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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  143

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 彼女は微笑《ほほえ》もうとした。
 そしてクリストフに手を差し出した。
 彼は心を動かされてその手をとった。
 「かわいそうに!」と彼は言った。
 「苦しいんなら、そんな生活から脱するために、なぜ何にもしないんです?」

 「どうせよとおっしゃるのですか。
  どうにも仕方ないじゃありませんか。
  あなたがた男の方は、のがれることもできますし、
  なんでも勝手なことがおできになります。
  けれども私たちは、社交上の務めと楽しみの範囲内に、永久に閉じこめられています。
  それから出ることができません。」

 「われわれ同様にあなたがたが自分を解放することを、だれが妨げるものですか。
  あなたがたが自分の好きな仕事をして、われわれのように独立できる仕事をするのを、
  だれが妨げるものですか。」

 「あなたがたのようにですって?
  まあ、クラフトさん!
  あなたがたの仕事だって大して独立の助けになってはしませんわ。
  でも、少なくともあなたがたは仕事を喜んでいらっしゃるんでしょう。
  ところが私たちは、どんな仕事に適してるんでしょうか?
  気に入る仕事は一つだってありませんもの。

  そうですわ。
  私はよく知っています。
  私たちは今のところ何事にでも関係し、
  自分に無関係な多くの事柄に興味をもってるようなふうをしています。
  それほど何かに興味をもちたがっています。

  私だって同じですわ。
  救済事業に関係し、慈善会に関係しています。
  ソルボンヌ大学の講義、ベルグソンやジュール・ルメートルの講演、
  歴史協会、古典研究会、いろんなものに出ては、ノートばかり取っています。

  何を書いてるのか自分にもわかりません。
  そして無理にも、たいへん面白いと思い込もうとしたり、
  少なくとも有益だと思い込もうとしています。
  でも、その反対だということを私はよく知っています。

  そんなものは私にはどうでもいいことなんです。
  ほんとに退屈でたまりません!
  ありふれた考えをそのまま言ってるきりだというので、
  私をまた軽蔑《けいべつ》なすってはいけませんよ。

  そりゃ私もやはり馬鹿ですわ。
  けれど、哲学だの歴史だの科学だのが、私になんの役にたつでしょう?
  芸術についても――御承知のとおり――私はピアノをたたいたり、
  つまらないものを書き散らしたり、きたならしい水彩画をかいたりしています。

  でもそれで生活が充実するでしょうか?
  私たちの生活には一つの目的があるばかりです、結婚という目的が。
  けれども、あなたと同じように私にもよくわかってる、
  あんな人たちのだれかと結婚するのが、愉快なことでしょうか?

  私はあの人たちのありのままの姿を見て取っています。
  いつでも幻を描くことのできるドイツのグレートヘンたちのようには、
  私はなることができないのです。

  恐ろしいことではありませんか、
  結婚した女たちや、その結婚の相手の男たちを、
  自分の周囲にながめて、自分もやがては同じようなことをし、身体や精神をゆがめ、
  その人たちのように平凡になってしまうのかと、考えてみますのは!

  そんな生活やその義務などを甘受するには、確かに克己の精神が必要ですわ。
  ところがどんな女にもそれができるというわけにはゆきません。
  そして時は過ぎてゆき、年は流れ去り、青春は去ってしまいます。

  それでも、美しいもの、善良なものが、私たちのうちにはあったんですのに。
  それさえもう、なんの役にもたたず、日に日に死んでゆき、
  馬鹿な人たちに、人に軽蔑《けいべつ》されまた私たちを軽蔑するような人たちに、
  我慢して与えてしまわなければならないでしょう。

  そしてだれも私たちを理解してはくれません。
  女は男にとって謎《なぞ》だと言われるかもしれません。
  そして、私たちをつまらないおかしなものだと思うのも、男の方にはまだ許せます。

  けれども女の人は私たちを理解してくれてもいい訳です。
  自分でも私たちと同じだったことがあるんですもの。
  ただ昔のことを思いだすだけで足りるんですわ。

  それなのにまるっきり駄目なんです。
  少しも力になってはくれません。
  母親でさえも私たちのことを知りません。
  ほんとうに私たちを知ろうともつとめません。
  ただ私たちを結婚させようとばかりしています。

  その他のことは、生きようと死のうと、勝手にするがいいというのです。
  社会は私たちをまったくうっちゃっておくのです。」

 「力を落としてはいけません。」
 とクリストフは言った。
 「人は各自に人生の経験をやり直さなければなりません。
  勇気があれば万事うまくゆきます。
  あなたの世界以外に捜してごらんなさい。
  フランスにはまだりっぱな人が多少あるはずです。」

 「あるにはありますわ。
  私の知ってる人にもありますわ。
  でも皆厭《いや》な人ばかりですもの。

  それに、ほんとのことを言いますと、自分の生きてる世界が私には不快なのです。
  けれども今ではもう、この世界を離れて生きられようとは私には思われません。
  習慣になってしまったのです。

  ある種の安楽と、それから、もちろん金では買えませんが、
  しかし金がなければ得られない、贅沢《ぜいたく》と社交とのある精練さが、
  私には必要なのです。

  それがほんとうに輝かしいものでないことは、私も知っています。
  しかし私は自分自身をよく知っています。
  私は弱いんです。

  ねえどうぞ、自分のつまらない卑怯《ひきょう》さを私がうち明けたからって、
  私から離れないでくださいね。
  私の言うことを快く聴いてくださいね。

  あなたと話すことはどんなにか私のためになるでしょう!
  あなたは強くて健全な方だと、私は感じていますの。
  あなたにすっかり信頼していますわ。
  少しは私の友だちにもなってくださいな、ねえ。」

