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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  55

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    一四 ふみにじられた帽子


 次郎が、中学校入学式で講堂にはいった時、まず第一に眼についたのは、正面右側に掲げてある、すばらしく大きな額だった。
 それには「進徳修業」の四字が、まるで箒の先ででも書いたように、乱暴にならんでいた。

 次郎は、ただその大きさと乱暴さとに驚いただけで、ちっともいい字だとは思わなかった。
 どうして、こんな乱暴な字を額になんかしてあるんだろう。
 彼は、そう思って、すぐ眼を左の方に転じた。
 左正面にも、同じ大きさの額がかかっていた。

 しかし、それには、平仮名まじりの文章が四箇条ほど箇条書きにしてあったので、さほど大きくは見えなかった。
 字もていねいだった。
 書体は少しくずしてあったが、次郎にも読めないほどではなかった。
 彼は、他の新入生たちが何かこそこそ囁きあっているひまに、念入りにそれを読んでみた。

 文句は次のとおりであった。
 一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事
 一、主君の御用に立つべき事
 一、親に孝行仕るべき事
 一、大慈悲をおこし人の為になるべき事

 次郎は、武士道という言葉の意味を、はっきりとは知っていなかった。
 しかし、第一条はよくわかるような気がした。
 第二条と第三条とは、これまで修身の時間で十分教わって来たことだし、べつに珍しいとも思わなかった。

 親孝行のことを、自分の境遇にあてはめて考えてみようという気にも、まるでならなかった。
 ただ、この二箇条をなぜはじめの方に書いてないのだろう、と、それがちょっと不思議に思えた。
 第四条の「慈悲」という言葉が、妙に彼の心をとらえた。
 彼はその言葉の意味を「武士道」という言葉の意味以上に知っていたわけではなかったが、その字を見た瞬間、すぐ正木のお祖母さんのことを思い起したのだった。

 「慈悲深い方だ。」
 「仏様のような方だ。」
 これが正木のお祖母さんの噂をする時に、村人たちがいつも使う言葉だったのである。
 次郎は、何度も大慈悲の一条をよみかえした。
 そして、正木のお祖母さんが、自分や、家庭の者や、村人たちに対して、言ったりしていたことを、いろいろと回想してみた。

 そのうちに、彼は、嬉しいとも淋しいともつかぬ、妙な感じに襲われて来た。
 そして、それからそれへと連想がつづいて、正木のお祖母さんとお墓詣りをしたことから、ついには、亡くなった母の顔までが思い出されて来るのだった。

 左側の窓の上の壁には、一間おきぐらいに大きな油絵がかかっていた。
 それは、すべて、郷土出身の維新当時の偉人の肖像画だった。
 次郎は、見るともなくそれを見ているうちに、その下に、新入生の父兄たちが、顔をずらりとならべているのに気づいた。

 次郎は、すばやく、その中に父の顔を見つけた。
 父も彼を探していたらしく、視線がすぐぶっつかった。
 次郎は少し顔を赧らゆて、眼をそらし、今度は右の方を見た。
 右側の壁には、軍人の写真の額が一尺おきぐらいにかかっていた。
 次郎は、多分学校出身の戦死者の額だろうと思い、いちいちその下に書いてある名前を見たいと思ったが、自分の位置がずっと左側になっていたので、よく見えなかった。

 やがて、型どおりの式が進んで、校長の訓辞がはじまった。
 校長は、五分刈で、顎骨の四角な、眼玉の大きい、見るからに魁偉《かいい》な感じのする、五十四五歳の人だった。
 いくぶん中風気味らしく、おりおり顎や手が変にふるえていたが、その大きな眼玉からは、人を射るような鋭い光が流れており、しかも、その中に、どこか人の心をひきつけるようなやさしさが漂っていた。

 次郎は、校長が壇に立った瞬間から、何かしら、気強い感じがした。
 「私が本校の校長、大垣洋輔じゃ。」
 校長はまずそう言って口を切った。

 訓辞は、そう永くなかった。
 「君らは日本の少年の中の選士である。
  選士に何よりも大切なのは、へりくだる心と慈悲心でなければならない。
  そういう心をもった人だけが、ほんとうに正しい努力をする。
  正しい努力をする人だけが、ほんとうに伸びる。
  伸びる人であってこそ真の選士といえるのだ。
  傲慢な人や、無慈悲な人には正しい努力がない。
  そういう人は一見強そうに見えて弱いものだ。
  それは生命の伸びる力がとまっているからだ。

