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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  138

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 死へ向かいつつあった。
 全ヨーロッパがひそかに観察し――喜んで――いる、フランスの恐るべき人口減少と類似の現象だった。
 多くの才と知力とが、多くの精練された官能が、一種の恥ずべき自涜《じとく》行為のうちに消費されていた。

 彼らはそのことに少しも気づかなかった。
 彼らは笑っていた。
 しかしその一事こそ、クリストフを安心さしたことだった。
 彼らもなおよく笑うことを知っていたのだ。

 すべてが失われたのではなかった。
 彼らが真面目《まじめ》な顔をしたがる時には、彼は彼らをあまり愛せられなかった。
 芸術のうちに快楽の道具をしか求めていないような著作家らが、無私無欲な宗教の牧師らしいふりを装《よそお》うのを見るくらい、彼の気色を害するものはなかった。

 「われわれは芸術家だ。」とシルヴァン・コーンは満足げにくり返していた。
 「われわれは芸術のために芸術をこしらえてるんだ。
  芸術は常に純潔である。
  芸術の中にあるものは清浄なものばかりである。
  何事にも面白がる漫遊者として、われわれは人生を探究してるんだ。
  われわれは珍しい悦楽の愛好者であり、美を慕う永遠のドン・ファンである。」

 「君らは偽善者だ。」とついにクリストフは用捨なく答え返した。
 「あえて言うのを許してくれ。
  僕は今まで、僕の国だけが偽善者の国だと思っていた。
  ドイツ人は偽善者であって、常におのれの利益を追求しながら、
  いつも理想を口にしてるし、
  利己的なことばかり考えながら理想主義者だと自信している。

  しかし君らはさらにひどい。
  芸術と美と(大袈裟《おおげさ》に祭り上げた芸術と美と)の名のもとに、
  国民的淫佚《いんいつ》を覆《おお》い隠している。
  しかも一方には、真理だの科学だの知的義務などの名のもとに、
  道徳的ピラト主義を押し隠しもしないくせに。
  君らの真理や科学や知的義務などは、そのいかめしい探究の可能的結果については、
  口をぬぐって関せず焉《えん》としている。

  芸術のための芸術だって!
  なるほどりっぱな信念だ。
  しかしそれは強者のみの信念だ。

  芸術!
  それは鷲《わし》が餌食《えじき》をつかむように、人生をつかみ取り、
  それを空中に運び去り、それとともに清朗な空間に上昇することだ。
  そのためには、爪《つめ》と大きな翼と力強い心とが必要だ。
  しかし君らは小雀《こすずめ》にすぎない。
  一片の腐肉を見出すと、即座にそれをつっついて、
  ちゅうちゅう鳴きながら争っている……、芸術のための芸術だって!
  災なるかなだ。

  芸術というものは、いかなる賤《いや》しい風来人にも渡される、
  賤しい餌《えさ》ではない。
  確かに一つの享楽であり、最も人を陶酔させる享楽ではある。
  しかしながら、激しい闘《たたか》いによってのみ得られる享楽であり、
  力の勝利を冠する月桂樹《げっけいじゅ》である。

  芸術とは、征服せられたる人生なのだ。
  人生の帝王なのだ。
  シーザーになりたくば、シーザーの魂をもたなければならない。
  君らは芝居の上の王様にすぎない。
  君らはただ役割だけを演じている。
  役割を信じてさえもいない。
  そして、自分の畸形《きけい》を誇る役者のように、
  君らは君らの畸形で文学を作っている。

  自国民のあらゆる病気、努力の恐れ、快楽の嗜好《しこう》、肉感的な観念、
  空想的な人道主義、意志を快く麻痺《まひ》させて、
  あらゆる活動の理由を奪い去るもの、そういうものを大事に育て上げている。
  阿片《あへん》喫煙所へばかり案内したがっている。

  そして君らはよく知っていながら、決して口には言わない、
  最後には死が控えていることを。
  そこで僕が言ってやろう、死が存在するところには芸術は存在しないと。
  芸術、それは人を生きさせるものだ。
  しかし君らの著作者は、最も正直な者でさえも、いかにも卑怯《ひきょう》で、
  蔽眼布《めかくし》が眼から落ちた時でさえ、見えないふうを装《よそお》っている。

