
  誤解は解けるものなら、解いた方がいいよ。
  人間と人間との間に誤解があっていいはずはないからね。
  それだけは、私からはっきり言っておく。

  しかし、道理はそうだとしても、君の気持がそうならなければ、どうにも仕方がない。
  それはさっきも言ったとおり、いやいやながら誤解を解こうとすれば、
  却って悪い結果になるからだ。
  そこで、私は、小田先生といっしょに、君の気持がそうなるのを、
  陰ながら祈ろうと思っている。
  それだけは覚えておいてくれ。

  もっとも、私たちが祈っているからって、それを気にして、あせってはいかん。
  鶏が卵をあたためるように、ゆっくり落ちついて考えるんだ。
  いいかね。」
 次郎は室崎の事件の折の朝倉先生をやっと取りもどしたような気がした。
 そして、すぐにも宝鏡先生に会わして貰おうかと思った。

 しかし、先生はつづけて言った。
 「それと、もう一つ言っておくことがある。
  それは、誤解はどうしたら解けるか、ということだ。
  かりに、君が宝鏡先生の誤解を進んで解きたいという気持になったとして、
  君はどうしようと思うんだい。」

 「………?」
 次郎には、質問の急所がつかめなかった。
 「誤解にもいろいろあってね。……」
 と、朝倉先生は、少し声を低め、
 「相手を説き伏せて解ける誤解もあるし、証拠や証人を出して解ける誤解もある。
  しかし、それだけではどうにもならない誤解があるんだ。
  いや、説き伏せたり、証拠や証人をつきつけたりすると、結果がかえって悪い場合さえある。」

 次郎には、全くわけがわからなかった。
 「変なことを言う先生だと君は思うだろうね。
  しかし、世の中は、君らが考えているように、一本筋のものではないんだ。
  ことがらによっては、一言の弁解もしないで、ただ私が悪うございましたと言えば、
  それでかえって誤解がとけることもある。

  むろん、普通なら誤解した方が誤解された方にあやまるのがあたりまえさ。
  しかし、それがあべこべになっても、そのために、ほんとうに誤解がとけて、
  双方の気持が晴れやかになるんだったら、そうして悪いわけはない。こんなことを言うと、  それでは正しいことが闇に葬られてしまうではないか、と君は言うかもしれん。

  しかし、正しいことは天知る、地知るだ。
  決して葬られてしまうものではない。
  実は、誤解した人だって、……」
 と、朝倉先生は、言いかけて急に口をつぐんだ。

 次郎の頭にその時ひらめいたのは、宝鏡先生ではなくて、お祖母さんだった。
 彼はもう何もかもわかったような気がした。
 しかし、彼は、やはり首をたれたまま、朝倉先生のつぎの言葉を待った。

 「いや、こんなことを今あんまり言うと、無理強いになるかもしれん。
  私は、決して、是が非でも宝鏡先生に君をあやまらせようとしているんではないんだ。
  人間はどんな場合にも、心にもないことをやってはいかん。
  自分で、あくまでもあやまる必要がないと信じているなら、
  あやまらない方が却っていいんだ。

  ただ十分考えてだけはみなければならんね。
  それで、私は、君が考える時の参考に、誤解を解くには、
  ただあやまる方がいい場合もあるってことを話したまでだ。
  要するに、みんなが晴れやかになるには、
  どうするのが一番いいかそれを考えてもらいたいんだ。
  それも、校長先生のいつも言われる大慈悲さ。

  おたがい意地を張る代りに、大慈悲を競う気で物事を考えれば間違いはない。
  そう、そう、孔子の教えの中に、いい言葉がある。
  仁に当っては師に譲らず、というんだ。
  わかるかね。」
 次郎には、むろん、わからなかった。

 朝倉先生は、小田先生の方を見て、ちょっと微笑しながら、
 「国漢の先生を前に置いて、こんなことを言うと、笑われるかもしれんが、
  仁というのは、つまり大慈悲だ。
  何事にも先生にゆずるのが弟子の道だが、仁を行うことにかけては遠慮はいらぬ。
  宝鏡先生とでも誰とでも競争せよ、という意味なんだ。
  どうだい、大ていわかったろう。」

 朝倉先生は、そう言って、だしぬけに椅子から立上り、
 「じゃあ、もういいから、帰ってゆっくり考えてみるんだ。」
 と、さっさと生徒監室の方に歩き出した。
 次郎は、あわててそのうしろ姿に敬礼したが、
 まだじっと自分の様子を見つめている小田先生の眼に出会すと、彼はわざとのようにたずねた。
 「もういいんですか。」

 「朝倉先生がいいと言われたら、いいだろう。」
 小田先生の答は、どぎまぎしているようでもあり、くさっているようでもあった。
 次郎はそれをきくとすぐ、きちんと敬礼をして室を出たが、廊下を歩いて行く彼の胸の中には、勝ち誇った気持と、重い荷を負わされた気持とが交錯していた。

 彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。
 しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。

 ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
 「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
 と、いかにも思いあぐんだように言った。

 午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。
 いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。
 それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。

 彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。
 すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
 「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
 次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。

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