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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  37

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    三 大きな笑《え》くぼ

 二人が正木の家《うち》についたのは十一時を少し過ぎたころだった。
 正木では、俊亮が午前中に来ると予想していなかったらしく、門口をはいると、みんなが、「おや」という顔をした。
 老夫婦は、しかし、二人の顔を見ると、次郎の方にはろくに言葉もかけないで、せき立てるように、俊亮だけを座敷に案内した。

 次郎には、それが物足りないというよりは、何かしら気になった。
 で、カバンを二階の子供部屋の机の上におくと、自分もすぐ座敷の方に行ってみるつもりで、梯子段を降りかけた。
 しかし、梯子段の下には、もう従兄弟たちが待っていて、やんやとはしゃぎながら、彼を蝋小屋の方にひっぱって行った。
 蝋《ろう》小屋の蒸炉《むしろ》には、火がごうごうと燃えていた。

 従兄弟たちは、そのまえに行くと、めいめいに火掻《かき》や棒ぎれをにぎって、さきを争うように、炉口《ろぐち》にうずたかくなっている蝋灰をかきおこしはじめた。
 蝋灰のなかからは、まるごとに焼けた薩摩芋がいくつもいくつもころがり出た。
 次郎は、もうすっかり腹が減《へ》っていたので、その香ばしい匂いをかぐと、すぐその一つに手を出した。

 火傷《やけど》しそうに熱いのを、両手で持ちかえ持ちかえしながら、二つに折ると、黄いろい肉から、湯気がむせるように彼の頬にかかった。
 彼はふうふう吹いては、それを食った。
 従兄弟たちもさかんに食った。
 食いながら、みんなでいろんなおしゃべりをしては、笑った。

 次郎は、急にのびのびしたあたたかい気持になり、きのうまでの不愉快な生活を夢のように思い浮かべた。
 そして今更のように、正木の家はいいなあ、と思った。
 しかし、一方では、どうしたわけか、しばらくぶりで逢《あ》った従兄弟たちが、何とはなしに物足りないように思われてならなかった。

 むろん、彼らが次郎に対して、いつもよりは冷淡だったというのではない。
 それどころか、芋を焼いていた彼らが、次郎が帰って来たのを知ると、彼をも仲間に入れようとして、すぐ飛んで出て来たのには、むしろいつも以上の親しさが感じられた。
 それにもかかわらず、次郎は、彼らとこうしていっしょにおしゃべりをしたり、笑ったりしているのが、何とはなしに、いつもほどしっくりしない。

 彼は、自分ながら変な気がした。
 従兄弟たちは、いったいに、学校の成績はいい方ではない。
 久男は、恭一よりも二つも年上だが、少し耳が遠いせいもあって、中学校には二度も失敗し、やっと私立の商業学校にはいって、今二年である。
 源次は次郎より一つ年上で、気はきいているが、ずぼらなところがあり、やはり一度は中学校に失敗して、この三月に、次郎といっしょにもう一度受験することになっている。

 しかし、今でもちっとも勉強しようとはしない。
 この二人にくらべると、彼らの義理の弟になっている誠吉の方が、ずっと出来がいいのだが、彼はまだ尋常四年だし、次郎の勉強の相手にはてんでならない。
 次郎が、そんな点で、ふだんから彼らにいくぶんの物足りなさを感じていたのはたしかだった。

 しかし、きょうの物足りなさは、それとは全くちがった物足りなさだった。
 従兄弟たちの好意は十分にみとめながらも、それがしっくり身について来ないといった感じだったのである。
 これは、しかし、実は不思議でも何でもなかった。
 彼は、彼自身ではっきり意識していなかったとしても、やはり、心のどこかで、まだ万年筆のことを思いつづけていたにちがいなかったのである。

 いや、万年筆をとおして、たまたま数時間まえに示された肉親の兄の愛が、久しく彼の血管の中に凍りついていた本能の流れを溶かして、従兄弟たちの好意を、その流の上に、木の葉でも浮かすように、浮かしはじめていたにちがいなかったのである。

