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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  136

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        九

 マヤコフスキーの告別式があってから一週間ばかりのちに、メイエルホリド劇場で、故人の「南京虫」の初演があった。

 五〇年後の社会主義の社会では、現在のソヴェト生活の日常につきもののようなわずらわしい南京虫、すなわち官僚主義だの、小市民根性だの、陰謀、利己心だのというあらゆる「害虫」は絶滅されて、わずか一匹の「南京虫」が過去の時代の記念物として、社会主義動物園に飼育されている。

 段々教室に腰かけた五〇年後の社会主義的青年男女学生は、合唱風におどろいたり、ふき出したり、罵ったりしながら、珍奇で醜悪な過去の棲息物を観察するという舞台だった。
 「南京虫」の第四場までは一九二九年現在の反社会主義への諷刺的な場面であり、第五場からが五〇年後の社会主義社会での場面ということになっている。

 舞台へ、巨大なつくりものの「南京虫」が大警戒のもとに運搬されて来る。
 「南京虫」は大衆の現実のなかで珍しい棲息物であるどころか、云ってみれば、しらみと同じ日常の虫だから、スターリングラードのホテルの寝台で伸子をおちおち眠らさなかったぐらいのものだから、五〇年後の社会ではその虫が、たった一匹保存標本として存在しているというような仮定そのものが、観客を笑わせずにおかないのだった。

 南京虫をきわめて有害なものとして、警戒するおかしみ。
 その虫のいかがわしい習性についてことこまかに説明する博物教師の科白《せりふ》の諷刺的なおもしろさ。

 メイエルホリドの機智とマヤコフスキーの言葉の魔術は、この舞台にもおしみなく発揮された。
 そして「南京虫」の一場一場は、機械的にわりきられた明快さと、観客の哄笑のうちにすすんでゆくのだった。

 伸子と素子とは、ときどき大波のように場内をゆすぶる笑声の中に漂いながら、或いは笑いの波をかいくぐりながら、奇妙なものうさを制しきれなかった。
 観客の笑いそのものが、伸子に苦しかった。
 その晩、メイエルホリドの観客席は、まるで笑いのためにそこに来ていて、爆笑を準備しているようだった。

 ある諷刺的な科白や場面へ来ると、待ちかねていたように、どっと笑った。
 しかしその数百の笑いは、笑いどよめくという風なたちの笑いかたではなくてどっと笑ってしまうと、それっきりぷつんと笑いの尾はきれてしまう、余韻のない笑いかただった。
 人生のユーモアがあって、思わず笑う心の笑いではなくて、伸子が感じるままに云えば、それは五ヵ年計画というものによって示される神経反射の一つのようだった。

 芝居ずきの素子は、腹立たしそうに、残念そうにつぶやいた。
 「こんなに見物にもたれこんじゃって。
  芝居になりっこありゃしない!」
 「観るもの《スペクタークル》でもいいのかもしれないわ。
  労働組合は、ここの切符だけをくばっているんじゃあないから」

 だけれども、やっぱり伸子とすれば「南京虫」の空虚さは居心地わるかった。
 観客は、「南京虫」へ向けられている諷刺を笑っているつもりかもしれなかった。
 しかし、五〇年後の社会主義社会の青年男女が十度も五ヵ年計画をしあげたのち、南京虫一匹に対してこんなに大仰にさわいで、目玉をむいたり、両腕をつきあげたりするだろうか。

 現に南京虫にくわれながらたたかっている人々はそうとは意識しない現実からの批判を笑いにこめて、南京虫への諷刺のうちに社会主義の坊ちゃん、嬢ちゃんのおかしさをも笑っていると思わずにいられなかった。

 伸子はほとんど笑わず、舞台を見ている。
 その目の中に、マヤコフスキーの遺骸の靴の底に光っていたへり止めの鋲がきらめいた。
 「風呂」そして「南京虫」。

 マヤコフスキーは、自分のこの二つの作品をどう思って舞台の上に観たろう。
 どんな思いをもって、夜更けのモスクワの道を自分の書斎へ帰ったろう。
 思いの多い道々に、彼の爪先には益々力がはいり、へり止めの鋲は一層光らせられ、最初のぼんやりした自分への疑問が、段々心のうちにつもって行って、ある瞬間に、否定できない明瞭さで自身の限界が自分に見えたとき、埋葬の夜までもなおいま歩道から来てそこに横わった人の靴裏でもあるかのように、マヤコフスキーの鋲はなまなましく光りを放った。

