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名作を読みませんかコミュのジャン・クリストフ  ロマン・ロラン  166

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 オリヴィエも同様な試練を経て来ていた。
 しかし彼はかつて自分のためにも他人のためにも、それに忍従することができなかった。
 大事なアントアネットの一生を滅ぼしたあの困窮について、嫌忌《けんき》の念をいだいていた。

 ジャックリーヌと結婚して後、富と愛とのために柔弱になされたとき、彼は、姉と自分とが昔、翌日の糧《かて》を稼《かせ》ぎ出さんがために覚束《おぼつか》ない努力をしていた、あの悲しい年月の思い出を、急いで遠ざけたのだった。
 それらの遠い思い出が、擁護すべき恋愛的利己心のもはやなくなった今、ふたたび浮かび出してきた。

 苦しみの前から逃げるどころか、反対に彼は苦しみを捜しにかかった。
 それを見出すには遠く進むの要はなかった。
 彼のような精神状態にあっては、至る所にそれが見てとられた。

 それは世間に満ちていた。
 世間、この大なる病院。
 多くの悩み、苦しみ。生きながら腐敗しあえいでいる、傷ついた肉体の苦痛。

 苦悶《くもん》にさいなまれてる心の、黙々たる苦悩。愛を受けない子供、希望のない娘、誘惑されそして裏切られた女、友情や恋愛や信念などにおいて欺かれた男など、人生から傷つけられてる、痛ましい不幸者の群れよ!

 もっとも獰猛《どうもう》なのは、貧窮や病気ではない。
 人間相互の残酷性である。
 この世の地獄を蓋《ふた》している揚げ戸をもち上ぐるや否や、オリヴィエの所まで、叫喚の声が立ちのぼってきた。

 圧制された人々、利用された貧しい人々、迫害された民衆、虚殺されたアルメニア、窒息させられたフィンランド、切断されたポーランド、さいなまれたロシア、ヨーロッパの狼《おおかみ》どもの貪食《どんしょく》に委《ゆだ》ねられたアフリカ、全人類のうちの惨《みじ》めなる人々、それらの叫喚の声が立ちのぼってきた。

 彼は息がつけなかった。
 至る所にそれが聞こえてきた。
 それ以外のことに考えを向けられようとは、もはや信じられなかった。
 彼はそのことをたえずクリストフに話した。

 クリストフはうるさがって言った。
 「もう言わないでくれ!
  僕の仕事を邪魔しないでくれ。」
 そして心の平衡を回復することができないと、いらだってののしった。

 「畜生!
  一日無駄《むだ》になってしまった。
  うるさい奴《やつ》だね!」
 オリヴィエは詑《わ》びた。

 「君、」とクリストフは言った。
 「いつも淵《ふち》の中ばかりのぞいちゃいけない。生きていられなくなるよ。」
 「淵の中にいる人々へ手を差し出してやらなくちゃいけないのだ。」

 「もちろんさ。
  しかし、どういうふうにするんだい?
  自分でその中に飛び込みながらするのか。
  君が望んでるのはそうじゃないか。

  君は人生の悲しい方面ばかりしか見たがらない。
  まあそれもいいだろう。
  そういう悲観主義はたしかに慈悲深いものだ。
  しかしそれは人の意気を沮喪《そそう》させる。
  人の幸福を計らんとするならば、まず自分で幸福になりたまえ。」

 「幸福に!
  しかしどうして幸福になる気になり得ようか。
  あんなに多くの苦しみを見るときに!
  世の中の苦しみを少なくしようと努めることにしか、幸福はあり得ないのだ。」

 「なるほどね。
  しかし、不幸な人々を助けようとするには、
  僕はそうやたらに戦ってばかりはいられない。

  くだらない兵卒が一人ふえたって、ほとんど何にもなりはしない。
  僕は自分の芸術で人を慰めることができる、力と喜びとを人に伝えることができる。
  一つの美しいりっぱな歌で、
  どれだけの惨《みじ》めな人々が苦しいおりに支持されたか、君は知っているか。

  人にはおのおのその職業があるのだ。
  君たちフランス人は、きわめて軽躁《けいそう》で、
  スペインやロシアなどの縁遠い不正にたいして、
  問題の底をよく知りもしないでまっ先に騒ぎたてる。

  僕はそのために君たちが好きなのだ。
  しかし君たちはそれで事情をよくするのだと思ってるのか。
  君たちはめちゃくちゃに突進するだけで、結果は少しもあがらない。
  たまにあがれば、さらに悪い事情になるというくらいのものだ。

  見たまえ、君たちフランスの芸術は、
  芸術家らが一般の実行運動にたずさわろうと主演してる現在くらい、
  色褪《あ》せてしまったことはかつてないじゃないか。

  享楽的な疲憊《ひはい》した多くの小大家らが使徒だなどとあえて自称してるのは、
  実におかしなことだ。
  も少し混ざり物の少ない酒を民衆に注いでやったほうが、はるかによいのだ。

  僕の第一の義務は、自分のなしてることをりっぱになすということだ。
  君たちの血を作り直して君たちのうちに太陽の光を置いてやるべき健全な音楽を、
  君たちのためにこしらえ出してやるということだ。」

 他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない。
 オリヴィエにはその太陽の光が欠けていた。
 現在のりっぱな人々と同様に、彼は自分一人で力を光被するほど強くはなかった。

 力を光被するには他人と結合する必要があった。
 しかしだれと結合したらいいのか。
 精神が自由で心情が宗教的だった彼は、政治および宗教上のあらゆる党派に反感を覚えた。

