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名作を読みませんかコミュの「次郎物語」  下村 湖人  26

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   三一 新生活

 翌日は本田の一家が出発する日だったにも拘《かかわ》らず、次郎は、平気で学校に行った。
 みんなも、いっそその方がよかろうというので、強いて休ませようともしなかった。
 帰って来てみんなの姿が見えなかったら、きっと淋しがるだろうと、正木では気をつかっていたが、別にそんなふうにも見えなかった。

 それ以来、彼の日々は割合平和に過ぎた。
 気持がのびのびとなるにつれて、喧嘩をしたりすることも、割合に少なくなった。
 土曜から日曜にかけて、正木のお祖父さんや、、お祖母さんにつれられて、おりおり本田の家にも訪ねて行った。

 しかし、彼が帰りをしぶるようなこととは一度だってなかった。
 ただ、町の賑やかさは、彼にとって新しい刺戟だった。
 町は、人口三四万の、古い城下町だったのである。

 俊亮夫婦は、この町の、割合賑やかな通りに、店を一軒借りて酒類の販売を始めていた。
 店は間口も相当に広く、菰《こも》かぶりや、いろいろの美しいレッテルを貼《は》った瓶などを、沢山ならべてあって、次郎の眼には眩《まば》ゆいように感じられたが、奥は、以前の家とは比べものにならない、狭い、汚ならしい部屋ばかりだった。

 恭一と俊三とが机を並べている部屋は、ちょうど店の二階になっていた。
 そこは物置同様で、鉄格子の小窓がたった一つあいているきりだった。
 庭もあるにはあった。
 しかし、それは、隣家の苔だらけの土蔵で囲まれた、ほんの五六坪ほどのもので、そこからは、湿っぽい土の匂いが、たえず室内に流れて来た。

 次郎は、その匂いをかぐと、すぐ滅入りそうな気になるのだった。
 ことに、昼間でも真っ暗な、狭くるしい便所に行かなければならないのが、何よりもいやだった。
 正木の家でなら、もっと明るい、ゆとりのある便所がいくつもあったし、それに小用ぐらいなら、自由に野天で放つことも出来たのである。

 このような陰気な家の中で、顔を合わせる本田のお祖母さんが、次郎にとって、いよいよ不愉快な存在になって来たことは、言うまでもない。
 家が手狭なだけにお祖母さんの言うこと、することが、始終彼の頭を刺戟した。
 一緒に食卓につくと、どんな好きなものでも、気持よく腹に納まらないような気がするのだった。

 母の方は、しかし、訪ねるたびに、次第にやさしくなっていくように感じられた。
 気のせいかうす暗い部屋の中で見る母の顔に、何かしら、しっとりしたものが流れていて、それがそろそろと彼の心にせまって来るのだった。
 彼女は、時として、絵本や、美しい箱入の学用品などを買って、町はずれまで、彼の帰りを見送ってくれることがあったが、そんな時には、彼は、お浜に逢っているような感じにさえなるのだった。

 恭一や俊三に対する彼の気持は、別れる前から、いくらかずつよくなって来てはいたが、この頃、たまに逢うせいか、二人共、自然次郎本位に遊んでくれるので、そのたびごとに、親しみをまして来た。
 以前、彼が二人に対して抱いていた反抗心などは、もうこのごろでは全くなくなってしまった、三人一緒に町を歩いたりするのが、本田を訪ねる彼の楽しみの一つになって来たのである。

 だが、本田の家に対して彼が感ずる最も大きな魅力は、何といっても俊亮であった。
 俊亮は格別彼をちやほやするのでもなく、どうかすると、公園につれて行ってやる約束をしておきながら急用が出来たと言っては、彼をすっぽかしたりするようなこともあった。
 しかし、そんな時に、次郎は、淡い失望を感じこそすれ、欺かれたという気持になることなどは、一度だってなかった。

 彼は父に、「ほう、来たな。」と、ごくあっさり言葉をかけられたり、忙しい合間にも、ちょいちょい顔を覗かれたりするだけで、父の気持を十分に知ることが出来た。
 そして、もし自分に出来ることなら、恭一や俊三との遊びをやめても、父の仕事の手伝いをしてみたい、という気にさえなるのであった。

 で、町の魅力と、母や兄弟に対する親和の情とが、かなり強いものになっていたとしても、もし彼に、父に逢えるという大きな楽しみがなかったとしたら、彼はわざわざ四里もの道を、陰気臭い家までやって来て、祖母の顔を見る気には、まだなかなかなれなかったであろう。