 伸子は、デスクの上に文学新聞をひろげたまま、肱をついた手にかしげている頭を支えて、まだ二重窓は開かれていないホテルの窓のガラス越しに、「モスクワ夕刊」の屋上を眺めていた。

 この間、この屋上で写真のとりっこをしてたのしんでいる二組の若ものたちがあった。
 あれから、もう一度、二人づれの青年が屋上にあらわれた。
 その連中は、何かの書類にはりつける必要でもあったのか、ひどく事務的に、立って、焦点をあわせて、シャッターを切って、そして降りて行った。

 伸子が、屋上にのぼっている青年たちを見つけたのは、それぎりだった。
 きっと建物管理委員会が禁じたんだろう。
 そう素子が推察した。
 だって、いくら厚いガラスだって、バタバタ、元気な連中にあがって来られたんじゃたまるまいもの。

 屋上へ出て来るのは、「モスクワ夕刊」に働いている若者ではなくて、同じ建物の中にある印刷労働者クラブへ出入りする青年たちのようだった。
 伸子にすれば、屋上をたのしんでいる若い人たちを遠く高いところから眺めているのもいいこころもちだったし、又きょうのようにガラス屋根をいたわって人影の出ていない屋上を見ているのも気もちよかった。

 モスクワの三つの停車場からは、春の活動のはじまった各地方のコルホーズ協力と見学とのために、工場から、演劇団体から、作家の団体から、毎日何人かずつがグループとなって出発している。
 伸子のデスクの上にひろげられている文学新聞にも、その記事があり、全露農民作家同盟のアッピールが発表されている。

 農民作家の団体は、四角四面に書いていた。
 農民作家の間に、いつからか「機械化の職場《ツエハー・インダストリザーチー》」という名をもつ一つの集団が出来ていた。
 そのグループの農民作家たちは、農村の機械化のために宣伝し協力することを建てまえとしていた。

 春の播種期にそなえて一月から各地で行われた富農《クラーク》の排除を通じて、「機械化の職場」の思いがけない本質があらわされた。
 「機械化の職場」は、農村の機械化のためにたしかに協力したが、それは、農村がコルホーズになってゆくためにではなく、富農たちが一つの地方で彼らの勢力の下にトラクターを集め使用を独占するために協力している事実がわかった。

 全露農民作家同盟は、熱心な自己批判を公表した。
 文学新聞にのっているアッピールは、来るべきメーデーのために、コルホーズの農民通信員からのルポルタージュのコンクールを告げたものだった。

 マヤコフスキーは、どうして社会主義を「南京虫」の象徴でとらえなければならなかったろう。
 パッサージ・ホテルの内部の暮しかたにあらわれているいろいろな変化をみても、飛躍そのものがリアリスティックだった。

 伸子と素子とがはじめてモスクワについて、窓から降る初雪を眺め、胸をときめかせてクレムリンの時計台がうち出すインターナショナルの一節に耳を傾けた一九二七年の夜、パッサージの二人の給仕たちは、全く忙しかった。

 伸子たち数人の日本人のいるタバコの煙のたちこめた室に、夜十時すぎてからサモワールを運びあげ、夜食の茶道具を運び上げて、二つの急な階段を上下したばかりでなかった。
 注文があればパッサージのどの室へでも正餐の料理を運ばなければならなかったし、一本の鉱泉水のために、もう若くない給仕のボリスが、あら毛の生えた太った頸すじを赭《あか》らめ、額に汗の粒を浮せながらうすよごれたナプキンをふってのぼって来るのに出くわしたりすると、伸子は気の毒な気がしたものだった。

