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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  152

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 ストゥヴァン家には十三、四歳の少女がいて、クリストフはこれにも、コレットと同時に稽古《けいこ》を授けていた。
 彼女はコレットの従妹《いとこ》で、グラチア・ブオンテンピという名前だった。

 金色の顔色をした少女で、頬骨《ほおぼね》の肉が軽く薔薇《ばら》色を帯び、頬がふっくらとして、田舎《いなか》娘のような健康をもち、
 やや反《そ》り返った小さな鼻、
 いつも半ば開いてる切れのいい大きな口、
 まっ白な円い頤《あご》、
 やさしく微笑《ほほえ》んでる静安な眼、
 長い細やかな房々《ふさふさ》した髪に縁取られてる円《まる》い額《ひたい》、
 そしてその髪は、縮れもせずにただ軽いゆるやかな波動をなして、顔にたれていた。

 静かな美しい眼つきをした、顔の大きな、アンドレア・デル・サルトの幼い聖母に似ていた。
 彼女はイタリーの者だった。
 両親はほとんど一年じゅう北部イタリーの田舎《いなか》の、大きな所有地に住んでいた。

 野原や牧場や小さな運河などがあった。
 屋上の平屋根からは、金色の葡萄《ぶどう》畑の波が足下に見おろせた。
 黒いとがった糸杉《いとすぎ》の姿がところどころにそびえていた。

 その向こうには畑がうちつづいていた。
 閑寂だった。
 地を耘《うな》ってる牛の鳴声や、犁《すき》を取ってる百姓の甲《かん》高い声が聞こえていた。

 「シッ!……ダア、ダア、ダアー!……」
 蝉《せみ》が木の間で鳴いていた。蛙《かえる》が水のほとりに鳴いていた。
 そして夜には、銀の波をなした月光の下に、無限の静寂があった。

 遠くで、柴《しば》小屋の中にうとうとしてる収穫の番人らが、眼覚《めざ》めてることを盗人に知らせんがため、時々小銃を打っていた。
 半ば眠りながら聞く人々にとっては、その音も、夜の時間を遠くで刻んでる、平和な時計の音と異ならなかった。
 そして静寂はまた、襞《ひだ》の広い柔らかなマントのように、人の魂を包んでいった。

 小さなグラチアの周囲では、人生が眠ってるかのようだった。
 人々はあまり彼女に干渉しなかった。
 彼女は美しい静穏のうちに浸って、静かに生長していった。
 いらだちも気忙《きぜわ》しさもなかった。

 彼女は怠惰で、ぶらついたり寝坊したりするのが好きだった。
 幾時間も庭の中に寝そべっていた。
 夏の小川の上の蝿《はえ》のように、静寂の上に漂っていた。

 そして時とすると、理由もなく突然走り出すことがあった。
 頭と上半身とを軽く右に傾けながら、しなやかに暢々《のびのび》として、小さな動物のように駆けた。
 飛びはねる面白さのために石ころの間を登ったり滑《すべ》ったりする、まったくの子山羊《やぎ》であった。

 また彼女は、犬や蛙や草や木や、家畜場の百姓や動物などを相手に、話をした。
 周囲の小さな生物が非常に好きだった。
 大きなものも好きだった。
 しかし大きなものにたいしては、さほど夢中にはならなかった。

 彼女はごくまれにしか客に接しなかった。
 この土地は町から遠くて、かけ離れていた。
 日焼けのした顔に眼を輝かし、頭をもたげ胸をつき出して、ゆったりした歩き方をする、真面目《まじめ》くさった百姓や田舎《いなか》娘が、埃《ほこり》の多い街道の上を、引きずり加減の足取りで、ごくまれに通っていった。

 グラチアはただ一人で、ひっそりした庭の中で幾日も過ごした。
 だれにも会わなかった。
 決して退屈もしなかった。
 何にも恐《こわ》くはなかった。

 ある時一人の浮浪人が、人のいない農場へ鶏を盗みにはいった。
 すると、小声で歌いながら草の上に寝そべって、長いパンをかじってる少女に出っくわして、びっくりして立ち止まった。
 彼女は平気で男をながめて、なんの用かと尋ねた。