 正木の家では、彼はほとんどあらゆる場合に自由であった。
 そこでは次郎の神経を刺戟するような、冷たい、とげとげした言葉など、全く聞かれなかった。
 むろん、祖父や祖母が、次郎に全然叱言を言わないわけではなかった。
 しかし、その叱言は、少しも彼の苦にならない叱言だった。

 それに、だい一、この家の生活には、いろいろの変化があった。
 櫨《はぜ》の実を俵に入れて沢山積んである大きな土蔵の中で、かくれんぼをしていると、山奥で洞穴の探検でもやっているような気分が味わえた。
 また、広い土間に拡げられた櫨の実を、から竿で打ち落したり、蒸炉《むしろ》の焚口《たきぐち》に櫨滓《はぜかす》を放りこんだり、蝋油の固まったのを鉢からおこしたり、干場一面の真っ白な蝋粉に杉葉で打水をしたりする男衆や女衆にまじって、覚束《おぼつか》ない手伝いをするのも、誇らしい喜びだった。

 ことに「灰汁《あく》入れ」作業の手伝いは、次郎が学校を休んでもやりたいと思う仕事の一つだった。
 この作業の日には、附近の農家から、手のあいた女たちが凡そ二十人近くも手伝いに来た。
 その中には、婆さんも居れば、若い娘も居た。

 それらの人たちに、家内《うち》の婢《おんな》たちや、子供たちも交えて、三十数名のものが、土間に蓆をしいてずらりと二列に並ぶ。
 めいめいの前には、擂鉢型《すりばちがた》の浅い灰色の鉢に、一本の擂古木をそえたのが一つずつ置いてある。

 やがて、蝋油を溶かした黄褐色の液体が、一定の分量ずつ、男衆によって鉢に注がれる。
 注がれた人は、すぐ擂古木をとって、それを掻きまわさなければならない。
 掻きまわしているうちに、はじめさらさらした蝋油が、次第にさめて、白ちゃけたどろどろの液になって来る。
 適当の時期を見はからって、男衆はそれに一柄杓の灰汁《あく》を注ぎこむ。

 この時、まぜ手は油断してはならない。
 精一ぱいの速度で擂古木をまわさなければならないのである。
 灰汁が注がれると、鉢の中の蝋油は、忽ちのうちに真っ白に変り、同時に、擂古木が少々の力ではまわせないほど、ねばっこくなって来る。
 すると男衆は、すばやくその鉢を抱えて、予め水を打ってある他の鉢に、その中身をうつす。
 蝋はそこで徐々に固まっていって、鉋《かんな》をかけられ、干場に出されるのを待つのである。

 こうした作業が、毎日夜明けから日暮まで、二三日もつづけて繰りかえされる。
 その間には、婆さんたちの口から、腹をよらせるような面白い話も出れば、娘たちの喉から、美しい歌も流れる。
 食事以外には定まった休憩の時間はないが、一鉢あげるごとに、随意に渋茶も飲めるし、また薩摩芋《さつまいも》や時には牡丹餅《ぼたもち》などの御馳走も、勝手にいただけるのである。

 次郎もそうした中にまじって擂古木を廻すのであったが、それがちょうど日曜日ででもあると、彼は終日厭きもしないで坐り通すのであった。
 「本田の坊ちゃんは、何て辛抱強いんでしょう。」
 「全く珍しいお子さんだよ。」
 「坊ちゃん、ちっと遊んでおいでよ。」
 もし、こうした声が、一座の中から聞えて来ようものなら、次郎はいよいよ嬉しくなって、あくまでも頑張りつづけようとするのであった。

 ただ、次郎にとっての困難は、灰汁入れの瞬間だった。
 この大事な瞬間になると、さすがに彼の細腕では、どうにもならなかった。
 で、彼は、その時になると、いつも隣の誰かに擂古木を廻して貰うことにした。
 しかし、それは決して彼の恥辱にはならなかった。
 と、いうのは、ごく年上の婆さんたちや、若い娘たちの中にも、次郎と同じように、灰汁入れの時に人手を借りる者が、必す何人かは居たからである。

 次郎の野外における楽しみも、屋内のそれに劣らず、変化に富んでいた。彼は、男衆に教わって、天竺《てんじく》針をかけることや、どうけを沈めることを知った。
 日暮にかけておいた天竺針には、朝になるときっと鰻《うなぎ》や鯰《なまず》がかかっている。