 廊下のどこかでドアの一つが開けはなされていて、そこから無頓着な男の大声が、
 「ダワイ・ナルザーン(ナルザン水をもって来な)」
 と叫び、その声の主よりずっと年をとっているボリスの不機嫌な喉声が、昔の召使が主人に対してつかっていたとおりの言葉づかいで、
 「スルーシャユ・ス(かしこまりました)」
 と答えているのをきくと、伸子は時代錯誤を感じた。
 かつて人につかわれたものが、人をつかうようになったときの、人使いの荒さを感じさせられた。

 三年たって、また、伸子と素子とがパッサージで暮すようになった今、伸子たちの間で海坊主とよばれたボリスはもうパッサージにいなくなっている。
 洒落ものの、小指に指環をはめて、栗色の美しい髭にこてをあて、まき上げているノーソフだけが働いていた。
 しかし、おしゃれのノーソフは、もう三年前のように、サモワールをもったり、黒い大盆を肩にのせてたりして三階をのぼりおりし、はずむ息でスルーシャユ・スと云わないでもよかった。

 モスクワのホテル経営管理委員会は、五ヵ年計画による一つの改善として、パッサージのような内国旅行者のためのホテルでは、宿泊人は茶をのむことも食事も食堂でするようにとりきめた。
 そのかわり、宿泊人はいつでもホテルの台所へ行って、旅行者がステーションで熱湯をもらって来るように、熱湯をもらえるようになった。

 伸子は、この新しいホテル生活の日常的な変化を心から歓迎した。
 ハルビンからモスクワへ来るとき、知人がもたせてくれた大きい籐籠から、伸子は、これもハルビンで買った空色エナメルのかかったヤカンをとり出した。
 底が小さくて、胴のふくらんだ空色エナメルのヤカンは、湯のわきがおそいので下宿の主婦からはよろこばれない品だった。

 朝と夜、伸子はその空色ヤカンをさげて、台所へお茶のための湯をとりに行った。
 そのとききっと通らなければならない廊下の一番はずれの小部屋が、従業員たちの休憩所だった。
 その室の一隅から、廊下をゆっくり通ってゆく伸子の空色ヤカンに赤いかげがうつるかと思うほど、賑やかに飾られた「赤い隅」がつくられた。

 そして、その室の上に「ホテル・パッサージ細胞」と書いた紙がはり出された。
 これらのことは、伸子たちの室をうけもっている掃除婦カーチャの生活にも新しい局面をひらいた。
 たっぷりした美しい声と、ふくよかな胸をもつ若い母親であるカーチャは、伸子たちの室の床を、柄の長い油雑巾でこすりながら、云った。
 「この節は、すっかり暮しが新しくなりましてね、
  わたしたちの隅でも政治教育《ポリト・グラーモト》がはじまりましたよ」

 「それは結構だわ、カーチャ。
  あなたにはこと更結構よ。
  わたしの夫は外交官です、だけれども、わたしは彼の仕事について知りません。
  そんな風だったら不幸だもの」
 カーチャの夫は、彼女の言葉によれば、外交官になるために勉強しているのだそうだった。

 カーチャは、ゆたかな胸を波うたせながら油雑巾をつかい、
 「全くですよ、女はいつだってとりのこされてしまうんだから」
 そして、前歯が一本ぬけている口元で、彼女の働きぶりを見物している伸子に笑いながら、
 「教える者のあるうちに学べ」
 急ごしらえの格言のようなことを云って、バケツをさげて出て行った。

 伸子が住んでいたアストージェンカの建物が直接区の住宅管理委員会に属すようになったとおり、パッサージのホテル経営も、これまでより緊密にモスクワの人民食糧委員会に管理されることになったらしかった。

 ある朝、お茶の湯をとりに台所へ出かけた伸子は、台所の入口と食堂の入口との中間の廊下へテーブルを出して、そこへ帳簿とソロバンとをそなえつけている若い婦人を見出した。
 正餐《アベード》に食堂へ行ったとき、白いブラウスをつけ、白いプラトークで髪をつつんでいる彼女は熱心にソロバンを置きながら、サーヴィスされる正餐《アベード》の勘定をしていた。

 外部からそういう監督的な立場の婦人が通って来るようになって、ホテルの廊下、従業員休憩室、事務室、食堂、厨房の間を流れていた小ホテルの、のんきな雰囲気が、どことも知れず変った。