 どの党派もみな不寛容と狭小とにおいて負けず劣らずだった。
 権力を得ればただちにそれを濫用するばかりだった。
 ただ圧制されてる人々のみがオリヴィエの心をひいた。

 この方面では少なくとも彼は、クリストフと同じ意見であって、人は自分に縁遠い不正と戦う前に、身近な不正、多少自分にも責任のある周囲の不正と、まず戦わなければならないと思っていた。
 あまりに多くの人々が、自分のなしてる悪のことは考えもせずに、他人のなす悪に抗言するだけで満足している。

 オリヴィエはまず貧民救助に従事した。
 親しいアルノー夫人がある慈善事業に加わっていた。
 オリヴィエはその事業に加入さしてもらった。

 しかし初めのうち、彼は幾度か失望を覚えた。
 彼が引き受けた貧民たちは皆、好意に価しない者ばかりだった。
 もしくは、彼の同情によく応じないで、彼を信用せず、彼に向かって門戸を閉ざした。

 そのうえ知識階級の者はいったい、単なる一つの慈善では満足しかねるものである。
 単なる慈善は、悲惨の国のごくわずかな一地方をしか潤さない。
 その行為はたいていいつも部分的で断片的である。

 当てもなしに歩き回って、創傷を見出すに従って包帯してゆくがようなものである。
 通例あまりにつつましくて慌《あわただ》しいから、悪の根源にまでは手をつけ得ない。
 しかるにそこにこそ、オリヴィエの精神が看過し得ない探求があるのだった。

 彼は社会的悲惨の問題を研究し始めた。
 それには案内者が欠けてはいなかった。
 当時ちょうど、社会問題は一般社会の一問題となっていた。

 客間や劇場や小説などの中でもそれが話題になっていた。
 だれもみなその方面に通じてるような顔をしていた。
 ある一部の青年らは最善の力をその問題に費やしていた。

 どの新しい時代にも、一つの美《うる》わしい熱狂が必要である。
 若き人々はそのもっとも利己的な者でさえ、満ちあふれた生活力をもっている、不生産的であるのを好まない精力の資本をもっている。
 彼らはその資本を、一つの実行かあるいは――(いっそう慎重に)――一つの理論に費やそうとする。

 空中飛行か革命かである。筋肉を働かせるか想念を働かせるかである。
 人は若いおりには、自分が人類の大運動にたずさわっており、世の中を一新している、という幻をいだきたがる。世界のあらゆる息吹《いぶ》きに打ち震える官能をもっている。なんと自由で身軽であるだろう!

 まだ家族の重荷を負っていないし、何物ももっていないし、ほとんど懸念することはないのだ。
 まだ所有していないものをいかに寛大に見捨て得ることぞ。
 そのうえ、愛しまた憎むことは、夢想と絶叫とで地上を一変さしてると信ずることは、いかにうれしいことだろう!
 若い人々は耳を澄ました犬のようである。
 見よ、彼らは風の音にも震え上がって吠《ほ》えたてる。
 世界の隅《すみ》で一つの不正がなされても、彼らはそのために熱狂する……。

 暗夜の中の吠え声。大なる森の中で、農園から農園へと、吠え声は休みなく応《いら》え合っていた。
 夜は騒々しかった。
 そういうときに眠るのは容易でなかった。
 風は多くの不正の反響を空中に運び回っていた。
  
 不正は無数である。
 その一つを償わんとすれば他の多くを招致する恐れがある。
 不正とはいったいなんであるか?

 ある者にとっては、恥ずべき平和であり、祖国の分割である。
 ある者にとっては、戦争である。
 甲にとっては、過去の破壊であり、君主の放逐である。
 乙にとっては、教会の劫奪《きょうだつ》である。
 丙にとっては、未来の閉塞《へいそく》であり、自由の破滅である。

 民衆にとっては、不平等である。
 優秀者にとっては、平等である。
 各時代が選みとった不正は――各時代が反対する不正と賛成する不正とは、実に種々雑多である。

 今はちょうど、世界の努力の大部は、社会的不正を滅ぼすために向けられていた――そして知らず知らずに、また新しい不正を作り出さんとしていた。

 そして確かに、労働階級が数においても力においても増大してきて、国家の主要機関の一つとなって以来、社会的不正は大きくなって人の眼前に展開されていた。
 しかしその論客や詩人らの宣言にもかかわらず、労働階級の状態はさほど悪いものではなく、過去におけるよりもはるかによくなっていた。

 そして変化の原因は、この階級がより多く苦しむようになったことにあるのではなくて、より強くなったことにあるのだった。
 敵たる資本の力そのものによって、また、経済および工業上の発展の必然性によって、労働階級は以前よりも強くなったのである。

 この経済および工業上の発展の必然性は、労働者らを集合して、戦闘準備の整った軍隊たらしめ、機械主義のために、彼らの手に武器を有せしめ、おのおのの職工長をして、世の中の光や火薬や運動や動力《エネルギー》を支配する主人公たらしめた。

 彼らの重立った人々が近ごろ組織せんとつとめた、この根源の力の巨大な集団から、一つの灼熱《しゃくねつ》が、電波が、発散し出して、それが漸次《ぜんじ》に、人類社会の胴体中へ伝わったのである。

 この民衆の主張が中流知識階級をも動かしたのは、その正義により、またはその観念の新しさと力とによってであると、彼らは信じたがっていたけれど、実はそうではなかった。
 その活力によってであった。

 その正義というのか?
 しかし、他の多くの正義が世に侵害されているのに、世は平然としていたのである。
 その観念というのか?
 しかし、それは所々方々で拾い集められた真理の断片にすぎなくて、他の階級を無視しながら、一階級の体躯《たいく》に合うようにされたものだった。

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