 「私も望むところです。」
 とクリストフは言った。
 「しかし私に何ができましょう?」

 「私の言うことを聴いて、私に諭《さと》して、私に力をつけてください。
  私はむちゃくちゃになることがよくありますの。
  するともうどうしていいかわからなくなります。

  『争ったって何になろう?
   苦しんだって何になろう?
   あれだってこれだって同じことだ。
   だれだって構わない、なんだって構わない!』
  と自分で考えます。

  ほんとに恐ろしい心ですわ。
  そんな心になりたくありません。
  私を助けてください、助けてくださいね!」

 彼女はがっかりしたふうで、十歳も老《ふ》けたように見えた。
 従順な懇願的なやさしい眼で、クリストフをながめていた。
 彼は向こうの望みどおりにすべて誓ってやった。
 すると彼女は元気づき、笑《え》みを浮かべ、また快活になった。
 そして晩には、彼女はいつものとおりに、笑ったりふざけたりしていた。

 その日以来、二人はきまって親しい話をした。
 室には二人きりだった。
 彼女はなんでも思うまま彼へうち明けた。
 彼はそれを理解して助言してやるのに、たいへん苦心した。
 彼女はその助言に耳を傾け、場合によっては、ごくおとなしい小娘のように、叱責《しっせき》を真面目《まじめ》くさって注意深く聞いた。

 それは彼女にとって、憂《うさ》晴らしでもあり、面白くもあり、支持でさえもあった。
 彼女は感動した媚《こ》びある流し目で、彼に感謝した。
 しかし彼女の生活は、少しも変化しなかった。
 ただ一つの気晴らしがふえたにすぎなかった。

 彼女の一日は転身の連続だった。
 非常に遅《おそ》く午《ひる》ごろに起き上がった。
 不眠症にかかっていて、明け方にならなければ眠れないのだった。
 昼間は何にもしなかった。

 一つの詩句、一つの思想、思想の断片、会話の思い出、
 一つの楽句、自分の気に入った面影、などをとり留めもなく心にくり返した。
 ほんとうに気分がはっきりしてくるのは、午後の四時か五時ごろからであった。
 それまでは、眼瞼《まぶた》が重く、顔がむくんで、不機嫌《ふきげん》そうな眠そうな様子をしていた。

 そして幾人かの親しい友だちが来ると、彼女は初めて元気になった。
 その友だちらも皆、彼女と同様に饒舌《じょうぜつ》で、彼女と同様にパリーの噂話《うわさばなし》を聞きたがっていた。
 皆はいっしょになって、際限もなく恋愛を論じた。
 恋愛の心理、それこそ、化粧や秘密事や悪口などとともに、いつも変わらぬ話題だった。

 彼女の周囲にはまた、隙《ひま》な青年連中が集まっていた。
 彼らは日に二、三時間は、女の裳衣《しょうい》の間で過ごさなければ承知しなかったし、裳衣《しょうい》をつけることさえできそうだった。
 なぜなら、娘らしい魂と話し方とをそなえていたから。

 クリストフに割り当てられた時間もあった。
 それは聴罪師の時間だった。
 コレットはただちに、真面目《まじめ》な考え込んだふうになった。
 彼女はあたかも、ボドレーが語ってる、懺悔《ざんげ》室における若きフランス婦人のようであった。

 「その述べたてる事柄は、冷静に準備された問題であって、
  簡明な整頓《せいとん》と明晰《めいせき》との模範とも称せられるほどで、
  言わなければならないすべてのことが、正しい順序に配列され、
  はっきりした種類に区分されていた。」

 そのあとで、彼女は前よりもいっそうはしゃいでいた。
 日が暮れてゆくに従って、ますます若々しくなった。
 晩には芝居へ行った。
 いつも変わらぬ同じ顔をそこに見出すのが、いつも変わらぬ楽しみだった。

 楽しみ、それは演ぜられてる芝居から受けるのではなくて、よく知ってる癖をまた見て取られる馴染《なじ》みの役者から受けるのであった。
 また、桟敷《さじき》に会いに来る人たちと、向こう桟敷にいる人々の悪口や、女優らの悪口をかわした。
 生娘《きむすめ》の役をしてる女優が「腐ったソースのような」鈍い声を出してると言ったり、花形女優が「ランプの笠《かさ》のような」着物をつけてると言ったりした。

 あるいはまた、夜会へ出かけた。
 その楽しみは、自分の姿を人に見せることだった。
 もちろんきれいな女にとってである。

 そのきれいさも日によって異なっていた。
 パリーの美人くらい変わりやすいものはない。
 そして服装や身体の欠点など、すべて人々にたいする批評の種を、新たに仕入れた。
 話の方は少しもやらなかった。

 遅くなって家に帰った。
 なかなか寝られなかった。
 最も眼が冴《さ》えてる時間だった。
 テーブルのまわりにぐずついていた。

 書物を開いてみた。
 ある言葉や身振りを思い出して一人で笑った。
 退屈してきた。
 非常に味気なかった。
 眠ることができなかった。
 そして夜中に突然、絶望の発作に襲われるのだった。

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