 食堂でノーソフは正餐《アベード》のサーヴィスをしても、心づけを全然うけとってはならないことになった。
 ノーソフにとって、このことは、僅かな金の問題よりも、むしろ、長年給仕として保って来た彼なりの職業上の誇りというか、生活の習慣にかかわる問題であるらしかった。

 というのは、伸子は、一週間ばかりして、ノーソフの上にあらわれたいくつかの変化に心づいたのだった。
 いつの間にか、ノーソフは御自慢の巻き髭にコテをあてなくなった。
 ある日の正餐のとき見たら、巻き上っていた彼の栗毛の髭は、平凡なチョビ髭にきりちぢめられていた。

 サーヴィスする手の小指にはめられている指環はもとのままであったけれど、彼のものごしにあった給仕独特のリズミカルな軽やかさは失われた。
 男給仕の水商売めいた曲線と弾力がノーソフの全部から急速に消えた。
 そのうちに廊下のテーブルへ通って来ていた婦人が交代して、年ごろは同じ二十五六歳だが、商業学校でも出たらしい亜麻色の髪の青年にかわった。

 台所と休憩室にまた話し声がしはじめた。
 その青年は、水色ヤカンを下げて台所へ湯をとりにゆく伸子にも、くちをきいた。
 伸子は、パッサージで暮していた間、これまでも毎朝バターの切れを一つ、一ルーブル半で買っていた。
 湯だけもらって来て、朝の茶を、自分の配給で買って来たパンや胡瓜漬でたべるようになっても、伸子はバターだけ食堂から買った。

 アホートヌイ・リャードの闇市はなくなった。
 トゥウェルスカヤの外交団のための食糧店は伸子たちの出入りしたくないところであったし、またそこのものは特別価格でもあった。
 伸子たちは工場にも経営にも勤務していなかったから、素子の友達のオリガをはじめ大部分のモスクワ市民が便宜を得ているように、勤め先の食糧販売所を利用することもなかった。

 そういう伸子たちにとって、バター、チーズは、パッサージの食堂からしか買いにくいものだった。
 廊下に机を出してひとがつめて来ているようになってから、伸子には、折々、バターが買えない日があった。
 そのひとの目をはばかってノーソフが売らないというのではなく、何かの都合で、パッサージにわり当てられる一日のバターの総量が、一日平均のサーヴィス予定とぎりぎりであるというような日、伸子が買えるバターはないのだった。

 バターのない日、伸子たちはパンの上へうすく切った塩づけ胡瓜だのイクラだのをのせて、すました。
 朝飯や夜食を食堂でたべれば、当然バターはとれた。
 しかし、文明社が伸子へ送る金をことわってよこしてから、伸子たちは、ひきしめたやりかたをしていて、正餐だけしかホテルの食堂ではとらないのだった。

 文明社が社長の立候補で損をしたという理由で金を送ってよこさなくなったことは伸子の手もとをつまらせたし、ソヴェト同盟が、ウラジボストークにある極東銀行を閉鎖したことは、東京の従弟を通じて素子がうけとる自身の金の取り扱いを複雑にした。
 伸子も素子も金につまっているのだった。

 伸子は、いまのモスクワで、自分たちが不如意にいるのは、いいことだと思った。
 五ヵ年計画の壮大な図取りと、異常な努力で遂行されているその成果について、人々は「プラウダ」でよむことができ、労働者クラブのパノラマと統計で見ることが出来、すべての集会の演説できくことが出来た。

 化学労働者クラブに、ドニェプル発電所建設のほんとにみごとな模型がつくられていた。
 そのまわりを囲んで立つ男女労働者たちは、何というまじりけない感歎と、期待とほこりをもって「われらの成果」たるドニェプルの模型にスウィッチを入れ、赤・青の豆電気が、かわりがわり、大きい模型の重要地点にきらめく様に見入っていることだろう。
 うっとりするほど壮大で美しい、そしてほこりたかい五ヵ年計画を完成するために、努力の日々の中でソヴェトの人々はどんなに各自の生活を重点的に整理しているか。