 血は水よりも濃い。
 そして濃い血は淡い血よりも人の心を濃くする。
 次郎が今日従兄弟たちの愛をいつも程に味わい得なかったとしても、それは決して彼の軽薄さを示すものではなかったのだ。

 だが、実をいうと、次郎の気持を従兄弟たちから引きはなしていた理由は、ただそれだけなのではなかった。
 彼の心の動きはいつも単純ではない。
 生れた瞬間から、八方に気をつかうように運命づけられて来た彼は、焼芋を頬張ったり、おしゃべりをしたりしている最中にも、やはり、老夫婦がせき立てるように父を座敷につれて行ったことを忘れてはいなかったのである。

 彼は、焼芋を三つ四つ食い終ったころ、ふと思い出したように言った。
 「僕、まだお祖父さんにご挨拶してないんだよ。」
 これは、むろん嘘だった。
 彼はさっき茶の間にあがるとすぐ、まっさきにお祖父さんに挨拶をすましていたのである。

 彼は、言ってしまって嫌な気がした。
 このごろめったに小細工をやらなくなっている彼ではあったが、何かの拍子に、われ知らずそれが出る。
 そしていつも後悔する。
 後悔はするが、すなおに小細工をひっこめる気にはなかなかなれない。

 その結果、一層まずい小細工をやって、あとでは手も足も出なくなってしまうことが多い。
 そんな時にかぎって、彼には母やお浜の顔を思い浮かべる余裕がない。
 それを思い浮かべるのは、たいてい何もかもすんでしまったあと、ひとりで、にがい後悔のあと味を噛みしめている時なのである。

 「じゃあ、すぐ行っておいでよ。」
 久男が年長者らしく言った。
 むろん次郎がどんな気持でいるのか、それにはまるで気がついていなかったらしい。
 「すぐまた、ここにおいでよ。
  これから餅を焼くんだから。」
 源次が芋の皮を炉に投げこみながら言った。

 次郎は変にそぐわない気持で立ち上った。
 すると誠吉が、
 「餅なら、僕がとって来らあ。
  次郎ちゃん行こう。」
 と、次郎と肩をくみそうにした。
 次郎の手は、しかし、ぶらさがったままだった。

 蝋小屋を出て、母屋の土間にはいると、誠吉は、台所で午飯の支度をしていたお延に言った。
 「母さん、源ちゃんが餅を下さいって、次郎ちゃんと、蝋小屋で焼いて食べるんだってさ。」
 次郎には、誠吉のそうした卑屈な言葉が、いまはとくべついやに聞えた。
 「もうすぐお午飯《ひる》だのに。
  でも、少しならもっておいでよ。」
 お延は、そう言って、次郎の方をちらと見た。

 次郎には、それもいい気持ではなかった。
 彼は茶の間をぬけて、座敷の次の間まで行ったが、そこで立ちすくんでしまった。
 襖のむこうからは、ひそひそと話声がきこえるが、落ちついて立ち聞きする気にはもうなれない。
 さればといって、思いきって座敷にはいって行く勇気も出ない。
 結局、従兄弟たちに言った嘘をほんとうらしくするために、わざわざここまでやって来たに過ぎないような結果になってしまったのである。

 彼はすぐ次の間から引きかえそうとした。
 が、もう一度蝋小屋に行って、いかにもお祖父さんに挨拶をして来たような顔をするのがいやだったので、ちょっと思案していた。

 すると、急に座敷の話声が、高くなった。
 「いや、先方はまだ何も知りませんのじゃ。」
 お祖父さんの声である。
 つづいてお祖母さんの声がきこえる。
 「先方では、あんたが、きょうこちらにお見えのことも知らないでいるはずでございますよ。
  きょうは私どもの急な思いつきで、顔だけでもあんたに見ておいてもらったら、
  と思いましてね。
  幸い先方が訪ねて来るというものですから。」

