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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  46

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 次郎もすぐ立ちあがった。
 彼は立ちがけに、もう一度お芳の顔を見た。
 お芳はその時、少し眼を伏せていたが、めずらしく光を帯びた視線を次郎にかえした。
 それには、たしかにある表情があった。
 次郎には、しかし、それが何を意味するかは少しもわからなかった。
 彼は、同時に、お祖母さんの視線を強く自分の頬に感じたが、それには頓着《とんちゃく》しないで、すぐ恭一のあとを追った。

 二階に行くと、二人は菓子鉢を机の上においたまま、しばらくじっと顔を見あっていた。
 「次郎ちゃん、がっかりしなかった?」
 恭一がやっとたずねた。
 「どうして?」
 と、次郎はわざととぼけたような顔をして見せたが、その頬の肉は変に硬《こわ》ばっていた。
 「だって――」
 と、恭一は言いよどんで、菓子鉢を見つめていたが、
 「これ食べようや。」
 と、急に亀の子煎餅をつまんだ。

 しかし、二人とも、それを口に運ぶというよりは、それに浮き出している模様をぼんやり眺めている、といったふうだった。
 「母さん、変じゃあない?」
 「どうして?」
 「だって、次郎ちゃんが来ても、ちっとも嬉しそうな顔をしていないじゃないか。」
 「そうかなあ。」

 「次郎ちゃんは、そう思わなかった?」
 「…………」
 次郎は眼を伏せた。
 そして、亀の子煎餅を指先で砕《くだ》いては、鉢におとした。
 涙がこみあげて来るような気持だったが、彼はやっとそれをこらえた。
 「僕、あんな人、きらいさ。」
 恭一は吐《は》き出すように言って、急に煎餅をぼりぼり噛み出した。

 次郎は、しかし、すぐ恭一に合槌をうつ気にはなれなかった。
 彼には、何かしら未練があった。さっき立ちがけに見たお芳の眼の表情も思い出されていた。
 「じゃあ、恭ちゃんも、可愛がって貰えないの?」
 次郎は妙に用心深い眼をしてたずねたが、それには、かなり複雑《ふくざつ》な気持がこめられていた。

 恭一が可愛がられていないことは、彼としては安心なことのようにも思えたし、また、それだけお芳の愛が俊三に集中されていることのようにも思えたのである。
 「僕?」
 と恭一は、いかにも冷たい微笑を浮かべて、
 「僕は誰よりも大事にしてもらうんだよ。
  僕、それがいやなんさ。」

 次郎には、その意味がわからなかった。
 しかし、恭一はすぐつづけて言った。
 「母さんはね、次郎ちゃん、お祖母さんの言うとおりなんだよ。
  僕を大事にするんだって、俊ちゃんを可愛がるんだって、
  みんなお祖母さんがいろいろ言うからさ。」

 次郎は、そう聞くと、かえって救われたような気がした。
 そして、さっきのお芳の眼の表情を、もう一度思い浮かべた。
 「じゃあ、母さんは、俊ちゃんをほんとうに可愛がっているんじゃないの。」
 彼は、彼がふれるのを最も恐れていた、しかし、ふれないではいられなかったものに、巧みにふれる機会をとらえた。

 「そりゃあ、ほんとうに可愛がっているかも知れんさ。
  だけど俊ちゃんを可愛がるからって、
  次郎ちゃんが久しぶりで来たのに知らん顔しているなんて、ひどいと思うよ。
  次郎ちゃんが可愛いなら、お祖母さんの前だって何だって、
  あたりまえに可愛がりゃあいいじゃないか。
  僕、ごまかすのが大きらいさ。」

 次郎は恭一の言葉がうれしいというよりは、もどかしい気がした。
 彼は、お芳がほんとうに俊三を愛して自分を疎《うと》んじているのか、それとも、単にお祖母さんの手前そんなふうにみせかけているのか、それをはっきり言ってもらいたかったのである。

 彼は、自分の俊三に対する嫉妬《しっと》を恭一に覚《さと》られないで、それをどうたずねたらいいかに苦心した。
 「俊ちゃんは、あれからすぐ母さんが好きになったんかい。」
 「好きになったんかどうか知らないけど、すぐ、わがまま言い出したよ。
  おおかた、父さんが、わがまま言ってもいいって言ったからだろう?」

 「わがまま言っても、母さん怒らない?」
 「ちっとも怒らないよ。
  わがまま言うと、よけい可愛ゆくなるんだってさ。」
 次郎の眼は異様に光った。
 彼は、自分がお芳に対して出来るだけ従順《じゅうじゅん》であろうとつとめていた一ヵ月まえまでの生活を思い起して、何かくやしいような気がした。

 彼はさぐるような眼をして、
 「じゃあ、恭ちゃんもわがまま言えばいいのに。」
 「馬鹿言ってらあ。
  僕、そんなこと、大嫌いだい。」
 恭一は、いかにも不快そうに答えた。

