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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  157

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 クリストフが、音楽の楽しみをよりよく味わうために選んだ、それら一時の友のうちに、彼をひきつける一つの顔があった。
 彼は音楽会ごとにそれを見かけた。
 小さな女工であって、音楽をなんらの理解なしにただ愛してるらしかった。

 かわいげのある横顔をしていて、軽くつき出た口とやさしい頤《あご》、それとほとんど同じ高さの小さなまっすぐな鼻、つり上がった細い眉《まゆ》、輝いてる眼、のんきなかわいい小娘の一人だった。
 そういう小娘の顔つきの下にこそ、無関心な平和に包まれてる喜びや笑いが、見て取られるものである。

 それらの不品行な娘たち、それらの悪戯《いたずら》な女工たちこそ、古代の彫像やラファエロの描いた女などに見えるような、今は見られない清朗な気分を、おそらくは最も多分に反映している。
 それは彼女らの生涯《しょうがい》中の一瞬にすぎないし、快楽の最初の眼覚《めざ》めにすぎなくて、凋落《ちょうらく》はほど近い。
 しかし彼女らは少なくとも、美《うる》わしい時を生きたのである。

 クリストフは楽しんで彼女をながめた。
 そのやさしい顔つきが彼の心を喜ばした。
 彼は欲求なしに享楽し得た。
 そしてそこに、喜びや力や慰安を見出した――ほとんど貞節をさえ見出した。

 彼女も――言うまでもなく――彼から見られてることをすぐに気づいていた。
 そして二人の間には、知らず知らずのうちに、一種の磁気の流れができてきた。
 ほとんどすべての音楽会で、たいてい同じ場所で顔を合わしたので、間もなくたがいの趣味をも知り合った。

 ある楽節になると、意味ありげな眼つきをかわした。
 彼女はとくにある楽句を好む時には、唇《くちびる》をなめるかのように軽く舌を出した。
 また、面白くないことを示すには、そのやさしい顔を軽蔑《けいべつ》的につき出した。

 それらのかわいらしい顔つきのうちには、人から見られてると知ってる時ほとんどだれでもしずにはいられないような、無邪気な道化《どうけ》た様子が交っていた。
 また彼女は時とすると、真面目《まじめ》な楽曲の間、しかつめらしい表情をつとめることもあった。
 そして横顔を向け、聴《き》きとれてるふりをし、頬《ほお》に微笑を浮かべながら、彼から見られてるかどうかを横目でうかがっていた。

 二人はかつて一言もかわしたことがなく、出る時いっしょになろうとつとめたことも――(少なくともクリストフの方は)――なかったが、それでもごく親しい友だちとなっていた。

 ついに偶然にも、ある晩の音楽会で、二人は相並んだ席についた。
 ちょっとにこやかなためらいのあとで、親しく話を始めた。
 彼女は美しい声をもっていた。
 音楽について愚劣なことをたくさんしゃべった。
 少しも理解がないくせに通がっていたのである。

 しかし音楽を非常に好んでいた。
 最悪のものと最良のものとを、マスネーとワグナーとを好んでいた。
 退屈するのは凡庸《ぼんよう》なものにばかりだった。

 彼女にとっては音楽は一つの快楽であった。ダナーエが金色の雨を飲むように、全身の毛穴から音楽を吸い込んでいた。
 トリスタンの前奏曲では息絶えんばかりになった。
 英雄交響曲では、あたかも戦利品のように自分が運び去られるのを楽しんだ。

 ベートーヴェンが聾で唖だったことをクリストフに教え、それでももしベートーヴェンを知ったら、どんなに醜男《ぶおとこ》でも自分は彼を愛したはずだと言った。
 ベートーヴェンはそんなに醜男《ぶおとこ》ではなかったと、クリストフは抗弁した。

 そして二人は、美と醜とについて議論した。
 すべては趣味によるのだと彼女は説きたてた。
 一人に美しいものも他の者には美しくない。
 「人間は金貨ではない。万人の気に入るものではない。」

 クリストフは彼女が口をきかない方を好んだ。
 その方が彼女の心がよくわかった。
 イゾルデの死の間、彼女は彼に手を差し出した。
 その手は汗ばんでいた。
 彼はそれを曲が終わるまで自分の手に握りしめた。
 彼らは組み合わした指を通して、その交響曲の波が流れるのを感じた。

