ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  60

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    一七 小刀


 七月八日は、ちょうど土曜だった。
 普通の授業は午前中ですみ、午後に、剣道の時間が一時間だけ残されているきりだった。
 次郎は、教室で弁当を食べながら、お浜のことばかり考えていた。

 あの葉書には、汽車の時間が書いてなかったが、もう、うちに来ているのだろうか。
 来ているとすれば、今ごろは、自分のことがきっと話の種になっているにちがいない。
 お祖母さんはどんなことを乳母やに話しているのだろう。
 乳母やと今度の母さんとははじめて会うのだが、おたがいに、どんなふうな挨拶を交わしたのだろう。

 次郎は、それからそれへと想像をめぐらし、はては、みんなの坐っている位置や、ひとりびとりの表情などをこまかに心に描いてみるのだった。
 そんなことは、このごろの彼には、あまり似つかないことだったのである。

 弁当は、いつの間にか空になっていた。
 次郎は、しかし、箸を握ったまま、いつまでも机に頬杖をついてぼんやり窓の外をながめていた。
 窓の五六間さきは道路で、学校の敷地との境は、木柵で仕切ってある。

 次郎は、見るともなく木柵を見ているうちに、急に「おや」と思った。木柵の外を二人づれの女が通り、その一人がお浜そっくりに見えたからである。
 彼は、弁当がらをそのままにして、やにわに外に飛び出した。
 そして、木柵と銃器庫との間を、その女の歩いて行く方向に走った。

 うしろ姿は、どう見てもお浜だった。
 次郎はあぶなく声をかけるところだった。
 しかし、彼女と並んで向側《むこうがわ》を歩いている女が、赤い日傘をさした十五六歳の少女だと気がつくと、声をかけるのが妙にためらわれた。
 もし人ちがいだったら……と思うと、少女の手前、いよいよ声が出せなくなるのだった。

 彼は、顔を正面に向けて、そのまま彼らを追いこした。
 そして三四間も抜いたと思うころ、廻れ右の練習でもやっているようなふうを装って、木柵の隙間から二人の顔をのぞいて見た。

 やはりお浜にちがいなかった。
 向こうもこちらを見ていた。
 そしてこちらが声をかけるまえに、
 「まあ!」
 というお浜の頓狂な声がきこえた。

 木柵をへだてて、次郎とお浜とは向きあった。
 お浜の顔は、もう半分、木柵の間から、こちらに突き出している。
 「まあ、まあ、お宅にあがるまえに、こんなところでお目にかかれるなんて、
  全く不思議ですわ。
  でも、……」

 と、お浜はけげんそうに柵の内を見まわしながら、
 「どうして、こんなところに、たったお一人でおいでなの?」
 「僕、乳母やだと思ったから、ここまで追っかけて来てみたんだよ。」
 「そう?
  そうでしたの?
  よく見つけて下すったのね。
  あたし、今朝着きましたけれど、この近所に用があったものですから、
  ついでに、坊ちゃんの学校をそとから覗かせていただきたいと思って、
  わざとこの道をとおってみたところですの。
  でも、こんなところでお目にかかれるなんて、ちっとも思っていませんでしたわ。」

 次郎はうつむいて制服のボタンをいじくっていた。
 お浜は彼の姿を見あげ見おろしながら、
 「あれから、もうそろそろ二年ですわね。
  でも、なんて大きくおなりでしょう。
  そうして制服を着ていらっしゃると、よけいお見それしますわ。
  今は坊ちゃんお一人だったから、すぐわかりましたけれど。」
 お浜はそう言って、うしろをふり向いた。

 「坊ちゃん、あの子、誰だかおわかり?」
 次郎はうなずいた。
 彼は、お浜のうしろに立っている少女がお鶴であることが、もう、さっきからわかっていたのである。
 お鶴は、ややうつむき加減に、左頬を見せていた。
 白いものを少し塗っているので、以前ほどに眼立たなかったが、お玉杓子に似たあざは、やはり、もとのままだった。

 「あの子も大きくなったでしょう。
  今日は、今から二人でお宅にお伺いしますわ。
  坊ちゃんは何時ごろお帰り?」
 「二時までだけれど、剣道だから、ちょっとおそくなるよ。」

