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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  146

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 「仕事って何ができるのかしら」
 政治的な活動をする女になるということを、考えたことがなかった。
 だけれども、伸子が日本人で、モスクワへのこり、日本へ帰らなくなるとすれば、モスクワでその立場は、政治的である以外にありようないわけであった。
 伸子がこれまで、トゥウェルスカヤの通りや並木道《ブリワール》ですれちがったとき、こっちから行く伸子を目に入れるとにわかに日本人だか中国の人だか区別のつかない表情をよそおって通りすぎて行った日本人らしい人たち。
 その仲間にはいること以外に、伸子がモスクワにとどまっての生活は考えられない。

 伸子は、亢奮して来た。
 自分がモスクワにとどまってもいい者として判断されているということ。
 伸子の心臓はこの申出によって、口からとび出しそうにはげしく波うった。
 思ってもいないことだった。
 自分がそのようにみられていた、ということは。

 でも、
 「わたしに出来ることがあるのかしら」
 心配そうに、伸子はいくらか声をおとした。
 伸子のような者がその仕くみのなかに参加するにしては、山上元という名につながるすべての機構が、あんまり巨大であり、権威にみたされている。
 「いくらだってすることはあるさ」

 山上元は、ふたたびテーブルの下へ、ずっと両脚をのばした姿勢で、こんどは真正面から、動顛した伸子の、上気して、ほてっている顔を見つめた。
 「何も心配することは、ありゃしない。
  こっちにいて、いくらでも日本の小説を書けばいいんだ。
  外国の作家でも、こっちにいて小説をかいているのは珍しくも何ともないよ」

 ベラ・イレッシュは亡命してモスクワに来ているハンガリーの小説家だった。
 彼の写真と作品が小説新聞《ロマン・ガゼータ》の特輯として発行されているのを伸子も買った。
 イレッシュは亡命して来ている小説家だった。
 イレッシュは小説だけを書いていた人ではなかった。
 故国のハンガリーで革命のために活動して、その結果、その収穫をもって、モスクワへ来た。

 自分は、日本でどういう風に生活していただろう。
 伸子は、山上元が、何かの思いちがいをしているならばわるいと思った。
 彼が、伸子について何かを知っているとすれば、それがむしろ不思議だと云えるくらいだった。
 伸子は日本のプロレタリア文学運動にさえ無関係だったのだから。

 「本国で、何かちゃんと活動して来たのなら、
  こっちで、小説をかいても役に立つかもしれないけれども。
  御存知だと思うんですが、わたしは、そうじゃないんです」
 「そりゃよくわかっているさ。
  しかし、きみぐらいの技術と経験があれば、何もここにいたからって、
  日本の小説が書けないと、きまったものでもないだろう。
  僕を見なさい。
  僕は、もう二十年日本をはなれているよ。
  しかし、日本の現実について、ちゃんとわかることができるし、
  情勢の判断も出来ている。」

 「そりゃ、報告をもっていらっしゃるから」
 伸子は思わず高い声を出した。
 「もちろん、そうさ。
  報告によって書くんだが、小説だって大してちがいはしない」
 はげしい動揺と混乱の間で、山上元のこの言葉は、伸子に自分というものが、立つ、小さな場所を与えた。

 山上には、文学の作品がどんな工合にしてうまれるものか、全然理解されていない。
 「あなたが、報告によっていろんな問題を具体的に判断おできになるのは、
  何と云ったって、日本で、自分で、
  労働運動をやっていらしたからじゃないでしょうか?」
 「うん、それはそうだ」
 しばらく、二人の間に話がとぎれた。

 やがて山上が伸子にきいた。
 「日本では、いま本をどの位発行しているかね?」
 「部数ですか?」
 「うん」
 「文学書は、千か二千ぐらいじゃないでしょうか。
  大菩薩峠なんてものは、何万でしょうが」

 「そんなものか。
  君の本なんかは、どうかい?」
 「わたしのなんか、少いですよ」
 伸子は、いくらかくつろいだ笑顔をした。
 「こっちへ来る前にかいた長篇は、千と二千の間だったようです」
 「そんなことじゃ仕様がない!」
 白髪の頭を山上元はきつくふった。

 「プロレタリア作家の本も、日本じゃそんなに少ししか売れないのかい?」
 「それはもっと多いでしょう。
  『戦旗』だって、かなり出ているらしいし、『太陽のない街』や『蟹工船』は、
  もちろんもっと出ています」
 「それだって日本じゃどうせ高がしれたもんだろう。
  こっちじゃ、ファジェーエフの作品なんか百万部よまれているよ」

 それはそのわけだった。
 図書館、労働者クラブ、学校・工場・役所の図書室、ソヴェトじゅうの公共施設は、あらゆる古典と現代の代表的な作品をそなえつけようとしているのだから。
 それが五ヵ年計画の文化計画の一部であった。
 「日本の読者は、めいめいの懐で、一冊の本だって買わなければならないんですから、
  つらいんです」
 「それもそうだな」

 山上元は、ちょっと考えこんだ。
 彼も、青年時代には、一冊の本を買うことも出来にくい生活だったのだ。
 「ところで、どうだい、ほんとに、こっちで暮す気はないかね?」
 「それは、うれしいけれど」
 「けれど、どうなんだ?」
 「あんまり思いがけないから」
 「まさか、親に相談しなくちゃならないわけでもないんだろう?」

 このままモスクワに居ついてしまうということは、形の変った亡命だった。
 佐々の両親に、何を相談するべきことであるだろう。
 「そんなら、きみのはらひとつじゃないか」
 「わたしは、こっちにいてしまってもいいけれど、仕事がわからないんです」

 伸子の心は、山上元がモスクワにとどまるようにと云った瞬間から、もう九分どおり決ってしまったようなものだった。
 伸子が、最後の一分でわからないでいるのは、モスクワに止ったとして、それからの伸子がするべき仕事は何かという実際上の問題だった。

 伸子は、年齢にくらべると、早くから文学上の仕事で働き、それで生活しつづけて来た。
 「何も心配することはない。
  きみの能力ですることはいくらもある。
  ありすぎるぐらいだ。
  いくらいい小説を書いたって、日本じゃせいぜい千単位なのにくらべりゃ、
  こっちで、十万部読まれた方が、どんなに作家としたって気持がいいかしれなかろう。
  ソヴェトじゃ、どんな本だって、少くとも出版されるからには十万が最低だよ」

 それは、大きい部数がよまれるのは作家にとってうれしいことに相異なかった。
 しかし、それにしても、いい作品をかく、ちゃんとした作品が書ける、ということが先決問題であることに疑いない。
 伸子には、その点が、わからないのだ。
 そして、話しているあいての山上元が、そういうこまかい実際の点を理解していない、というよりも、国際的な革命家として、そういう面に直接ふれる必要のない生活を送って来ているひとだということが、伸子に切実に迫った。

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