 二人はいっしょに外へ出た。
 十二時に近かった。
 話をしながらラタン町へ上っていった。
 彼女は彼の腕を取っていた。
 彼は彼女を家まで送っていった。

 しかしその戸口までやって行き、彼女が彼を引き入れるつもりでいると、彼はその誘いの眼つきに気も留めないで、そのまま別れ去ってしまった。
 しばらく彼女は呆然《ぼうぜん》としたが、次には腹がたった。
 それから、彼の馬鹿さを考えて笑いこけた。

 次に自分の室へはいって着物を脱ぎながら、またいらだってきた。
 そしてついには黙って泣いた。
 音楽会でふたたび彼に会った時、彼女は気をそこねた冷淡な多少意固地《いこじ》な様子を見せようとした。

 しかし、彼があまり善良なお坊ちゃんだったので、その決心も保てなかった。
 二人はまた話しだした。
 ただ彼女は、今でも少し遠慮していた。
 彼の方では、ねんごろにしかしごくていねいに口をきいて、真面目《まじめ》なことや、美しいことや、二人で聴いてる音楽のことや、それが自分にとっては何を意味するかということを、話してきかした。

 彼女は注意深く耳を傾けて、彼と同じように考えようとつとめた。
 彼の言葉の意味がわからないこともしばしばだったが、それでもやはり信じていた。
 クリストフにたいして感謝的な敬意をいだいていたが、その様子をほとんど示しはしなかった。

 二人は暗々裡《あんあんり》に一致して、音楽会でしか語を交えなかった。
 彼は一度、学生らの間で彼女に出会った。
 二人は真面目《まじめ》くさって挨拶《あいさつ》をした。
 彼女はだれにも彼のことを語らなかった。
 彼女の魂の奥底には、ある神聖な小さな場所が、何かしら美しい純潔な慰謝的なものが、存在していた。

 かくてクリストフは、彼一人の存在によって、彼が存在してるというだけの事実によって、人の心を慰安するような影響を及ぼし始めた。
 彼はどこへ行っても、知らず知らずに、自分の内部の光明の跡を残した。
 それに最も気づいていないのは彼自身だった。
 彼の近くに、同じ家の中に、彼がかつて会いもしなかった多くの人がいたが、彼らはみずから知らずに、彼の有益な光明を次第に受けていた。

 数週間前からクリストフは、肉食を断ちまでして倹約しながらも、もう音楽会へ行くだけの金がなかった。
 そして、屋根裏の自分の室では、今や冬になると、身体が凍えてしまうような気がした。

 彼はじっと机に向かってることができなかった。
 そこで降りていって、温《あたた》まるためにパリーの中を歩き回った。
 彼は周囲の煩雑な都会を時々うち忘れて、無限の時間のうちに逃げ込む術を知っていた。

 空の深みにかかってる死に凍えた月や、白い霧の中に回転してる太陽の円《まる》い面を、騒々しい街路の上方にながめるだけで、町の喧騒《けんそう》は消えてしまい、パリー全市は無際限な空虚のうちに捜してしまって、その全生活が、昔の、遠い遠い以前の……数世紀以前の……生活の幻影のようにしか思えなかった。

 辛うじて文明の皮をかぶってる自然の大なる野蛮な生活の、普通の人の眼にはつかないほどのわずかな徴《しるし》を見ただけで、その自然の生活全部が彼の眼に映じてきた。舗石の間に伸び出てる草、乾燥した大通りの空気も土も不足してる所に、鉄板の幹|覆《おお》いに圧迫されながらも芽を出してる樹木、または、太古の世界に充満してその後人間に滅ぼされてしまった動物どもの名残《なご》りとも言うべき、うろついてる犬や小鳥、あるいは、一群れの小蝿《こばえ》、町の一郭を蚕食してる眼に見えない病菌――それらに眼をやるだけで、人間の温室たるこの都会の息苦しい中にあって、大地の霊の息吹《いぶ》きが彼の顔に吹きつけてき、彼の元気を鼓舞するのであった。

 彼はしばしば食も取らず、数日間だれとも話をせずに、そういう長い散歩をしながら、尽きぬ夢想のうちに浸った。
 その病的な気分は節食と沈黙とのためにひどく昂進《こうしん》していた。
 夜は、苦しい眠りや疲労を来たす夢に陥った。