 その現実を伸子が身に添えて理解するのは、パッサージで買えない日のあるようになったバターの問題であり、ノーソフの意気銷沈の意味であり、台所と食堂のその廊下に据えられた一台のテーブルとそこへ来た婦人、その人のいる間、なぜホテルの階下は陰気になっていたか。
 それから代った青年になって、カーチャの笑声をきくことができるようになったのは、何故かの問題だった。
 伸子のささやかな存在は、生活そのもので五ヵ年計画のすべての壮大さと、同時に、うけとらずにいられない日常的なこまかい現象の一つ一つを味わいかみしめて感じとっているのだった。

 ある晩、芝居から帰って来て、伸子はのどが乾いてたまらなくなった。
 外套をぬいだばかりで、伸子が、
 「お湯をとって来る」
 空色ヤカンをとりあげた。
 「もう、しめてるだろう」
 「ともかく、行ってみるわ」
 十二時すぎた裏階段を、伸子は階下まで駆けおりた。
 そして、大いそぎで台所への廊下をゆくと、従業員休憩室はとうに暗いが、いいあんばいにつき当りの台所のドアはまだあいていた。

 奥から、食器類を洗っている音がする。
 伸子は、ドアから入った。
 そんな時刻にかかわらずニッケルの大湯わかしのコックから熱湯の湯気がふいていた。
 「まあ、運がよかった!
  お湯を下さい」
 大流しに積まれた皿類を洗っている女は、伸子が見たことのない四十がらみのひとだった。

 骨ばった、力のありそうな体つきで、たった一人、皿洗いしていたその女は、洗い桶のところから伸子を見た。
 「どうぞ」
 彼女はパジャーリスタとは云わないで、よく街頭の物売女がいうようにぞんざいにパジャーリチェと云った。
 ざらっとした声だった。

 顔だちや髪に荒れたところのある、だが身をもちくずしたというのでもないその女は、パッサージでは見かけることのすくないたちの女だった。
 「どうして、こんなにおそくまで、お皿を洗っているの?」
 ニッケル湯沸しのコックに空色ヤカンをあてがいながら、湯気の間から伸子がきいた。
 「ドイツから代表がついたんです。
  彼らは、ついてから食べたんです」

 「あなたは、臨時?」
 「そうですよ」
 皿を洗いながら、女は、
 「臨時ってのは分《ぶ》がわるくてね、仕事がいつだって多いんだから」
 ぬれ手をあげて腕で、額をこすった。
 「臨時は、臨時の手当てがあるんでしょう?
  あなた、いくらとるの?」

 女は、すばやい視線で、伸子の質素な白いフジ絹のブラウスを見た。
 「いくらでもありゃしませんよ」
 だまっている伸子に、その女は、ざらっとした声で、あたりまえに云った。
 「いくらにもなりゃしないけれどもね、この頃じゃ、ずっとつづけて仕事があるんでね。
  それが大きいんですよ。
  並木道《ブリワール》をぶらつかないでも食べて行けるってことだから、
  分るでしょう《パニマーエッシ》?」

 モスクワで、並木道《ブリワール》をぶらつく、と云えば売笑をすることだった。
 伸子は、モスクワの生活の深みをさぐっている自分の理解の石づきが、この女の言葉で、ごく底のたしかなところへ触れたと感じた。

 五ヵ年計画。
 社会主義建設。
 何かしら上へ上へと聳え立って行くような立派さとしてだけうけとられがちだけれども、「風呂」を見ればマヤコフスキーも、そう感じていたにちがいなかった。
 あるいは、そう感じるべきだと考えさせられていたのかもしれないが。

 社会主義の最も強固で広い基底は夜勤の臨時皿洗いの女が、もしかしたらいくらか病毒におかされている彼女のざらっとした声で云った数語の上にあった。
 「ずっとつづけて仕事があるんでね、それが大きいんですよ。
  並木道《ブリワール》をぶらつかないでも食べて行けるってことだから。」
 彼女が、伸子にへだてのない、お前よび《トウィカーチ》でパニマーエッシと云ったとき、その響きのなかには、生きてゆくということはどんなことかを知っている女同士としてのいつわりなさがあった。

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