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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  110

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 「すみませんけれど、わたし、経済の勉強って、これまでしたことがないでしょう?
  だから、専門語かもしれないけれども成素形態なんて言葉、
  考えてみなけりゃ意味がわからないんです。
  あたりまえに云えば、エレメンタルな形態ってことじゃないのかしら」
 「大体そういう意味だといってもいい。
  しかしこまかくいうとドイツ語では英語のエレメンタルというよりも、もっと複雑で有機的な内容なんだが……」

 「あたりまえの言葉でノートさせていただけないかしら。
  どうせ経済学者になるんじゃないんですもの。
  たとえば、『資本主義社会の富は、集積された商品の形であらわれるから、
  一つ一つの商品は、その富のエレメントにあたる。
  故に』っていう工合で間違っていなければ、その方がわかりいいんだけれども」

 蜂谷は苦笑して、柔らかい自分の髪を撫で、椅子の上で脚をくみ直した。
 もし蜂谷がもっている本をそのまま読んでノートするのなら、それは二重の手間だ、と伸子は考えたのだった。
 じかに、その本を借りて読んで、解釈してもらえばいいのだから。

 でも、そこまでいうのは蜂谷を侮辱するように思えた。
 「あなたは、案外せっかちなんだな」
 冷静な意志で、はねる馬をくつわで導いて行こうとしているように、蜂谷が云い出した。
 「こういう厄介なものの勉強は、直感的な文学とちがってね、
  どこまでも理詰めにやって行くしかないんだ。
  ある区切りまで先ずノートして、それから細部の解釈に入るのが、
  普通のやりかたなんです、平凡だけれどもね。
  これから、使用価値とは、どういうものか、
  というような説明もはじまろうというわけだ」

 伸子は、おとなしくなって、蜂谷の言葉をきいた。
 「佐々さんの理解力はおどろくほど範囲がひろいけれども、こういう分野は、
  云ってみれば未開墾だから。
  しばらく辛棒してごらんなさい。
  あなたのようなひとには、やっぱり理詰めの分析に興味が湧くにちがいないんだ」

 そういうわけで、第一日の四時〜五時半のうちに、伸子は、使用価値とか交換価値とかいうものの本質について、混同しぼんやりしていた理解をいくらか整理させられたのであった。

 第二日目は「そこで商品をその使用価値から離れてみるとき、残るところはただ労働生産物たる一性質のみである」からはじめられた。
 いろいろな労働の有用性だの具体的な形態だのから「すべてが等一なる人間労働、即ち抽象的人間労働に約元され」人間労働力の支出の凝結が価値である、ということを、伸子は、一歩さきはどうなっているのか見当のつかない嶮岨《けんそ》な山道をのぼって行くような困難さで、のみこもうとするのだった。

 それにしても、と伸子はノートしながら考えずにいられなかった。
 ウォール街の恐慌は、どうしておこったのだろう。
 そもそも恐慌とは?
 十月二十九日のウォール街で一千万株投げ出されたという株とは何だろう。
 伸子は恐慌ということは、もとよりあらましは知っているつもりでいた。

 株についても。
 ジェネラル・エレクトリックが一九二九年最高四〇三だったのに十月二十九日には二五〇に下って低落三八%、スティール・トラスト二六一3/4が一八五1/2、クライスラー自動車一三五3/4が三九3/4で七一パーセント惨落した。
 これが株をもっている人々に損をさせる事実であることもわかる。

 「リュマニテ」は書いていた。
 「ヒルファーデングの仮面ははがれた」
 「『組織化された資本主義の計画的経済』は二百五十億ドルの損失によって、労働者・技師・勤人・中小企業者・農業家・数百万の小投資者の生活を破滅させつつある」と。
 このパニックで、真に破滅させられたのは小さい投資家たちとその家族。
 働いてためた金を株にかえた数百万のあたりまえのアメリカの人たちとその家族であり、億万長者のモルガン一家はおそろしい混乱を通じて益々富を集中しつつある。
 ここに血が引いてゆくような資本主義の非人間性があった。

 字として、恐慌や株やを知っていたはずの伸子の眼の中に、きつい火を点じさせ、全身にいきどおりを伴った探究欲を刺戟しずにいない社会生活のうめきがあるのだった。
 伸子は、ノートを早めに切りあげてもらった。
 そして、けさのニュースについて話しはじめたとき、まるで、日本語がわかりでもするように、台所と食堂との境のドアがあいて、ベルネのおばあさんが愛嬌よく入って来た。
 そして、蜂谷に、夕飯をみんなと一緒にたべて行くようにすすめた。

 「ムシュウ・アチヤ、お引越しになっても、あなたがわたしたちの御親切な友達であることに変りはございませんよ」
 「ありがとう、マダム。
  おことわりする理由をもちませんよ」
 ベルネの家の夕飯は七時だった。
 「しまりやのお婆さんが招待するなんて、めずらしいな。
  何かあるんだろうか」