 「なあに、いけなけりゃ、いけないで、ちっとも構いませんのじゃ。
  じゃが、仏に対する遠慮なら、もう無用にしてもらいましょう。
  ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 次郎はもう動けなくなった。
 「そりゃあ、気が利かないうえに、学校も小学校きりでございますから、
  何かと足りないがちだろうとは思います。
  ただすなおなのが取柄でございましてね。」
 「生半可《なまはんか》に気が利いたり、学問があったりするのは、
  こういう場合には、かえってよくないものじゃ。
  ことに、次郎にはやさしいのが何よりじゃでのう。」

 次郎はいつの間にか、襖の方に二三歩近づいていた。
 彼にはもう、話の内容がおぼろげながらわかりかけて来たのである。
 「しかし――」
 と、はじめて俊亮の声がきこえた。
 次郎はごくりと固唾《かたず》をのんだ。
 「この話は、次郎本位に考えるだけでいい、というわけでもありませんし……」
 「ご尤も。」
 とお祖父さんが言った。

 俊亮は少し声を落して、
 「何しろ、ご存じの通りの内輪の事情ですから、誰に来てもらったところで、
  ずいぶんつらいことがあるだろうと思います。」
 「それはいたし方ない。
  先方も初婚というわけではないし、それに、さっきから話しましたような事情じゃで、
  とくと話せば、大ていのことは我慢する気になるだろうと思いますがな。」

 「しかし、それも程度がありますのでね。
  それに、万一来て下さる方が、次郎の方にだけ親しみが出来るというようになりますと、
  いよいよ面倒になりまして、次郎のためだと思ったことが、
  かえって悪い結果にならんとも限りませんし……」
 「なるほど、そこいらはよほど気をつけんとなりますまい。
  じゃが、かげになって次郎をかばってくれる女が、一人は居りませんとな。」

 しばらく沈默がつづいた。
 次郎はただ頭がもやもやしていた。
 父にどう返事をしてもらいたいのか、それさえ自分でもわからなかった。
 第二の母、そんなことは、まだこれまでに彼が考えてみようとしたことさえなかったことなのである。

 「とにかく、会ってやって下さるぶんには、差支えございませんでしょうね。」
 お祖母さんの声である。
 次郎は固唾をのんだ。
 「ええ、それはかまいません。
  どうせ今日は、おそくなれば夜になる肚《はら》であがったんですから。」
 次郎は、失望に似た感じと、好奇心に似た感じとを、同時に味わった。

 「次郎ちゃん、何してんだい。
  餅が焼けたよう――。」
 誠吉が土間の方から呼んでいる声がきこえた。
 彼は、はっとして、急いで部屋を出た。
 蝋小屋に行ってみると、もう餅がふくらんで、熱い息を吹き出していた。
 蓆《むしろ》のうえには、醤油と黒砂糖を容れた皿が二つ置かれていた。

 しかし、彼には、もうほとんど食慾がなかった。
 彼は、蒸炉にもえさかっている火の勢いで、自分の頭がぐるぐる回転しているような感じだった。
 間もなくお延が、彼らを午飯に呼びに来た。
 次郎は、しかし、ちゃぶ台のまえに坐っても、お延が盆をもって座敷に往ったり来たりするのに気をとられて、たった一杯しかたべなかった。

 従兄弟たちは、それをべつに変だとも思わなかったらしい。
 彼らの腹も、蝋小屋で食った薩摩芋と餅とで、もう相当にふくらんでいたのである。
 次郎は食事をすますと、一人で二階に行って、お浜に手紙を書きはじめた。
 彼は先ず、町から正木に帰って来たことを知らせ、それから、さっきの座敷の話について何か書くつもりだった。

 しかし、彼はそれをどう書いていいのか、さっぱり見当がつかなかった。
 で、町で一度父に映画を見せてもらったことや、恭一に万年筆をもらったことや、父といっしょにお墓詣りをしたことなどを、多少の感傷をまじえて書いた。
 本田のお祖母さんのことは、何とも書かなかった。
書きたくなかったのである。
 正木のお祖父さんや、お祖母さんについては、何かちょっとでも書いておきたいと思ったが、書こうとすると、ついさっきの話がひっかかって、筆が進まなかった。
 で、とうとうそれを思いきって、最後に、例のとおり、「では乳母や、からだに気をつけてください」と書き、すぐ封筒に入れて封をしてしまった。