 「でも、三時頃には、お宅にお帰りになれるでしょう。
  あたしも、ちょっと買物をしますから、たいてい、ごいっしょごろになりますわ。
  お宅でゆっくり話しましょうね。」
 「僕、なるだけ早く帰るよ。」
 次郎は、そう言って、柵をはなれながら、ちらっとお鶴の方に眼をやった。

 お鶴も、その瞬間、まともに彼の方を見た。
 二人は、視線がぶつかると、あわてたように下を向いた。
 次郎は、すぐ教室の方に、帰りかけたが、途中でもう一度立ちどまって、柵の隙間を縫って行く赤い日傘を見おくった。

 次郎の心は、もう五六歳頃の昔に飛んでいた。
 お鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことが、つい昨日のことのようにはっきり思い出された。

 お鶴の様子はすっかり変っている。
 今ではもう自分の姉さんとしか思えないほどだ。
 だが、お玉杓子だけは、相変らず、昔のままにくっつけている。
 お鶴にとっては、むろんいやなことにちがいない。
 しかし、思い出というものは、何と甘い、そして美しいものだろう。

 次郎は、つい、うっとりとなって立っていた。
 と、だしぬけに、うしろの方から、いやに落ちついた声がきこえた。
 「おい、本田。」
 次郎は、ぎくっとしてふり向いた。
 すると、ちょうど銃器庫の角のところに、一人の上級生が、巻煙草を吸いながら、にやにや笑って立っていた。

 それは「三つボタン」だった。
 尤も、この時は、彼の制服のボタンは四つにふえていたが。
 「貴様、そこで何をしていたんだ。」
 三つボタンは、肩をゆすぶりながら、次郎に近づいて来た。
 次郎はきちんとお辞儀だけをした。
 そして、そのまま默って、睨むように相手の顔を見つめた。

 「ふん、知っているぞ。」
 三つボタンは、煙草の吸殻を捨てて、それを靴でふみにじりながら、両腕をくんだ。
 次郎は、やはりじっと彼を見つめているだけである。
 「白状せい、白状せんと、なぐるぞ。」
 三つボタンは、腕組をといて、右手の拳を次郎の顔のまえにつき出した。

 次郎はそれでもたじろがなかった。
 そして、いくぶん血の気を失った唇をふるわせていたが、
 「僕、何も悪いことなんかしていません。」
 と、食ってかかるように言った。
 「何?
  悪いことしていない?
  じゃあ、何でこんなところに一人でいたんだ。」

 「用があったからです。」
 「何の用だ。
  それを言ってみい。」
 三つボタンはにやりと笑った。
 次郎には、その下品な笑いが、鉄拳以上の侮辱のように感じられた。

 彼は返事をする代りに、思わず手を衣嚢《かくし》に突っこんで、小刀《ナイフ》を握った。
 三つボタンは、しかし、それには気がつかないで眼を柵の外に転じながら、
 「言えないだろう。
  中学生が学校の柵の内から、道を通る女を眺めていたなんて、
  そりゃ自分の口から言えんのがあたりまえだ。」
 衣嚢の中で小刀を握りしめていた次郎の手は、もうすっかり汗ばんでいた。

 「本田。」
 と、三つボタンはいかにも訓戒するような調子になって、
 「貴様の行いは全校の恥だぞ。
  しかも、貴様はまだ一年生じゃないか。
  一年生の時から、女に興味を持つなんて、生意気千万だ。
  将来の校風が思いやられる。」

 次郎は、相手が真面目くさった顔をして、そんなことを言うのを聞いているうちに、妙にくすぐったい気持になって来た。
 同時に、彼の態度にはかなりの余裕が出来た。
 彼の機智《きち》が動き出すのは、いつもそんな時である。

 彼はすまして言った。
 「僕、女なんか見ていません。」
 「馬鹿!
  現に見てたじゃあないか。」
 「見てたっていう証拠がありますか。」
 「何!
  証拠だと?
  ずうずうしい奴だな。
  証拠は俺の眼だ。」