  彼らは厚かましくもこう言っている。
  『それが危険であることは僕も認める、中には毒がある。
   しかし才能に富んでるではないか!』
  あたかも軽罪裁判所で一無頼漢について判事が言うように、
  『此奴《こいつ》は悪者には違いない。
   しかしなかなか才能のある奴《やつ》だ!』」

 クリストフは、フランスの批評界はいったいなんの役にたつかを怪しんだ。
 といって、批評家がいないのではなかった。
 批評家は芸術家の方面にうようよしていた。
 多くの作品は人に見られることができなくなっていた。
 作品は批評家らの下に埋もれていた。

 クリストフは概して、批評界にたいして穏和ではなかった。
 近代社会中に第四もしくは第五階級のごときものを形成している、この無数の芸術批評家らの有用さを、彼はなかなか認めることができなかった。
 彼はそこに、人生をながめる務めを他人に譲ってる――他人の代理となって感じてる――一つの疲弊した時代の徴候を、見て取っていた。

 時代が自分の眼をもって、人生の反映たる芸術を見ることさえできなくなり、なお他の仲介者を、反映の反映を、一言にして言えば批評家を、必要としているということに、彼は多少恥辱を感じていた。
 それはしごくもっともなことだった。
 少なくともそれらの反映は、忠実なものであらねばならなかった。

 しかしそれらは、周囲に並んでる群集の不安定さをしか、映し出してはいなかった。
 あたかも、自分の姿を見ようとする好奇な連中の顔を、彩色の天井とともに映し出してる、あの博物館の大鏡のごときものだった。
 ある時代において、それらの批評家がフランスで非常な権威を得た。公衆は彼らの判定の前に低頭した。

 そして彼らを、芸術家よりもすぐれた者だと、賢明な芸術家だと――(この両語は調和しがたく思われるが)――見なすほどになった。
 それ以来批評家らは、はなはだしく増加した。

 彼らはあまりに占考者じみていた。
 そのために本来の職務が煩わされた。各自に自分だけが唯一の真理の占有者だと主張する者どもが、非常に多くある時には、人はもはや彼らを信じ得られなくなる。
 そしてついには彼らも、もはや自分自身を信じられなくなる。

 かくて絶望が到来した。
 例のフランス流によって彼らは朝三暮四、極端から極端へと移り変わっていって、すべてを知ってると公言したかと思えば、すぐあとでは何にも知らないと公言した。
 彼らはそれを名誉にかけて言い、また自惚《うぬぼれ》をもってさえ言った。

 何事かを肯定してあとですぐにそれを否定しないのは、あるいは少なくともそれに疑問をつけないのは、上品なやり方ではないということを、それらの柔惰な者どもはルナンから教え込まれていた。
 「常に然り然りであり、その次に否々である、」と聖パウロが評したような人物に、ルナンは属していた。

 フランスの選良な人々は皆、この水陸両棲《りょうせい》的な信条に心酔していた。
 精神の遊惰と性格の柔弱とは、それをいいことにしていた。
 彼らはもはや一つの作品について、良いとも悪いとも、真だとも嘘《うそ》だとも、賢いとも愚かだとも、言わなくなった。

 彼らはこう言った。
 「そうかもしれない。
  そうでないとも言えない。
  俺《おれ》にはわからない。
  俺はごめんこうむろう。」
 もし淫猥《いんわい》な芝居が演ぜられていても、「これは淫猥だ、」とは彼らは言わなかった。

 彼らはこう言った。
 「スガナレルさん、どうかそういう言い方は変えてください。
  私どもの哲学によると、なんでも不確実に言わなければなりません。
  それですから、『これは淫猥だ、』と言ってはいけません。
  『私にはどうも、これは淫猥のように思われる。
   しかし、確かにそうだというのではない。
   あるいは傑作であるかもしれない。
   傑作でないとはだれにも言えない。』
  と言わなければいけません。」