 男は言った。
 「何かもらいに来たのだ。くれなけりゃひどいことをするぞ。」
 彼女は自分のパンを差し出した。
 そして微笑を浮かべた眼で言った。
 「ひどいことをするものではありませんよ。」
 すると男は立ち去っていった。

 彼女の母は死んだ。
 父はいたってやさしく、気が弱かった。
 彼はりっぱな血統の老イタリー人で、強健で快活で愛想がよかったが、しかし多少子どもらしいところがあって、娘の教育を指導することがとうていできなかった。

 その老ブオンテンピの妹に当たるストゥヴァン夫人は、葬式のためにやって来て、娘の一人ぽっちな境遇にびっくりし、喪の悲しみを晴らしてやるために、彼女をしばらくパリーへ連れて行こうとした。

 グラチアは泣いた。
 年とった父も泣いた。
 しかしストゥヴァン夫人が一度思い定めた以上は、もうあきらめるよりほかに仕方がなかった。
 彼女に逆らうことはとうていできなかった。

 彼女は一家じゅうでのしっかり者だった。
 パリーの家においてさえ、すべてを支配していた。
 夫をも娘をも、また情人らをも。

 というのは、彼女は義務と快楽とを同時にやってのけていた。
 実際的でしかも熱情的だった。
 そのうえ、きわめて社交的で活動的だった。

 パリーに連れて来られると、もの静かなグラチアは、美しい従姉《いとこ》のコレットが大好きになった。
 コレットは彼女を面白がった。
 人々はこのやさしい小さな芽生《めば》えを、社交裡《り》に引き入れたり芝居に連れていったりした。

 彼女はもう子どもではないのに、皆から子どもとして取り扱われ、自分でもやはり子どものように思っていた。
 心の中の感情を押し隠していたし、その感情を恐がっていた。
 それはある物もしくはある人にたいする愛情の跳躍だった。

 彼女はひそかにコレットを慕っていた。
 コレットのリボンを盗みハンケチを盗んだ。
 その面前で一言も口がきけないこともしばしばだった。
 コレットを待っていたり、これからコレットに会えるのだとわかっていたりする時には、待ち遠しさとうれしさとで震えていた。

 芝居で、胸を露《あら》わにした美しい従姉《いとこ》が、同じ桟敷《さじき》の中にはいって来て、衆目をひくのを見る時には、彼女は愛情のあふれたやさしいつつましい微笑《ほほえ》みを浮かべた。
 そしてコレットから言葉をかけられると、気がぼーっとなった。白い長衣をまとい、ふうわりと解いた美しい黒髪を褐色《かっしょく》の肩にたらし、長い手袋の先を口にかみ、手もちぶさたのあまりにはその切れ目へ指先をつっ込みながら、芝居の間じゅうたえず彼女は、コレットの方へふり向いては、親しい眼つきを求めたり、自分が感じてる楽しみを分かとうとしたり、または褐色《かっしょく》の澄んだ眼で言いたがった。

 「私あなたを愛しててよ。」
 パリー近郊の森の中を散歩する時には、彼女はコレットの影の中を歩み、その足もとにすわり、その前へ駆け出し、邪魔になるような枝を折り取り、泥濘《ぬかるみ》の中に石を置いたりした。ある夕方庭の中で、コレットは寒けを覚えて、彼女にその肩掛をかしてくれと頼むと、彼女は、自分の愛してる人が自分の物を少し身につけてくれ、次にその身体の香《かお》りがこもったままを返してもらえるといううれしさのあまり、思わず喜びの声をたてた。
 あとでそれを恥ずかしく思いはしたが。

 彼女に楽しい胸騒ぎを起こさせるものとしては、なおその他に、ひそかに読んでる詩集――(彼女はまだ子どもの書物だけしか許されていなかったので)――のあるページがあった。
 それからさらに、ある種の音楽があった。

 皆からは音楽がわかるものかと言われていたし、自分でも何にもわからないと思い込んでいたが、しかしそれでも、感動のあまり顔色を変え汗ばんでいた。
 そういう時彼女のうちに何が起こってるかは、だれも知らなかった。

