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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  43

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    八 蟻にさされた芋虫

 翌日、次郎は、枕時計がまだ鳴らないうちに眼をさましてしまった。
 彼は、かなり眠ったような気もし、またまるで眠らなかったような気もした。
 頭のなかには、水気のない海綿《かいめん》がいっぱいにつまっているようだったが、それでいて、どこかに砂のようにざくざくするものが感じられた。

 部屋はまだ暗かった。
 枕時計を手さぐりして、それを自分の方に引きよせていると、恭一が声をかけた。
 「もう眼がさめちゃったの?
  僕、七時過ぎてから起きても大丈夫だと思って、めざましのベル、とめといたんだがなあ。
  今日は九時からだろう。」

 「うん。
  もっと寝ててもいいね。」
 次郎は、そう言いながら、枕時計の表字板に眼を据えたが、暗くてはっきりしなかった。
 恭ちゃんは、まるで眠らなかったんじゃないかなあ。
 彼は、蒲団の襟に顔をうずめて、そんなことを考えていたが、つい、またうとうととなった。
 が、ほとんど眠ったような気がしないうちに、

 「次郎ちゃん、もう七時半だぜ。
  起きろよ。」
 と言う恭一の声を、耳元できいた。
 眼をあけると、もう洗面をすましたらしい恭一の顔が、すぐ自分の顔の上にあった。

 彼は、はね起きた。
 敷蒲団の上で重心をとりそこねて、ちょっと、よろけかかったが、そのまま泳ぐように壁ぎわに行って、そこにかけてあった学校服を着た。
 「すぐ顔を洗っておいでよ、床は僕があげとくから。」

 次郎は、言われるままに急いで階下におりた。
 そして洗面をすまして、梯子段のところまで来ると、恭一がもう次郎の筆入と帽子とをもっておりて来ていた。
 筆入には、鉛筆、小刀、メートル尺、消しゴムなど、試験場に入用なものが全部入れてあったのである。

 二人は、すぐ台所に行って、ちゃぶ台のまえに坐った。
 飯を食べながら、昨夜来はじめてしみじみとおたがいの顔を見あったが、どちらも相手の顔色がいつものようでないのに気づき、ともすると眼をそらしたがるのだった。

 お祖母さんが仏間の方から出て来て、ちゃぶ台につきながら、じろりと次郎を見た。
 しかし何とも言わなかった。
 きのうの朝は、恭一が次郎のために生卵《なまたまご》をねだったりしたが、きょうは誰もそんなことを思い出すものさえなかった。

 お祖母さんは、それからも、じっと坐って二人の顔を見くらべていたが、
 「恭一、お前、顔色がよくないようだよ。
  今日は次郎について行くの、よしたらどうだえ。」
 そして、わざとのように、恭一の額に手をあてて、
 「少し、熱があるんじゃないのかい。」

 恭一は、その神経質な眼をぴかりとお祖母さんの方に向けた。
 が、すぐうつむいて、
 「ううん、どうもないんです。」
 と、首を強く横にふった。
 お祖母さんもそれっきり默ってしまった。

 茶の間で新聞を見ていた俊亮が、ちょっと台所の方をのぞいて、何か言いそうにしたが、思いかえしたように眼を天井にそらして、ふっと大きな吐息をした。
 「次郎ちゃん、便所すました?
  まだ時間はゆっくりだぜ。」
 恭一は、食事をすまして立って行こうとする次郎に言った。
 「ううん、大丈夫。」

 二人が家を出たのは、八時を十二三分ほど過ぎたころだった。
 中学校までは二十分とはかからなかったが、途中、西福寺によって、合宿の連中といっしょに行く約束になっていたのである。
 西福寺までは七八分だった。

 「頭がいたいことない?」
 恭一が家を出るとすぐたずねた。
 「ううん、何ともないよ。」
 次郎はわざと元気らしく答えたが、やはり耳鳴がして、頭のしんがいやに重かった。

 西福寺の門をくぐると、もうみんなは本堂の前に出そろって、わいわいさわいでいた。
 権田原先生も、間もなく庫裡《くり》の方から出て来たが、次郎を見ると、
 「どうしたい?
  眼が少し赤いようじゃないか。」
 それから、恭一を見、また次郎を見て、何度も二人を見くらべていたが、
 「二人で夜ふかしをしたんだろう。
  駄目だなあ、そんなことをしちゃあ。」

 二人は默って顔をふせた。
 「ゆうべ、何時に寝たんだい。」
 「九時少しまえです。」
 次郎がすぐ顔をあげて答えた。
 「九時まえ?
  そうか。
  じゃあ、みんなよりも早く寝たわけなんだね。
  ふうむ。」

 先生はけげんそうな顔をして、またしばらく二人の顔を見くらべていたが、間もなく外套《がいとう》のかくしから、黒い紐のついた大きなニッケルの時計を出して、時刻を見た。
 そして、
 「みんな便所はすましたかね、大便は?
  じゃ行くぞ。」
 みんなは元気よく門を出た。

