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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  149

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 ルーサンおよびその仲間の者らが、それらの人物を統御する力を自信してるのみでなく、またその力を濫用するの権利をも自信してることについては、クリストフも明らかにその理由を見て取っていた。
 統御の道具立ては彼らに不足していなかった。

 なんらの意志もなく盲目的に服従してる、無数の役人。
 阿諛《あゆ》的な風習、共和党員のない共和国。
 巡遊の王者の前に歓喜してる、社会主義の新聞。
 肩書や金モールや勲章の前に平伏してる奴僕的な魂。
 それらを制御するには、しゃぶるべき骨を、レジオン・ドヌール動章を、餌《え》として投げてやれば十分だった。
 もし一の王者があって、フランスの公民をことごとく貴族にしてやると約束したならば、フランスの公民は皆王党になったかもしれない。

 政治家らは好機に際会していた。
 一七八九年の三つの階級のうち、第一の階級は滅亡していた。
 第二の階級は放逐されるか嫌疑《けんぎ》を受くるかしていた。
 第三の階級は勝利に飽いて眠っていた。

 そして今や、脅威的な排他的な姿で擡頭《たいとう》してきた第四の階級は、屈服させるのにまだ困難ではなかった。
 頽廃《たいはい》したローマが野蛮人の群れを取り扱ったと同じように、頽廃したフランス共和政府はこの第四階級を取り扱っていた。

 ローマはもはや野蛮人らを国境外に掃蕩《そうとう》する力がなくて、彼らを自分のうちに合体させ、そして間もなく彼らは最上の番犬となってしまったのである。
 社会主義者だと自称してるブールジョア階級の代表者らも、労働階級の選良中の最も知力すぐれた人々を、隠密《おんみつ》に引きつけ併合していた。
 彼らは無産党からその首領らを切り放し、その新しい血を自分のうちに注入し、その代わりには、ブールジョア的観念を彼らにつめこんでいた。

 ブールジョア階級が試みてる民衆併合の企てのうちで、当時最も不思議な実例の一つは、通俗大学であった。
 それは、人の知り得るあらゆる事物の知識を雑然と並べた、小さな勧工場だった。

 そこで教えることになってる科目は、綱領の示すとおり、「物理学や生物学や社会学などの知識の各部門、すなわち、天文学、宇宙学、人類学、人種学、生理学、心理学、精神病学、地理学、言語学、美学、論理学、その他」であった。

 しかし、ピコ・デラ・ミランドラの頭を割ってぶちまけたとて、それがなんの役にたつものか!

 もとより、通俗大学のあるもののうちには、その起原においては、誠実な理想主義、真や美や精神生活やを万人に分かとうとする要求が、存在していた。
 それはりっぱな事柄だった。

 一日の激しい労働を終わって、狭い息苦しい講堂にやって来、疲労よりもさらに強い知識欲をいだいてる、それら労働者らの集まりは、感嘆すべき光景を呈していた。
 しかしながら、いかに人々はそれら憐《あわ》れな者たちを濫用したことだろう!

 知力すぐれ慈心ある少数の真の使徒に比して、巧者だというよりもむしろりっぱな意向をもった少数の善良な心の人に比して、愚者、饒舌《じょうぜつ》家、陰謀家、読者のない著作家、聴衆のない弁舌家、教師、牧師、巧弁家、ピアニスト、批評家、すべて自分の製作物で民衆をおぼらそうとする徒輩が、いかに多かったことだろう。

 彼らは各自に自分の商品を並べたててばかりいた。
 最も客を多く呼んだ者は、いうまでもなく、香具師《やし》、哲学的駄弁《だべん》家、天国的な社会を匂《にお》わして一般的観念を盛んにこね回してる連中であった。

 通俗大学はまた、頽廃《たいはい》的な彫刻や詩や音楽など、極端に貴族的な審美主義のはけ口であった。
 人々は思想を若返らせ民族を再生させるために、民衆の君臨を望んでいた。
 そしてまず手始めに、ブールジョア階級の精練さを民衆に移し伝えていた。