 そこにはもはや、芸術にたいして暴慢だとの咎《とが》めを受ける危険はなかった。
 昔、シルレルは彼らに教えをたれたことがあった。
 彼は当時の雑誌新聞記者らを、用捨もなくけちな暴君と呼んで、次の事柄を頭に入れさした。

   婢僕《ひぼく》の本分
  何よりもまず、女王の出御される家が、きれいになっていなければいけない。
  気をつけて、室々を掃除《そうじ》せよ。
  そのために諸君はここにいるのだ。
  しかし女王が出御されたならば、すぐに退《さが》ってしまえ。
  女王の椅子《いす》に、召使風情《ふぜい》が腰をおろしてはいけない。

 ところが、現今の批評家どもは許してやらなければならなかった。
 彼らはもはや女王の椅子に腰掛けてはいなかった。
 婢僕たることを求められたので、すなわち婢僕となっていた。
 しかし悪い婢僕だった。
 彼らは少しも掃除しなかった。
 室は散らかっていた。
 彼らは室を片づけ清潔にするよりは、むしろ腕をこまねいて、自分の仕事を委《ゆだ》ねていた、主人に、当時の神に、普通選挙に。

 実のところ、少し以前から、当時の無政府的無気力さにたいして、反動の気運が起こっていた。
 ある真面目《まじめ》な人々は公衆の衛生を目的とした戦いを――まだごく微弱なものではあったが――企てていた。

 しかしクリストフは、自分の周囲にそういう様子を少しも見出さなかった。
 そのうえ、人は彼らに耳を貸さなかった、もしくは彼らを嘲笑《あざわら》っていた。
 時々ある強健な芸術家が、一般にもてはやされる芸術の不健全な愚劣さにたいして、反抗の気勢を示すと、その作者らは傲然《ごうぜん》として、公衆が満足してる以上は自分らの方が正当だと答え返した。

 非難の口をつぐませるにはそれで十分だった。
 公衆がそう言ったのだ。
 それは芸術の最上の審判なのだ!
 そして、公衆を腐敗さした人々のためにする腐敗した公衆の立証は、拒否してかまわないこと、また、芸術家は公衆に命令するためにあるものであって、公衆が芸術家に命令するものではないこと、それにはだれも思い及ばなかった。

 数――客と収入額との数――にたいする崇拝が、この商売人化された民主主義の芸術観を支配していた。
 作者らのあとについて、批評家らも従順に、芸術品の本務は人を喜ばすことだと、宣言していた。
 成功が掟《おきて》であった。
 成功がつづく間は平伏するのほかはなかった。

 かくて批評家らは、快楽の相場の変動を予知しようと、作品にたいする公衆の意見をその眼色で読み取ろうと、つとめていた。
 またおかしなことには、公衆の方でも、作品をどう考えていいかを、批評家の眼色で読み取ろうとつとめていた。
 そして両方から眼を見合わしていた。
 しかもたがいの眼の中には、自分自身の不決断が見て取られるばかりだった。

 けれども、大胆な批評が最も必要な場合であった。
 無政府的共和国にあっては、万能である流行が、保守的な国におけるように退転することは、めったにあるものではない。
 流行は常に前進してゆく。
 そして精神的似而非《えせ》自由が、たえずせり上がってゆく。

 それにはほとんどだれも抵抗しようとしない。
 群集は本音を吐くことができない。
 心の底では不快を感じているが、しかしだれもあえて、自分がひそかに感じてることを言い得ない。
 ここでもし批評家が強かったならば、あえて強くあり得たならば、いかなる権威を彼は握ることだろう!

 頑強《がんきょう》な批評家は数年のうちに、(と若い専制者クリストフは考えた、)一般趣味のナポレオンとなることもでき、芸術のあらゆる病人をビセートル療養院へ追い払うこともできるかもしれない。
 しかし、もはやナポレオンは存在しない。
 第一、批評家らは皆、腐敗した空気の中に住んでいる。
 しかもそれに気づかなくなっている。

 次に、彼らはあえて語り得ない。
 彼らは皆知り合っていて、小さな仲間を形造っていて、たがいに遠慮しなければならなくなっている。
 独立してる者は一人もない。
 独立せんがためには、組合生活を捨て、友誼《ゆうぎ》をも捨てなければならないだろう。

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