 幼時を過ごした古い家が、その室が、たえず眼の前に浮かんできた。
 音楽的妄想《もうそう》が、しつこく頭につきまとって来た。
 昼は、心の中にある人々や愛する人々、遠く離れてる人々や死んだ人々と、たえず話をかわした。

 湿っぽい十二月の午後、霜氷は堅くなった芝生《しばふ》を覆い、人家の屋根や灰色の円屋根は霧にぼかされ、細長い屈曲した裸の枝を広げてる樹木は、靄《もや》の中におぼれて、大洋の底の海草に似ていた。
 ―その午後、クリストフは前日来悪寒《おかん》を覚え身体が温まらなかったが、まだよく知らないルーヴル博物館にはいってみた。

 彼はこれまで、大して絵画に心を動かされたことがなかった。
 内心の世界にあまり気を奪われていたので、色彩と形体との世界をよくとらえることができなかった。
 色彩や形体は、ただぼんやりした反響をもたらすのみである音楽的共鳴としてしか、彼に働きかけてこなかった。

 もちろん彼は本能的におぼろげながら知覚していた、音響的形体におけるごとく視覚的形体における諧調《かいちょう》を支配する、同じ法則や、または、生命の両反対の斜面をそそぐ色と音との両河が流れ出る、魂の深い水脈などを。
 しかし彼はその両斜面のうちの一つしか知らなかった。

 そして視覚の国においては少しも勝手がわからなかった。
 それゆえに、光の世界の女王とも言うべき明るい眼をしたフランスの、最も微妙なまたおそらく最も自然な魅力の秘密が、彼の眼には止まらなかった。
 また、たとい絵画にも少し興味をもっていたとしたところで、クリストフはあまりにドイツ人であって、かくも異なったフランスの視覚にたやすく順応することができなかった。

 新式のドイツ人らは、ゲルマン風の感じ方を排して、印象主義や十八世紀のフランスを熱愛してるとみずから信じており――フランス人よりもそれらをよく理解してるとの確信をもち合わせない時でさえそう信じているけれども、クリストフは、そういう新式のドイツ人ではなかった。

 彼はおそらく野蛮人であったろう。
 しかし率直に野蛮人だったのである。
 ブーシェの小さな薔薇《ばら》色の臀《しり》、ワットーの肥満した頤《あご》、グルーズの、退屈そうな羊飼いや、コルセットの中にしめつけられてる太った羊飼いの女、よく捏《こ》ね上げられた魂、淑《しとや》かな流し目、フラゴナールのすり切れたシャツ、すべてそれらの詩的な肉体美も、世間の艶種《つやだね》を満載している新聞紙にたいするくらいの興味をしか、クリストフには与えなかった。

 彼はその豊麗な諧調を少しも了解しなかった。
 ヨーロッパのうちで最も精練されたその古い文明の、逸楽的な時として憂鬱《ゆううつ》な夢にたいして、彼はまったく門外漢であった。
 また十七世紀のフランスについても、そのあらたまった敬虔《けいけん》さやはでやかな肖像を、彼はやはり味わえなかった。

 その大家のうちの最も真面目《まじめ》な人々の多少冷やかな謹直さ、ニコラ・プーサンの尊大な作品やフィリップ・ド・シャンパンニュの蒼《あお》い人物の上に広がってる、魂のある灰色味は、クリストフをフランスの古い芸術から遠ざけてしまった。

 また新しいものについても、彼は少しも知るところがなかった。
 知ってるとすれば、誤り知ってるばかりだった。
 ドイツにいる時彼が心ひかされた唯一の近代画家ベックリン・ル・バロアは、ラテン芸術を見るの準備を彼に与えはしなかった。

 土の匂《にお》いがし、土から発する勇ましい猛獣格闘者の粗野な匂いがする、その獰猛《どうもう》な天才から受ける刺激が、クリストフの心の中には残っていた。
 彼の眼は、その酔える野人の、生々《なまなま》しい光に焼かれ、熱狂的な雑色に慣れていたので、フランス芸術の薄ぼかしの色や細分された柔らかな語調などには、なかなか調和しがたかった。

 しかしながら、人は異なった世界に無難で生き得るものではない。
 いつしかその影響を受ける。
 いかに自分自身のうちに閉じこもっていても、いつかは何かが変化されたことに気づくものである。

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