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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  134

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        七

 毎晩十二時に、クレムリンの時計台からインターナショナルの一節がうち出される。
 その響きがまた夜空を流れて伸子たちの室の窓辺にきこえるようになった。

 パッサージに住めた伸子の安心は、思いがけない楽しさでゆたかにされた。
 偶然、もと住んでいた七四番の、ひろい部屋がとれたのだったが、一九二八年の冬から春にかけてそこに暮したとき、伸子が最初のモスクワの冬景色としてみていたのは、荒涼とした廃墟の鉄骨とそこに降る雪の眺めだった。

 パッサージ・ホテルという名の由来は、このホテルをこめてトゥウェルスカヤ通りの角に大きく建っている建物の下に、物産陳列をした勧工場《パッサージ》があったかららしかった。
 おそらくそこへの取引に出て来た各地方の商人たちが定宿としていたのがいまのホテル・パッサージであるのだろう。

 陳列場《パッサージ》の裏側を見おろす位置にある伸子たちの室の窓の下に、ガラス張りだったパッサージの屋根が破壊されたままで鉄骨をむき出していた。
 モスクワの雪は、きのうもきょうも絶え間なく降って、降る雪は、廃墟の鉄骨の上につもり、更にその間の黒い底知れない穴へ消えてゆく。

 窓に佇んで降っては消え、降っては消える雪片を眺めていると、伸子は軽いめまいを感じた。
 狭い往来をへだてた場所では大規模な中央郵便局の建築工事が進行中だった。
 夜中もプロジェクトールの強い光が雪の吹きだまりのある足場を照し出している。
 その対照は、いかにも強烈に、きのうときょうのモスクワを語っているようだった。

 こんど七四番の室のドアをあけた刹那、伸子は、そこがまるで別なところになったような感じがした。
 キラキラした明るさが、うす青い壁にかこまれた室じゅうに反射している。
 パッサージの屋根に、いつかすっかりガラスがはいっているのだった。
 トゥウェルスカヤ通りからみると「モスクワ夕刊」と重々しく派手な電気看板がついた、そこの屋根にあたるのだった。

 夜になると、伸子はわが目とわが耳とをうたがった。
 ガラス屋根は、内部にともされるどっさりの燈火をうつして柔かくガラスのランターンのように輝きはじめた。
 柔かな明るさの奥から、音楽がきこえた。

 伸子たちの室の窓は、パッサージの屋根より高いところにあったから、そのガラス屋根の輝きやそこから微かに湧いてきこえる音楽は、ホテルの夜の単調さをやわらげる役にこそ立て、伸子たちの生活の邪魔にはならないのだった。
 並木道《ブリワール》につづいたアストージェンカの、しんとした夜々が、モスクワの活気にみちた夜にかわった。

 そして、或る日の午後、伸子はふと窓の下のガラス屋根に何かを認め、そっとデスクの前を立って窓へよって行った。
 もう日蔭にしか雪ののこっていない早春の、乾いたガラス屋根のところに、三人の青年と二人の娘が出て来ている。
 二人の娘は並んで前列に、二人の青年は、そのうしろに、几帳面に並んでポーズしている。

 こっちに、伸子の見おろしている窓の側に横顔を見せて、金髪の若ものが、写真機を両手の間にもって、一心にファインダーをのぞいているところだった。
 去年まで、写真機をもっているモスクワの若ものたちを見かけるというようなことはなかった。
 春から夏の間、並木道《ブリワール》の散歩道で菩提樹のかげに写真屋が出て、繁昌していた。

 伸子は、心から、まあ!と思った。
 この人たちが写真機をもつようになった!
 若者たちの様子には、何とも云えない新鮮さがあった。
 ファインダーをのぞいている金髪の青年が、何か云って、右手で合図した。
 うしろに立っている二人の青年が、一歩ずつよりあって互の距離をちぢめ、その工合を互にたしかめあった上で、また正面をむいて、ポーズしなおした。

 ファインダーをのぞきこんでいた青年は、しきりに苦心中らしかったが、遂に彼がその顔をあげて何かいうと、娘たちは、ひどく笑い出した。
 声はきこえないけれども、その嬉々としている様子は手にとるように見えて、こちらの窓の中から見ている伸子に笑いが感染した。

 それほど彼女たちは愉快に笑うのだった。
 写真は、まだとるところまでこぎつかない。
 タバコを一服すると、金髪の青年は、こんどこそシャッターをきる決心らしく、上衣をぬいで、伸子がおどろいたことには、まだ雪がのこっている気候だというのに夏の紺と白との荒い横縞のスポーツ・シャツ一枚になった。
 四人はまた前のとおりの型で、自分たちをこりかたまらした。
 そして、こっちで見ている伸子の体までこわばって来るような数秒の緊張ののち、シャッターがきられた。