 次郎には、それは意外だった。
 自分が愛せられることだけに夢中になっていた彼には、恭一の潔癖《けっぺき》な気分がよくのみこめなかったのである。
 「ねえ、次郎ちゃん――」
 と、恭一はしばらくして、
 「僕、やっぱり、母さんなんか来ない方がよかったと思うよ。」

 「どうして?」
 「みんなが正直でなくなるからさ。
  母さんが来てから、みんな自分で考えてないことを、
  言ったり、したりするようになったんだよ。」
 「母さんは、そんなにいけない人かなあ。」
 「母さんがいけないんじゃないかも知れんさ。
  だけど、母さんが来るまでは、みんなもっと正直だったんじゃないか。
  このごろ父さんだって、嘘をつくことが多いぜ。
  お祖母さんなんか、しょっちゅう嘘ばかりだよ。」
 恭一は食ってかかるような調子だった。

 「恭ちゃんも嘘をつく?」
 「僕は嘘なんかつくもんか。
  僕、何でも思ったとおりに言ってやるんだ。
  だから、みんな困るんさ。
  困ったって、平気だよ。」
 次郎には家の中の様子が何もかも想像がつくような気がした。

 しかし、今の場合、彼にとって大事なのは、そんなことよりも、俊三とお芳との間が実際はどうだかを、はっきり知ることであった。
 「じゃあ、俊ちゃんは?」
 「俊ちゃん?」
 と、恭一はちょっと考えてから、
 「俊ちゃんは僕にはよくわかんないや。
  母さんにわがまま言うのは、わざとじゃないだろうと思うけれど。」
 「じゃあ、母さんが俊ちゃんを可愛がるのも、嘘じゃないんだろう。」

 恭一はまた考えた。そして、
 「それも、僕には、はっきりわかんないさ。」
 次郎は物足りなさそうな顔をして、默りこんでしまった。
 二人はそれから、やたらに煎餅をかじりはじめた。
 もう日が暮れかかって、ただでさえうす暗い部屋が、一層暗かった。
 その中で、煎餅をかじる音だけが、異様に、二人の耳に響いた。
 菓子鉢も間もなくからになり、部屋はしんとして寒かった。

 しかし、二人はいつまでも階下《した》におりようとはせず、机に頬杖をついたまま、からになった菓子鉢の底に、ぼんやりと眼をおとしていた。
 そのうちに、梯子段をのぼる重い足音がして、俊亮がのっそりと部屋にはいって来た。

 次郎は、あわてたようにいずまいを正して、ぴょこんとお辞儀をした。
 「来たのか。」
 俊亮は、それだけ言って、つっ立ったまま、しばらく二人を見おろしていたが、
 「二人とも階下におりたらどうだ。
  ここには火もないだろう。」
 次郎は、すぐ立ちあがりそうにして、恭一を見た。
 恭一は、しかし、いやに鋭い陰気な視線を次郎にかえしただけで、相変らず頬杖をついたままだった。

 「今日は次郎が来たから、母さんに御馳走してもらおうかな。
  次郎、何がいい?」
 俊亮はそう言って微笑した。
 次郎は、また恭一の顔をのぞいた。
 恭一は、頬杖のまま顔をちょっと父の方に向けたが、すぐまた眼を伏せてしまった。

 「牛肉の鋤焼《すきやき》かな。
  そう、それがよかろう。
  みんなで、つっつけるからな。
  恭一、お前、肉屋まで走って行って来ないか。」
 俊亮は愉快そうにそう言って、財布から五円札を一枚とり出し、それを机の上にほうりなげた。

 「どのぐらい買って来るんです?」
 恭一は、急に元気らしく、五円札をつかんだ。
 「食べたいだけ買って来るさ。
  二斤もあればいいかな。」
 恭一はすぐ部屋を出た。

 しかし、梯子段のところまで行くと、ふりかえって言った。
 「次郎ちゃんも一緒に行かないか。」
 その時、次郎は、俊亮に默って頭をなでてもらっているところだった。
 恭一にそう声をかけられると、彼はあわてたように、
 「うん、行くよ。」
 と、とん狂《きょう》に答えて、急いで俊亮のそばをすりぬけた。

 俊亮は微笑した。
 次郎はあかい顔をして、恭一のあとを追った。
 二人が牛肉を買って来ると、めったに台所のことに口を出したことのない俊亮が、めずらしく、あれこれと指図《さしず》してお芳に鋤焼の準備《じゅんび》をさしていた。

 俊三も、はしゃぎきって、お芳といっしょに、台所から茶の間に物を運んだりしていた。
 ただ、むっつりと火鉢のはたに坐りこんでいたのは、お祖母さんだけだった。
 すっかり準備が出来たのは、六時をかなり過ぎたころだった。
 明るい茶の間の電燈の下で、父と兄との間にはさまれて、鋤焼鍋を囲《かこ》んだ時の次郎の気持には、何とも言えない温かさがあった。