 民衆はそれをむさぼるように受け取っていた。
 それが気に入ったからではなくて、それがブールジョア的なものだったからである。

 クリストフはある時、ルーサン夫人からそれら通俗大学の一つに案内されたが、そこで、ガブリエル・フォーレの優しき歌とベートーヴェンの晩年の四重奏曲の一つとの間にはさんで、ドビュッシーの作を彼女が民衆に演奏してきかせるのを聞いた。

 彼は趣味と思想との徐々の進歩につれて、幾年もの時日を経た後にようやく、ベートーヴェンの晩年の作が理解できるようになったのだった。
 それで彼は気の毒そうに隣席の一人に尋ねた。
 「君にあれがわかりますか。」

 相手の男はあたかも怒った牡鶏《おんどり》のように憤然とした様子をして言った。
 「わかるとも。君くらいには俺《おれ》にだってわからないことがあるものか。」
 そして、理解してることを証明するために、喧嘩《けんか》腰でクリストフをながめながら、一つの遁走《とんそう》曲を復吟した。

 クリストフは狼狽《ろうばい》して逃げ出した。
 あいつどもは国民の生きたる源泉をまで害毒してしまっている、と彼は考えた。
 もはやそこには民衆は存在しなかった。

 「お前たちだって民衆だ!」と民衆劇場を建設しようと企ててるかかる善人どもの一人に、ある労働者が言った言葉どおりだった。
 「俺もお前たちと同じくブールジョアだぜ!」

 ある夕方、やや褪《あ》せた温《あたた》かい色彩の東方産の絨緞《じゅうたん》のような柔らかい空が、薄暗い都会の上に広がってる時、クリストフは河岸通りに沿って、ノートル・ダームからアンヴァリードの方へやって行った。
 たれこめてきた闇《やみ》の中には、戦いの最中に振り上げてるモーゼの腕のように、大寺院の塔がそびえていた。

 サント・シャペル会堂の黄金彫りの尖頂《せんちょう》が、花咲ける聖《きよ》き棘《いばら》が、立ち込んだ屋並みから突き出ていた。
 流れの彼方《かなた》には、ルーヴル美術館の厳《おごそ》かな正面が広げられていて、その退屈そうな小窓には、夕陽《ゆうひ》が生々とした残照を投げていた。

 廃兵院の広地の奥、その濠《ほり》や高い壁の後ろ、厳粛な寂寞《せきばく》さの中には、遠い昔の戦勝の交響曲のように、薄黒い金色の円《まる》屋根が浮き出していた。
 そして凱旋門《がいせんもん》は、勇敢なる進軍のように、帝国軍団の超人間的な大跨《おおまた》を、丘の上に踏み開いていた。

 クリストフはにわかに、巨人の死骸《しがい》の大なる手足が平野を覆《おお》うているような印象を受けた。
 彼は恐怖に胸迫って、そこに立ち止まりながらながめやった。
 地上から消え失《う》せた物語めいた巨人の化石を、かつては全世界がその足音を聞いた巨人の化石を。

 それは、廃兵院の円屋根を頭にいただき、大堂宇の無数の腕で空を抱いてるルーヴル美術館を帯にまとい、ナポレオン凱旋門の堂々たる両足を世界に踏み広げてる、一民族であった。
 しかし今では、この凱旗門の踵《かかと》の下に、侏儒《しゅじゅ》どもが蠢動《しゅんどう》していた。

 クリストフは名声を求めはしなかったが、シルヴァン・コーンやグージャールから紹介されて、パリー社会にかなり知られていた。
 芝居の初日や音楽会などで、この二人の友人のいずれかといっしょにいつも見出せる、彼の顔つきの独特さ、またその非常な醜さ、その身体つきや服装や唐突《とうとつ》拙劣な素振りなどの滑稽《こっけい》さ、時々その口から漏れる矛盾した奇抜な言葉、垢《あか》ぬけはしていないがしかし広い強健な知力、また、ドイツでの脱走や官憲との喧嘩《けんか》やフランスへの逃亡などについて、シルヴァン・コーンがふれ歩いた小説的な物語、それらのものは、世界一家的な大客間となってるこの全パリーの、閑散でまたたえず働いてる好奇心の的と彼をなしてしまった。