 彼は、しかし、何だか物足りなくて、それからしばらくは、ぽかんと机に頬杖をついていた。
 そのうちに、継母を持っている数人の学校友達の顔が、ひとりでに思い出されて来た。
 そのある者は彼の非常にきらいな子供だったし、またある者は彼がかなり親しんでいる子供だった。
 彼は、しかし、それらの顔を思い浮かべたために、一層不愉快にもならなければ、慰められもしなかった。

 彼は、そのうちに、万年筆のことを思い出して、カバンの中からそれを取り出した。
 そしてキャップをとって、ためつすかしつ眺めはじめた。
 それは吸上ポンプ式だったが、まだインキが入れてなかった。
 彼は町で、恭一がそれに水を入れたり出したりしたのを見ていたので、どうすればインキがはいるのかがわかっていた。

 彼は部屋を見まわして、久男の机の上にインキ壺を見つけると、すぐそこに行ってインキを入れた。
 そして、自分の机のところに持って来ると、それでお浜に出す手紙の上がきを書いた。
 筆や鉛筆で書くのとちがって非常に書きづらかった。
 ペン先に紙がひっかかって、インキが点々と散った。
 それでも彼は、お浜あての手紙に、兄にもらった万年筆をはじめて使ったのが心からうれしかった。

 そして何度も封筒をひっくりかえしては、青みがかった文字の色をながめた。
 彼はそれでいくらか気が軽くなって、階下《した》におりた。
 そして従兄弟たちを探すために、蝋小屋の方に行きかけた。

 すると門口から、背《せ》の馬鹿に高い、頭のつるつるに禿げた、真白な顎鬚《あごひげ》のある老人がはいって来た。
 次郎は、一目見ると、それが母の葬式の時に来ていた人だということを、すぐ思い出した。
 天狗の面を思わせるような顔が、次郎の記憶に、はっきり残っていたのである。

 老人は、そりかえるように背をのばして、大股《おおまた》に土間を歩いて行った。
 次郎が、ぼんやり突っ立ってそれを見送っていると、つづいて三十あまりの年頃の女が門口をはいって来て、小走りに彼のそばをすりぬけた。
 彼はちらとその横顔を見たが、少しも見覚えのある顔ではなかった。
 色が白くて、頬がやわらかに垂れさがっているような感じの女だった。
 彼は、しかし、その瞬間はっとした。そして吸いつけられるように、うしろ姿に視線をそそいだ。

 「まあ、よくいらっしゃいました。
  さあどうぞ。
  父もたいへんお待ち申して居りました。」
 お延があいそよく二人を迎えた。
 「きょうはお延さんにお造作《ぞうさ》をかけますな。
  はっはっはっ。」
 老人は肩をそびやかすようにして、そう言いながら、さっさと上にあがった。

 女の人は、上り框のところで、土間に立ったまま、何度もお延に頭をさげていたが、これも間もなく障子の向こうに消えた。
 次郎は、それまで、一心に女を見つめていた。そして障子がしまると、急に自分にかえって、あたりを見まわした。

 あたりには誰もいなかった。
 彼は、これからどうしようかと考えた。
 むろん、もう従兄弟たちを探す気にはなれなかった。
 二階に一人でいる気もしなかった。
 彼は、何度も門口を出たりはいったりしたあと、いつの間にか、母屋と土蔵との間の路地をぬけて庭の方にまわり、座敷の縁障子のそとに立った。

 しかし障子が二重になっていて、内からの話声はほとんどきこえなかった。
 ただ、みんなの笑声にまじって、さっきの老人の声が一きわ高くひびいてくるだけだった。
 彼は、障子の内に、父とさっきの女の人との坐っている位置をさまざまに想像しながら、寒い風にふかれて、しばらく植込をうろつきまわっていたが、ふと、従兄弟たちが自分のいないのに気づいて、探しに来てもいけない、と思った。