 その他の点においては、彼女はいつもおとなしい小娘で、うっかりしていて、怠惰で、かなり食い辛棒《しんぼう》で、なんでもないことに顔を赤らめ、あるいは幾時間も黙り込み、あるいは快活にしゃべりたて、すぐに笑ったり泣いたりし、しかも突然のすすり泣きや子どもらしい笑い方をするのだった。

 彼女は笑うのが好きで、つまらないことを面白がった。
 決して大人《おとな》ぶるところがなかった。
 まだ子どものままだった。

 ことに彼女は善良で、人に心配をかけることを苦にし、また少しでも人から小言《こごと》を言われるのを苦にした。
 ごく謙遜《けんそん》で、いつでも引っ込みがちで、美しいとかりっぱだとか思えるようなものは、なんでも愛したがり感嘆したがっていて、他人のうちに実際以上の美点をみて取りがちであった。

 彼女の教育はたいへん遅れていたので、人々はそれに気を配った。
 かくて彼女は、クリストフについてピアノの稽古《けいこ》を受けた。

 彼女は叔母《おば》の家の夜会で初めてクリストフに会った。
 たくさんの人が集まっていた。
 クリストフは聴衆に応じて機宜の処置を取ることができなかったので、長々しいアダジオを一つ演奏した。

 皆は欠伸《あくび》をしだした。
 曲は終わるかと思うとまた始まっていた。
 いつになったら終わるか見当がつかなかった。

 ストゥヴァン夫人はじりじりしていた。
 コレットはこのうえもなく面白がっていた。
 事情の滑稽《こっけい》さを残らず味わっていた。
 かくまでクリストフが無頓着《むとんじゃく》なのを不快に思うわけにはゆかなかった。

 彼が一つの力であることを彼女は感じて、かえって同情の念が起こった。
 しかしまた滑稽でもあった。
 そして彼を弁護してやることをよく差し控えた。

 ただ小さなグラチア一人が、涙を浮かべるほどその音楽に感動していた。
 彼女は客間の片隅《かたすみ》に隠れていた。
 しまいには、自分の感動を人に見られたくないので、またクリストフが嘲笑《ちょうしょう》されるのを見るのがつらくて、逃げ出してしまった。

 数日後に、晩食の時、ストゥヴァン夫人は彼女の前で、クリストフからピアノの稽古を受けさせることを話した。
 グラチアははっとして、スープ皿《ざら》の中に匙《さじ》を取り落し、自分と従姉《いとこ》とにスープをはねかけた。

 コレットは、行儀よく食卓につく教えをまず受けるべきだと言った。
 ストウヴァン夫人は、その方面のことはクリストフには頼めないと言い添えた。
 グラチアは、クリストフといっしょにしてしかられたのがうれしかった。

 クリストフは稽古《けいこ》を始めた。
 彼女はいやに堅くとりすまして、両腕が身体に糊《のり》付けになり、身動きすることもできなかった。
 クリストフが彼女の小さな手の上に自分の手を置き添えて、指の位置を直しそれを鍵《キー》の上に広げてやる時、彼女は気が遠くなるような心地がした。

 彼女は彼の前でひき損じはすまいかとびくびくしていた。
 しかし、病気になるほどつとめても、従姉《いとこ》にじれったがった叫び声をたてさせるほどつとめても、クリストフがそばにいる間はいつもひき損じてばかりいた。

 息もろくにできないし、指は木片のように堅くなったり、綿のように力なくなったりした。音符にまごついたり、アクセントを逆にしたりした。
 クリストフは彼女をしかり飛ばして、むっとして立ち去った。
 すると彼女は死にたいほどつらかった。

 彼は彼女になんらの注意をも払っていなかった。
 彼はただコレットにばかり心を向けていた。
 グラチアは従姉とクリストフとの親交をうらやんだ。
 しかし、それがたとい苦しいことだったとはいえ、彼女の善良な小さな心は、コレットとクリストフとのためにそれを祝していた。

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