  君らは決してそんな人間になってはならない。
  学問においても心の修養においても、伸びて伸びやまない人間になってもらいたい。
  それでこそ日本が伸びるのだ。
  へりくだる心、慈悲心、そして伸びる日本。
  諸君を迎える私の第一の言葉はこれである。」
 だいたいそういった意味のことであった。

 それでも、二三の実例をあげてわかりやすく話したので、十四五分間はかかった。
 そのあと校長は、父兄の方に向かって自分の教育方針を話し、それで式は終った。
 「りっぱな校長先生だな。」
 式がすんで、校門を出ると、俊亮は次郎を顧みて何度もそう言った。
 次郎は嬉しかった。

 翌日はさっそく始業式だった。
 次郎が驚いたことには、組主任の先生に引率されて講堂にはいると、新入生の坐るすぐ右側の席に、もう五年生らしい生徒が高い塀のように並んでおり、その多くが、気味のわるい眼付をして、じろりじろりと新入生たちを睨めまわしていることだった。

 次郎は、席につくと、頸をちぢめ、そっと隣の新入生にたずねた。
 「僕たちの右の方に並んでいるの、五年生?」
 「そうさ、五年生だよ。
  五年生の右が四年生で、三年生と二年生とが僕たちのうしろに並ぶんだよ。
  この学校では、一学期の始業式には、新入生との対面式があるんだから、
  いつもそうだってさ。」
 隣の新入生は、いかにも物識《し》り顔に答えた。

 次郎は、なぜかいやな気がして、それっきりうつむいてばかりいた。
 やがて先生たちの顔がそろい、最後に校長がはいって来て、すぐに壇上に立った。
 そして、一同の敬礼をうけると、
 「唯今より、二年以上の生徒と、新入学生との対面式を行う。」
 と言った。

 対面式は、べつに面倒なものではなかった。
 一年が右に、四年五年が左に、それぞれ向きをかえ、二年三年はそのままで、体操の先生の号令で、同時に敬礼をしあうだけだった。
 しかし、次郎の気持をいよいよ不愉快にしたのは、すぐ眼の前の五年生が、号令では頭を下げないで、一年生が顔をあげた頃になって、やっとばらばらに、礼を返したことだった。
 しかも、その顔付は、礼を返しているというよりも、あざ笑っているといった方が適当であった。

 対面式がすむと、校長の始業式の訓話が始まった。
 まず新入生の方を向いて、上級生に兄事する心得を説いたが、それはほんの二三分で、校長の顔はいつのまにか五年生の方を向いていた。
 顔が五年生の方に向くと同時に、言葉の調子も高くなり、その眼付も光って来た。

 そして、
 「どんなわずかな力でも、それを不正なことに使ってはならない。
  不正なことというのは慈悲心のない行いじゃ。
  武士道におくれをとらないというのも、慈悲心が内にみなぎっていてはじめて出来ることで、
  それがなくては、武士道も何もあったものではない。
  よろしいか。
  本校の生徒はみんな涙のある人間になってくれ。
  涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 と、演壇の端まで乗り出して来て言った時には、もうどう見ても、五年生にだけ話しているとしか思えなかった。

 その時、五年生の中にはごく少数ではあったが、お互いに顔を見合って、変ににやにやしたり、傲然とのび上って、校長の顔をにらみ返すようなふうをしたりする者があった。
 次郎は、横からでよく見えなかったが、出来るだけ五年生の表情に注意していた。
 そして、何かしら、不安なものを胸の底に感じた。

 式がすんだあと、教室で組主任からこまごまと注意があった。
 それでその日の予定は終りであった。
 ところが、組主任の先生は、自分の注意が終ったあと、気の毒そうな顔をして言った。
 「五年生たちが、校風をよくするために、君らに雨天体操場に集まってもらって、
  何か話したいと言っている。
  これは毎年の例だ。
  間もなく誰かが迎えに来るだろうから、しばらくここで待っていてもらいたい。
  自分は今から職員会議があるから、その方に行く。」
 そう言って先生はすぐに出て行った。

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