 そして彼が、自己の意見を吐かずにただ観察し傾聴し理解に努力しながら、控え目にしてる間は、その作品や思想の根底が人から知られない間は、皆からかなりよく思われていた。

 フランス人らは彼がドイツにとどまっていられなかったことを幸いだとしていた。
 ことにフランスの音楽家らは、ドイツの音楽に関するクリストフの苛酷《かこく》な批判を、自分らになされた敬意ででもあるかのように感謝していた。

 それも実際はすでに陳腐《ちんぷ》な批判であって、彼自身ももはや今日では賛成できかねるようなものが多かった。
 そういう四、五の論説が近ごろドイツの一雑誌に掲げられたので、シルヴァン・コーンはその奇警な逆説を人に言い伝え誇張していたのだった。

 クリストフは人々の興味をひくだけで、少しもその邪魔にはならなかった。
 彼はだれの地位をも奪いはしなかった。
 一派の大立物となることも、彼一人の思いのままだった。
 何にも書かないでもよいし、もしくはできるだけわずかしか書かないでもよいし、ことに自分の作を少しも人に聞かせなくても済むし、グージャールみたいな連中に思想を供給してやるだけで十分だった。
 この連中は有名な言葉を格言としていた――ただ少しそれを修正して。

 私の杯《さかずき》は大きくはないが、しかし私は……他人の杯で飲む。

 強い性格は、行動するよりもむしろ感ずることの方が多い青年らにたいして、ことにその光輝を働かせるものである。
 クリストフの周囲には青年が乏しくはなかった。

 一般にそれらの青年は、閑《ひま》な連中で、意志もなく、目的もなく、存在の理由をも有せず、勉強の机を恐れ、自分一人になるのを恐れ、肱掛椅子《ひじかけいす》にいつまでもすわり込み、自分の家に帰って自分自身と差し向かいになることを避けるためには、あらゆる口実を設けながら、珈琲店や芝居をうろつき回っていた。

 彼らは無味乾燥な談話に加わりに来、そこに腰を落ち着け、幾時間もぐずついていた。
 ようやく立ち上がる時には、胃袋が妙にふくれきり、胸糞《むなくそ》の悪い気持になり、飽き飽きしながら物足りなくて、もっとつづけたくもあればまたつづけるのが厭《いや》でもあるのだった。

 そういう青年らがクリストフを取り巻いていた。
 あたかも、生命にすがりつくために一つの魂へ取りつこうとうかがってる「待ち伏せの怨霊《おんりょう》」、ゲーテのいわゆる尨犬《むくいぬ》、のようであった。

 虚栄心の強い馬鹿者なら、そういう寄生虫の取り巻き連中を喜んだかもしれない。
 しかしクリストフは偶像の真似《まね》をしたくなかった。
 そのうえ、彼がなしてることのうちに、ルナン式の、ニーチェ式の、ローズ・クロア的な、雌雄両性的の、へんてこな意向があると思ってるそれら賛美者らの、馬鹿《ばか》げきった生意気さに彼はぞっとした。

 彼は皆を追っ払ってしまった。
 彼は受動的な役目を演ずべき人間ではなかった。
 彼のうちではすべてが行動を目的としていた。
 彼は理解せんがために観察していた。
 そして行動せんがために理解したがっていた。

 偏見の拘束を受けないで、彼はすべてを調べ、音楽に関しては、各国各時代の思想の形式や表現の方法を、ことごとく研究していた。
 そして真実だと思われる点は、皆取り用いていた。
 彼が研究していたフランス芸術家らは、新式の巧みなる発明者で、たえず発明することに苦心し、しかもその発明を中途で放擲《ほうてき》してしまうのであったが、彼はそれと異なって、音楽の言葉を改新することよりもむしろ、それをさらに力強く話すことにつとめていた。