 どうけというのは、舌のついた目のあらい竹籠の底の部分に、焼糠《やきぬか》をまぜた泥をぬり、それを、この附近によくある溜池の浅いところに沈めておいて、鮒や鯉を捕るのであるが、これも日暮に沈めておくと、朝には大てい獲物がはいっている。
 次郎は、その季節になると、よく夕飯におくれたり、まだ暗いうちから起き上って、戸をがたぴしいわせたりして、みんなに叱言を食うのであった。

 大川が近いので、男衆はちょっとした際を見ては投網《とあみ》に行って、鱸《すずき》などをとって来るのだったが、そんな場合、次郎が一緒でないことは、ごく稀であった。
 大川の土堤を一里あまり下ると、もう海である。
 ちょうど、同じくらいの距離を上手《かみて》に行くと、旧藩暗代の名高い土木家が植えたという杉並木がある。

 次郎は、そのどちらも好きであった。
 彼は、別に面白いことが見つからないと、仲間を誘っては、よくそのどちらかに出かけて行った。
 海では、干潟で貝を捕り、杉並木では木登りや、石投げをやった。
 いつの間にか、彼は小船を漕ぐことを覚えた。
 また近所の農家で馬にも乗せてもらった。
 従兄弟たちと一緒に、この村の祭りに加わって、若衆組の下仂きもさせてもらった。
 本田の家では許されなかったようなことが、ここではほとんど自由であった。

 こうして、次から次へと新しい楽しみが殖《ふ》えて来た。
 その間に、農家の生活がどんなものだかも、次第にわかって来て、ちょっとした手伝いぐらいは、彼にも出来るようになったのである。
 しかし、次郎の新しい生活は、単にこうした方面ばかりではなかった。

 竜一とは毎日学校で顔を合わせるにもかかわらず、わざわざ葉書を書いて、自分が正木に来ていることを報じたりした。
 それが春子への通信を意味したことは、言うまでもない。
 また、恭一の仲よしであった真智子のお伽噺《とぎばなし》の本が一冊、どうしたはずみか、次郎の机の中にまぎれこんで正木に届けられていたのを、これも、学校では返さないで、わざわざ郵便で送り返した。

 これは真智子の返事をもらいたかったからであったことは、その後しばらく、日に一回の郵便配達があるのを、非常に注意して待っていたのでもわかる。
 むろん彼に、恋心というようなものが、すでに湧いていたわけではない。
 彼が郵便を愛したことは、お鶴からの年賀状を大切にしまいこんでいたことでもわかるし、また父や兄に、おりおり手紙をかいて、その返事が来ると、従兄弟たちの前で、声たかだかと読みあげたりするのでもわかる。
 しかし、春子や真智子からの郵便を待つ心に、ある特別の感情が伴なっていたことも、やはり否めない事実であった。

 彼はまた、一心に水を見つめたり、雲をながめたり、風の音や鳥の声に耳をかたむけたりすることもあった。
 ある日など、大川の土堤の斜面にねころんで、赤い蟹《かに》が芦《あし》の茎を上ったり下ったりするのを、一時間あまりも一人で眺めていて、自分でも不思議に思ったことがある。

 しかし、あとで考えると、そんな時には、大てい、校番室を思い出し、お浜や、弥作爺さんや、お鶴や、お兼や、勘作や、それからそれへと、正木の家に来るまでのことを、一巡思い起していたことに気づくのである。

 彼は、以前の悪癖がなおらないで、このごろでもしばしば生きものを殺した。
 しかし、殺したあとでは、いつも変に気味わるい感じになるのであった。
 そんな時に、彼がよく思い出すのは村はずれの団栗《どんぐり》林だった。

 そこには小さな祠《ほこら》が祭られていたが、その祠の真うしろの、一番大きい団栗の幹に、大釘が五本ほど打ちこんであるのを、かつて彼は見たことがあった。
 村の人達の話では、誰かが人を呪って、その両眼と両耳と口とを利かなくしようとしたものだ、ということだった。

 なるほど、そう聞くと、釘の位置が、ちょうどそんなふうになっていた。
 次郎には、運命というようなものを考える力はなかったが、思わぬ敵や、災《わざわ》いが、どこにひそんでいるかわからぬ、といったような感じが、そんなことから、いつとはなしに、彼の胸に芽生えはじめていたのである。

 彼は、学校で、綴方はいつも甲をもらった。
 先生に教室でそれを読み上げて貰ったりすることも稀ではなかった。
 しかし、彼の綴方は、勇ましい活動的な方面を書いたものよりも、むしろ、そうした沈んだ感傷的なものの方が多かった。
 こうして、彼の正木の家における新生活は、一見すらすらと流れているようで、かなりこみ入った内容を持ちはじめていたのである。

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