 「じゃあ、どんな女を見てたんです。」
 「こいつ!」
 と、三つボタンは真赤になって次郎を睨んだ。
 が、すぐ、どうせ相手は鼠でこちらは猫だ、というような顔をして、
 「貴様はなるほど偉い。
  俺も一年生に詰問《きつもん》されたのは、はじめてだ。
  五年生も、こうなっては駄目だね。

  まあ、しかし、折角の詰問だから、答えてやろう。
  俺がいいかげんな当てずっぽを言っているように思われてもつまらんからな。
  貴様は、さっき、赤い日傘をさした女を眺めていたんだろうが。
  どうだ、参ったか。」

 次郎はかすかに笑った。
 しかし、それは相手に気づかれるほどではなかった。
 彼はすぐ、いかにも解《げ》せないといった顔をして、言った。
 「そんな女が通ったんですか。」
 「とぼけるな!」
 と、三つボタンは大喝《だいかつ》して拳をふりあげた。

 もういよいよ我慢がならんといった彼の顔つきだった。
 が、その時には、次郎もすでに二三歩うしろに身をひいていた。
 しかも、彼は、彼の右手に、二寸余の白い刃を見せて、しっかと小刀を握りしめていたのである。

 次郎は、その小刀を腰のあたりに構えながら、青ざめた微笑をもらした。
 そして、唾を一息ぐっとのみこんだあと、吐き出すように言った。
 「五年生だと、女が通るのを見ていいんか!」
 次郎のあまりにも思い切った態度や言葉づかいは、病的な伝統をそのまま上級生の正義だと心得ている三つボタンにとっては、全く信じられないほどの無礼さだった。

 彼は、一瞬あっけにとられたような顔をして次郎を見た。
 が、次の瞬間には、彼は世にもみじめな存在だった。
 彼は、次郎をなぶろうとして、あべこべに次郎になぶられていたことに気がついたのである。

 何という辛辣《しんらつ》な皮肉だ。
 そして何という上級生としての恥辱だ。
 こうなった以上、もう言葉だけで何と次郎をおどかそうと、ただ自分をいよいよ滑稽なものにするばかりだ。

 かといって、上級生の権威を護るための最後の手段に出ることは、次郎の右手に光っている小刀の危険を冒すことなしには、今や全く不可能である。
 彼は、実際、自分以上の無法者を、だしぬけに、しかも自分の小さな獲物を発見して、進むことも退くことも出来なくなってしまったのである。

 行詰った三つボタンは、変なせせら笑いをするよりほかなかった。
 それは、多くの人々が自分の不正と卑怯とをごまかすために、しばしば用いる手段である。
 だが、それがいくらかでも役に立つのは、相手がこちら以上に不正で卑怯な場合だけである。

 次郎に対しては、むろん何のききめもなかった。
 しかも、次郎を動かしていたのは、もはや彼の機智だけではなかった。
 彼は公憤に燃えていた。
 いや、公憤というようは、もっと全生命的な、己を忘れた、そして、ただちに死に通ずるといったような気持が、彼を三つボタンに対して身構えさしていたのである。

 三つボタンのせせら笑いを見ると、次郎はそれをはじきかえすように叫んだ。
 「馬鹿!
  何を笑うんだ。
  あの女の子は僕の乳母やの子じゃないか。
  僕は乳母やと今までそこで話していたんだ。
  それから二人を見おくっていたんだ。
  それが悪いんか!
  自分で知りもしない女の子を眺めていた貴様と、どっちが悪いんだ!」

 次郎の眼からは、もう涙があふれていた。
 彼は、しかし、罵りやめなかった。
 「五年生は、制服のボタンがついてなくともいいんか!
  こんなところにかくれて、煙草を吸ってもいいんか!
  そんな五年生が僕たちの上級生なら、僕はもうこの学校にいなくてもいいんだ!
  なぐるならなぐってみい!
  貴様のような奴に死んだって負けるものか!
  ち、ちく生!
  卑怯者!
  ごろつき!」
 次郎は、自分の声に自分で興奮して、何を言っているのか、もう、まるで夢中だった。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。