 彼は珍奇でありたいとは少しも心掛けなかったが、力強くありたいと心掛けていた。
 そういう熱烈な気力は、繊巧と適宜とのフランス精神とは反対だった。
 様式のための様子を、その気力は軽蔑《けいべつ》していた。
 彼にとっては、フランスの優良な芸術家らも贅沢《ぜいたく》品職工のように思われた。

 パリーの最も完全な詩人の一人は、「各自の商品や生産品や見切品を付した現代フランス詩壇の労働表」をこしらえて面白がっていた。
 そして、「玻璃《はり》製の大燭台《だいしょくだい》、東方諸国の織物、金や青銅の記念牌《はい》、未亡人用の透かしレース、彩色彫刻、花模様の陶器」など、仲間のたれ彼の工場からこしらえ出されるものを、列挙していた。

 彼自身もまた、「文芸の大製作所の片隅《かたすみ》に、古い絨緞《じゅうたん》を繕ったり廃《すた》れた古代の鎗《やり》をみがいたり」してるところを示していた。
 手工の完成をのみ注意してる、かかる良職工観みたいな芸術家観にも、美が存しないではなかった。

 しかしそれはクリストフを満足させなかった。
 彼はそこに職業的威厳を認めはしたが、それが懐抱する生命の貧弱さを軽蔑していた。
 彼には書くために書くということが考えられなかった。
 彼は言葉を言いはしないで、事柄を言っていた――言いたがっていた。

 彼らは事柄を言えど汝《なんじ》らは言葉を言うのみ……。

 クリストフの精神は、新しい世界を吸収するだけの休息の時期を経た後に、にわかに創作の欲求にとらえられた。
 パリーと自身との間に感ぜられる反対性は、彼の個性を際《きわ》だたせながら彼の力を倍加せしめた。
 ぜひとも自己表現を求める熱情の溢漲《いっちょう》であった。

 その熱情は各種のものだった。
 彼はそのすべてから、同様の激しさで刺激された。
 彼は作品をこしらえ出して、心に満ちている愛情やまたは憎悪《ぞうお》を放散せざるを得なかった。

 また、意志をも忍諦《にんてい》をも、彼のうちで衝突し合ってたがいに同等の生存権をもってるあらゆる悪魔を、放散せざるを得なかった。
 一作品の中に一つの熱情の荷をおろすや否や――(時とするとその作品を終わりまで書きつづけるだけの忍耐がないこともあった)――すぐに彼は反対の熱情に落ち込んでいった。

 しかしその矛盾は表面のみだった。
 彼は常に変わりながらも、常に同じだった。
 彼のあらゆる作品は、同一の目的に達する種々の道筋だった。
 彼の魂は一つの山嶽《さんがく》であった。

 彼はそのあらゆる道を進んだ。
 ある道は羊腸《ようちょう》として木陰にたゆたっていた。
 ある道は日にさらされて険峻《けんしゅん》な坂をなしていた。
 そしてそのすべてが、山頂に鎮座してる神へ達するのだった。

 愛情、憎悪、意志、忍諦、すべて極度に達した人間的な力は、永遠に接触してすでに永遠を分有するものである。
 人は各自分のうちに永遠なるものをもっている、信仰者も無信仰者も、至るところに生命を見出す者も、至るところに生命を否定する者も、生命や否定や万事を疑う者も。
 またそれらたがいに矛盾する事柄を同時に魂の中に抱擁していたクリストフも。

 そしてあらゆる矛盾は永遠の力の中に融《と》け込んでしまう。
 クリストフにとって重要なことは、その力を自分のうちにまた他人のうちに呼び覚《さ》ますこと、火炉の上に一かかえの薪《まき》を投ずること、永遠をして燃えたたせることであった。

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