 次郎もそのなかにまじったが、妙にしょんぼりしていた。
 恭一は、一番あとから、権田原先生とならんで歩いた。
 「ほんとうに九時まえに寝たんかね。」
 権田原先生がたずねた。
 「ええ。
  寝るには寝たんです。」

 「すると、寝てから何かあったんだね。」
 「ええ、二人で話しこんじゃったんです。」
 「話しこんだ?
  ふうむ、そんなに晩くまで。」
 「ええ、少し晩くなり過ぎたんです。」
 「何をそんなに話したんだい。」
 恭一は首をたれて、返事をしなかった。

 権田原先生も、それ以上強いてたずねようとはしなかった。
 そして、中学校の門をくぐってからも、先生は、誰とも口をきかないで、校庭のポプラの幹《みき》に腕組《うでぐみ》をしてよりかかっていたが、合図の鐘が鳴る五六分前になると、急に何か思い出したように、みんなのかたまっているところに来て、いきなり次郎の頭をゆさぶりながら、言った。

 「あせるな、いいか。
  今日は試験場で居ねむりをするつもりでやって来い。
  先生の友達にね、よく試験の時に居ねむりをしていた人があるが、
  その人はいまは大学の先生になっている。」
 みんなが笑った。次郎も淋しく笑って頭をかいた。

 すると、源次がはたから口を出した。
 「その人、落第したことないんですか。」
 「む、落第したこともあるが、大ていは及第した。」
 みんながまた笑った。

 今度は竜一が、
 「そんな人、先生、ほんとうにいるんですか。」
 「ほんとうだとも、その人は非常な勉強家でね、よく本を読んで夜更かしをしていたんだ。
  しかし、それは試験のためではなかった。
  試験なんかどうでもいいっていう気でいたんだから、
  眠くなりゃあ、試験の最中でも眠ったのさ。」

 「でも、その人、落第したのは、居ねむりをしたためじゃありません?」
 他の一人の児童がたずねた。
 「うむ、それはそうだ。
  その時はちょっと眠りすぎたんだね。
  まだ一問も書かないうちに眠ってしまって、鐘が鳴るまで眼がさめなかったんだ。
  しかし落第したのはその時いっぺんきりだぜ。」

 「でも、試験に居ねむりするの、いいことなんですか、先生。」
 更に他の児童がたずねた。
 「大してよくもないだろう。
  だから、お前たちに真似《まね》をせいとは言っとらん。
  真似せいたって、どうせお前たちには真似も出来んだろうがね。
  しかし、本田はゆうべあまり寝ていないそうだから、
  ひょっとすると、真似が出来るかも知れん。
  まあ、とにかく、そのぐらいの気持でやるんだね。
  はっはっはっ。」

 みんなは先生がほんの冗談にそんなことを言ってみたのだど思ったらしかった。
 しかし、先生の気持は、次郎と恭一とには、よくわかった。
 やがて入場の鐘が鳴って、みんなはぞろぞろと校舎にはいった。
 二百人の募集に千人近くの応募者だったので、昇降口はかなり混雑していた。

 次郎は、きのうまでは何とも思わなかったその光景が、いやに気になり出した。
 試験場にはいってからの次郎は、それでも案外落ちついていた。
 問題紙が配られると、彼はゆっくりそれに眼をとおした。

 すべてで十問だった。
 べつに手におえない問題もなさそうに思えたので、彼はいよいよ落ちついて鉛筆を動かしはじめた。
 最初に手をつけた三問だけは、わけなく出来た。

 次に手をつけたのが、小数や分数がごっちゃになっている計算問題だった。
 ところが、これがやってみると見かけに似ずうるさかった。
 やっと答を出すには出したが、何だか不安だったので、もう一度やり直してみると、まるでちがった答えが出た。

 で、少しあせり気味になりながら、更にやり直してみた。
 すると、またちがった答が出た。
 そのうちに頭がじんじんし出して来たので、一応その問題を思い切って他の問題にうつることにした。

 しかし、それからは、気ばかりあせって、ちっとも頭がまとまらなかった。
 すぐうしろの席で、がしがしと鉛筆を削《けず》る音が、一層彼の神経をいら立たせた。
 彼の膝はひとりでに貧乏ゆるぎをはじめた。

 しかも、何という不幸なことか、その頃になって大便を催して来たのである。
 それは、さほど烈しい要求ではなかった。
 しかし、頭をまとめるのに、それが非常に邪魔になったことはいうまでもない。
 それでも、自信のある解答が、それからどうなり二つだけは出来た。
 まえの三つと合わせて五つである。

 しかし、十問中七問以上が確実に出来なければ及第圏《けん》にはいらない、というのが次郎たちの常識だった。
 あと二問!
 彼は残った問題のうち、どれを選ぶべきかを決めるために、鉛筆を机の上におき、強いて自分を落ちつけた。