 よほどフィルムが大切にちがいなかった。
 スナップのためにはたった一度シャッターがきられたきりだった。
 なおしばらく若者たちは、ガラス屋根の上にのっていることを楽しんで、やがて降りて行った。
 それらは、ほんの些細な光景にちがいないのだ。
 が、伸子の心に、いちいち触れた。
 触れて何かの響きを感じさせた。

 伸子の目の下にふとあらわれるこんな光景と、素子が銀製のスプーンを買ったりすることとの間に、伸子は、体が何かにはさまれているような矛盾を感じるのだった。
 パッサージへ引越して来ると間もない日、素子は正餐まえの散歩に伸子を誘い出した。
 「めずらしいのね、どこへ行くの?」
 「行って見りゃ、わかるよ」
 素子は芸術座の前の通りを真直に行って、商業地区の方へ歩いた。

 伸子は、国立交換所へ行こうとしているのかと思った。
 文明社が、もう金を送ってよこさないことはたしかになった。
 いま国立銀行にあずけてある金がきれれば伸子はウィーンで買った外套や靴を売ることにきめていた。
 去年まで着た黒い外套とその裏についている猿の毛皮も売っていいと考えていた。
 そういう物品を正直な市価で交換するために、モスクワの人々は国立交換所を利用しているのだった。

 ところが、素子が開けてはいった立派なドアは、国立貴金属販売店だった。
 案外の思いで、のろのろとついてはいった伸子にかまわず、素子は陳列台の前にかけて、銀製のスープ用大型スプーン、中型スプーン、コーヒー用小型スプーンを店員に出させた。
 外交団関係の婦人だと思ったのだろう。
 店員は、丁寧なものごしで、素子の選び出した簡素なデザインのスプーンを三とおり、半ダースずつ、わきへとりのけた。

 そこまできまってから、素子は伸子に、
 「やっぱりイニシァルをつけといた方がいいだろう、ね、ぶこちゃん」
 と云った。
 伸子は、全体としてそんな買物の意味がのみこめなかった。
 素子の横に腰かけたまま沈んだ眼色で、美しく光っている大小の銀の匙を見つめた。

 はきはき返事をしない伸子をゆすぶるように、
 「ね、ぶこはどう思う?
  きいているんだよ」
 「さあ、つかい道によるんじゃない?」
 「いずれわれわれが使うのさ」
 銀のスプーンを?
 その生活は、どこで、どんな生活だというのだろう。
 伸子にとってあんまり現実ばなれした感じだった。

 伸子は、
 「あなたのをつけたら」
 と云った。
 「そんな気のない顔をしなくたっていいじゃないか。
  どうせ自分だってつかうときがあるのに。
  どっちにも通用するのを見つけなくちゃ」
 吉見素子・佐々伸子。
 ローマ字綴りで二つの名を書いたとき共通なのはまずエスの字だった。
 それはロシア文字ではС《エス》だから、それ一つを飾り文字としては淋しすぎるのだった。

 店員と素子とは、飾文字の様式を集めたカタログをひろげて見ている。
 銀のスプーンそのものに興味をもてずにいた伸子の気持が、飾文字のデザインにひかれた。
 鉛筆をとっていろいろ書いてみているうちに、二つのС《エス》が、一つは大きく、もう一つは小さく、大きいС《エス》にひっかかって鎖の破片のように組合わされている形を見つけ出した。

 「ふーん、これは、愛嬌があっておもしろいや」
 頭文字にはそれを彫りつけることにきまった。
 一週間たってまた来ることにして伸子たちは店を出た。
 「えらく良心的なんだな」
 ぎこちなく並んで歩いている伸子を素子が眼のよこから見ながら、からかった。
 「きみだって、プラーグじゃ、ボヘミヤン・グラスは美しいって、
  灰皿だのリキュールのセットを買ったんだよ」
 いま、モスクワで自分がスプーンを買うのはそれと同じことだと素子はいうつもりなのだった。

 外国ではそういう買ものもした伸子が、モスクワだと何かに気をかねている、素子はそこを辛辣に指摘したいらしかった。
 しかしプラーグで買った僅の品は、伸子のスーツ・ケースには入っていない。
 素子がしまって、もっている。
 それについていうよりも、ともかく伸子にとっては、周囲に動いているモスクワの生活と銀のスプーンを買いこむということ。

 何かわからないけれども絶えずぼんやりした予感のそよぎのうちにある不確定な自分の未来と銀のスプーン。
 その連関に、何かつよく錯誤しているものが感じられて、気分がおかしいのだった。

 マヤコフスキーが、ピストルで自殺した。
 そのニュースが人々をおどろかしたのは、伸子と素子とが銀のスプーンのことから気分をこじらせて、口をきかないで床についた翌《あく》る朝のことである。

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