 鉢に盛られた肉や、葱《ねぎ》や、焼豆腐の色彩、景気のいい七輪の火熱、脂のはじける音、立ちのぼる湯気の感触とその匂い、――彼は、彼の味覚を満足させる前に、すでに彼の五官のすべてを鋤焼というものに集中さして、恍惚となっていた。
 彼にとっては、こうした食事の経験は、本田の家ではむろんのこと、正木の家でも、これまでに全くなかったことなのである。

 「次郎、もうここいらが煮えているよ。」
 さっきから手酌で晩酌をはじめていた俊亮は、煮え立った鍋のなかに箸をつきこみながら、まや次郎をうながした。
 次郎は、しかし、まごまごして恭一の顔ばかり見た。
 そして、恭一が卵を割ると自分も割り、肉をはさむと、自分もはさんだ。

 子供にとって、味覚の世界はしばしば他のすべての世界を忘れさせるものである。
 次郎は、それから夢中になって鍋のものを口に運んだ。
 俊亮と恭一とが、かわるがわる、「もうここいらが煮えているよ」と言って、肉や葱を彼の前に押しやってくれるので、彼はほとんど箸を休める必要がなかった。

 お祖母さんがどんな眼をして彼を見ていたかも、俊三が鍋のなかのものをとるのに、どんなふうにお芳に世話をやいてもらっていたかも、彼はまるで知らないでいるかのようであった。
 しかし、食慾が満たされるにつれ、そして、鋤焼というものの刺戟が、次第にその新鮮味を失ってくるにつれ、彼の注意も、そろそろと周囲の様子にひかれて行った。

 「母さん、僕、豆腐はいやだい。」
 「ああ、そう、じゃあそれ母さんの皿にうつしてちょうだい。
  もうじき肉が煮えるから、待っててね。」
 俊三とお芳との言葉が、ます次郎の耳を刺戟した。

 しかし、なお一層彼の注意をひいたのは俊亮と俊三とのつぎの対話だった。
 「俊三、お前母さんに甘ったれてばかりいるね。」
 「甘ったれてなんかいないよ。」
 「だってそう見えるぞ。」
 「馬鹿にしてらあ。」

 「じゃあ、今夜は次郎が母さんのそばに寝るんだが、いいかね。」
 「そんなの、ないよ。」
 「どうして?」
 「だって、恭ちゃんはお祖母さん、次郎ちゃんは父さん、
  僕は母さんときまっているじゃないか。」
 「誰がそんなこと決めたんだ。」
 「お祖母さんが、いつもそう言ってらあ。」

 この対話が、次郎だけでなく、みんなの心を刺戟したのはいうまでもなかった。
 一瞬、鍋の煮立つ音が、いやに誰の耳にもついた。
 次郎は、しかし、同時に気持のうえで妙な矛盾《むじゅん》に陥っていた。
 というのは、もし、家族六人を二人ずつ組み合せるとすれば、俊三の言った組合わせこそ、次郎にとっては、最も好もしい組合わせだったからである。

 母さんなんか、どうでもいいや。
 彼は、そんなふうにも、ちょっと考えてみた。
 しかし、そう考えると、やはりまた気持が落ちつかなかった。
 「父さん!」
 と、その時、沈默を破って、だしぬけに恭一が言った。

 「僕、そんなふうに二人ずつ組み合わせるのは、非常にいけないと思うんです、
  父さんは、それをいいと思うんですか。」
 「そうさね。」
 と俊亮は、わざとお祖母さんの方を見ないようにして、ちょっと考えていたが、
 「まあ、しかし、そんなことはどうでもいいだろう。」
 「どうでもよくないんです。」
 恭一はがらりと箸を投げすてて、泣くような声で叫んだ。

 「お祖母さんは僕だけのお祖母さんではないんです。
  次郎ちゃんにも、俊ちゃんにも、お祖母さんです。
  父さんだって、母さんだって、やっぱり三人の父さんと母さんでしょう。」
 「そうさ。
  あたりまえじゃないか。」

 「じゃあ、なぜ、次郎ちゃんが久しぶりで帰って来たのに、お祖母さんも……母さんも……」
 恭一はそう言いかけて、両手で顔を蔽《おお》うた。
 そして、やにわに立ちあがって二階にかけ上ってしまった。
 俊亮は大きなため息をついた。
 お祖母さんは不安な眼をして恭一のあとを見送ったが、すぐその眼を転じて鋭く次郎を見つめた。

 お芳はじっとうなだれていた。
 俊三は牛肉をかみやめて、お芳の顔をのぞきこんだ。
 そして次郎は箸を握ったまま、ぽたぽたと涙を膝にこぼしていた。
 鍋の中のものは、かなり景気よく煮立っていたが、その音は何か遠くの物音を聞くようであった。

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