 しかし、腰部の生理的要求は、もうその時はかなりきびしくなっていた。
 それに、教壇の上から、監督の先生がだしぬけに叫んだ。
 「あと三十分!」
 次郎は、反射的に鉛筆をとりあげた。
 そして、まえにやりそこなった小数と分数との問題を、もう一度計算してみた。

 その結果、最初にやった時の答と同じだった。
 何だ馬鹿を見た。
 彼は心の中でそうつぶやいたが、それでも、それがひとつかたづいて、いくらか気が楽になった。
 そして、時間はたっぷり二十分はあまされていたのである。

 で、もし、腰部の要求さえ彼を邪魔しなかったら、彼はあと二間ぐらいは、確実に片づけることが出来たかも知れなかった。
 だが、すべては運命であった。
 自然の要求の切迫は、たといそれが爆発点《ばくはつてん》にまで達していなかったとしても、残された彼の時間をたえず動揺させ、彼の頭を混乱させていたのである!

 鐘が鳴るまでに、彼は、残された四問のうち二問だけを、まるで芋虫が蟻に襲撃されてでもいるかのように、いらいらした気持で片づけた。
 それが自信のある解答でなかったことは無論である。
 答案を提出して試験場を出ると、彼はすぐその足で便所に走っていった。

 便所から出て来た時の彼は、ちょっと気ぬけがしたような気持だった。
 が、もうほとんど人影のない渡り廊下を、校庭の方に向かって歩いて行くうちに、何ともいいようのない無念さがこみあげて来て、ひとりでに涙がこぼれた。
 彼は廊下の柱に両腕をあて、顔をうずめて、しばらく動かなかった。

 すると、
 「次郎ちゃん、こんなところにいたんか。
  どうしたんだい。」
 と、恭一の声がすぐうしろの方からきこえた。
 「ぼ、……僕、駄目だい。」
 次郎は柱によりかかったまま、息ずすりした。

 恭一は悲痛な顔をして、しばらくうしろから彼を見つめていたが、
 「みっともないよ。
  それに権田原先生が待ってるじゃないか。」
 次郎は、やっと涙をふいて、恭一といっしょに校庭の方にあるき出した。
 そして問われるままに、成績のだいたいを話した。

 恭一は、国語の方の成績次第では、望みがまるでないこともない、といって慰めたが、そういう恭一本人が、非常に暗い顔をしていた。
 権田原先生は、校庭で児童たちに取り囲まれ、両腕を組んで二人の近づくのを無言で待っていた。

 「便所に行ったんだそうです。」
 と、恭一がいいわけらしく言うと、先生は、
 「ふうむ……」
 と、うなるように答えて次郎の顔を見、それっきり何も言わないで、つっ立っていた。
 それから、かなり間をおいて、
 「ふむ、そうか、ふむ。
  じゃあ、みんな帰ろう。」
 と、さきに立って校門の方に歩き出した。

 校門を出て、しばらく行くと、先生はうしろをふりかえって、
 「あとは口頭試問と体格検査だけになったね。
  きょうは本田も合宿に遊びに来い。
  恭一君もどうだね、いっしょに?
  午飯《ひるめし》二人分ぐらいどうにでもなるぜ。」

 「でも、うちで心配しますから……」
 と、恭一は次郎の顔をのぞきながら答えた。
 「うむ、それもそうだね。
  では、先生があとで君の家へ行くから、お父さんにそう言っといてくれ。」

 恭一と次郎とは、酉福寺の門前でみんなにわかれ、家にかえって、まずそうに午飯をすますと、そのまま、人眼をさけるように二階にあがってしまった。
 そして、しばらくは、机に頬杖をついて、お互いに顔を見あっては、眼を伏せていたが、あとでは二人ともぽたぽたと涙をこぼしはじめた。

 恭一は、そのうちに、ふいに立ちあがって、押入から二人分の夜具を引出し、それをいつものとおりひろげた。
 そして、
 「次郎ちゃん、寝ようや。」
 と、自分で先にその中にもぐりこんでしまった。

 次郎は、やっと顔をあげ、恭一がのべてくれた自分の寝床をみつめていたが、急に飛びかかるように恭一の蒲団《ふとん》のうえに身を伏せた。
 「僕、……来年はきっと及第するんだから、許してね。」

 恭一は、返事をしないで、ふとんの中に身をちぢめた。
 が、しばらくたつと、顔をかくしたまま息づまるように言った。
 「僕、悪かったんだよ。
  ゆうべ、次郎ちゃんにいろんなことを訊《き》いたの……悪かったんだよ。」
 二人は、それからかなり永いこと同じ姿勢《しせい》でいた。

 しかし、そのうちに次郎もやっとあきらめたらしく、恭一の蒲団《ふとん》から身を起して、校服のまま自分の寝床にはいった。
 そして、二人共、さすがに疲れていたらしく、権田原先生がたずねて来て俊亮と階下で話していたのも知らないで、夕方まで眠った。

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