 で、何食わぬ顔をして、急いで蝋小屋の方に帰って行った。
 蝋小屋には、しかし、もう従兄弟たちはいなかった。
 仕事も早じまいだったらしく、炉の中には、灰になりかかった燠《おき》が、ひっそりとしずまりかえっていた。
 次郎は、一人でいるのが結局気安いような気がして、蓆の上にごろりと寝ころんだ。
 そして、次第に白ちゃけて行く燠にじっと眼をこらした。

 「ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 そう言ったお祖父さんの言葉が思い出された。
 それはいいことのようにも思えたし、また悪いことのようにも思えた。
 自分のために、悪いことを考えるようなお祖父さんではない。
 そうは信じていたが、ふだんのお祖父さんの言葉のように、彼の心にぴったりしないものがあった。

 「かげになって、次郎をかばってくれる女が一人は居りませんとな。」
 そうもお祖父さんは言った。
 が、次郎にはやはりそれもぴんと響かなかった。
 もし、さっき見た女の人がそうだとすると、あんな人に、乳母やのような親切な心があるわけがない。
 だいいち、あの女は自分がこれまで見たこともない人ではないか。

 彼は、それからそれへと、いろんなことを考えつづけた。
 しかし、考えれば考えるほど、いよいよわけがわからなくなって来た。
 そのうちに、あたりがそろそろ暗くなり出し、おりおり炉の中でくずれる燠《おき》が、ぱっと明るく彼の顔をてらした。
 そして彼の眼に浮かんで来るのは、母や乳母やの顔ではなくて、いつも、さっき見た女の人の横顔だった。

 彼は、しかしそう永くは蝋小屋にも落ちつけなくて、間もなく茶の間の方に行った。
 茶の間には、もうあかあかと電燈がともって居り、客用のお膳がいくつも用意されていた。
 彼は、火鉢のそばに坐ってそれを見ているうちに、お膳の上のものをめちゃくちゃにひっくりかえしてみたいような衝動を感じた。

 「ひとりでいるの?
  みんなどこに行ったんだろうね。」
 お延が忙しそうに立ち仂きながら、次郎に言った。
 「どこに行ったんかね。」
 次郎は、気のない返事をして、相変らずお膳を見つめていた。
 「喧嘩をしたんではない?」
 「ううん。」
 「誠吉もいないの。」
 「僕、知らないよ。」

 お延は、心配そうに何度も次郎の顔をのぞいていたが、そのうちに、女中と二人で座敷にお膳を運びはじめた。
 次郎は、お膳が一つ一つ眼の前から消えて行くごとに、座敷の様子を想像して、ただいらいらしていた。
 ご馳走がおわって、客が帰ったのは九時すぎだった。
 ほかの子供たちはもう寝てしまっていたが、次郎だけは茶の間に頑張っていて、みんなに挨拶している女の人の顔を注意ぶかく観察した。

 それは幅の広い、ぼやけたような顔だった。
 ただ、笑うと右の頬に大きな笑くばが出来るのが、はっきり次郎の眼にうつった。
 次郎は、その顔からべつに不快な感じはうけなかった。
 しかし、記憶に残っている母の引きしまった顔とくらべて、何だか気のぬけた顔だと思った。
 俊亮は、座敷に残ったまま、二人を送って出なかった。
 そして、それから老夫婦と二十分ほど何か話したあと、帰り支度をはじめた。

 次郎は彼の顔にも注意を怠らなかったが、別にいつもと変った様子がなかった。
 「次郎はまだ起きていたのか。」
 あっさりそう言って、上り框《がまち》をおりた父の様子には、次郎だけが味わいうるいつもの親しさがあった。
 次郎は何か知ら安心したような気持になった。

 俊亮は土間で自転車に燈《ひ》を入れながら、お祖母さんに向かって言った。
 「急にっていうわけにも行きますまいが、いずれ母の考えもききました上で、
  手紙ででもご返事いたしますから。」
 次郎はそれでまた変な気になった。

 彼は床にはいってからも、ぼやけたような顔だと思った女の顔を、案外はっきり思いうかべた。そして何度もねがえりをうった。

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