 食卓の用意がされる間、伸子と蜂谷とは家を出て、前の通りを畑の方へ散歩した。
 ベルネの家で客間がつかわれるのは一年のうちにいくたびだろう。
 閉ったドアの内部の様子はわからなかったが庭に面した鎧戸がしめられている客室のヴェランダの床には梨が並べられるきりで、伸子のところへ蜂谷が来ても、マダム・ラゴンデールが来ても、その応接は食堂だった。
 伸子が来てからベルネへ訪問客というのはなかった。



        五

 食事が終りに近づくにつれて、ベルネ一家のものが知りたがっていること、とくに、クラマールでは一流の洗濯工場の経営主であるアルベール・ベルネの知りたがっているのは、ウォール街の恐慌がフランス経済にどう影響するだろうかという点であることが、伸子にもわかって来た。

 ジャックの家出をとめてベルネ一家に信用を得ている蜂谷良作は、ウォール街恐慌の問題では、明らかに教授として、その言葉を家内一同から期待されているのだった。
 その晩のベルネ家のテーブルのまわりは興味ある光景だった。
 節だって赤い四角い手をしたベルネのおばあさんは、その手の指を組みあわせて祈祷台へ置いているようにテーブルの上におき、灰色がかって碧《あお》い瞳を蜂谷良作の上にすえている。

 そのとなりで、ジャックは、十九歳の長い脛をもてあつかうようにいくらかずりこけて椅子にかけ、うつむいて、ポケットに入れていない方の片手の指さきでパン屑をこねている。
 憂鬱そうな顔をして、ときどき細い指で捲毛をいじっているフランシーヌ。
 むしろ骨太にがっちりとした大柄の体格を、刺繍飾りのある平凡なサージのワンピースにつつんで、姿勢正しく主婦の座について、はげしい関心をかくしているマダム・ベルネ。

 主人のアルベールは、故郷のルーマニアから兵隊になってフランスへ来ているうちに、どうしたことからか、この細君と結婚するようになった。
 それというのも、と、アルベール自身が伸子に話してきかせたところによると、いまこそ短く苅りこまれて見事なつやも消えてしまっているけれども、アルベールの金色の髭と云えば、その絹のような美しさで近隣の娘たちを魅惑したものだったからだそうだ。

 そしてその話も半分は本当らしかった。
 クラマールで庭のある石造りの家をもち、工場ももっている一家の基礎が、赤くて四角い手をもった母親とその娘である細君につながるものであり、ムシュウ・ベルネは主人であって、同時に、一家の稼業は手の赤いおばあさんと骨太で実際的な細君との注意ぶかい目の下に運ばれているわけなのだった。
 フランシーヌが洗濯工場ときりはなして育てられているそのことにも、おばあさんと母親との計画がある。

 アメリカの市場ではこの数年来、投機によって証券の価格がつりあげられ、最近の一年半だけでさえ平均一倍半にあがった。
 配当もスティール株などは二割五分以上であったからアメリカ全土のいくらかでも貯蓄をもてるようになったすべての人々は、誰も彼も、投資熱にまきこまれた。
 これは当然危険を意味する現象だったけれども合衆国銀行の頭取ミッチェルその他財界の大立物たちは、株の高いのは将来もっと利潤が多くなるという確かな期待に立ってのことであるし、配当も将来もっと多くなると期待される、と云いつづけた。
 アメリカじゅうの「素人《しろうと》筋」は完全にそれにだまされたのだった。

 「事実を冷静に観察する専門家の中には、市場は、人工的に押し上げられて来た、
  自身の重さで潰れるだろうと、警告していた者もあります。
  すでに九月に恐慌の波頭が見えたときに」
 「一度も二割五分の配当なんかにあずかったことのないフランス人は、
  アメリカの恐慌のおつき合いを欲していません。
  少くとも、わたしはそうだね」
 ベルネのその言葉は、彼と蜂谷との会話に注意を集めている家族に対して、主人としてやや特殊な立場にある彼の見識を示すために云われたように伸子は感じた。

 「フランスは、フランの切下げ以来ヨーロッパのどこよりも経済事情が安定している。
  いますぐ恐慌でかき乱されることはないでしょう。
  しかし、こんどの大規模なアメリカの恐慌が世界経済に影響しないということは、
  絶対にあり得ない」
 「絶対に?」
 正しい姿勢で椅子にかけたまま、細君がテーブルのむこうの端から訊きかえした。

 「フランスに対する影響は、ゆるやかに、或は一番最後にあらわれるかもしれない。
  だが、さけるということは出来ますまい」
 「ふむ。
  天然痘だってね、最後にかかった奴のあばたはいつも深くのこるもんなんだ」
 「ほんとうにみんな戦争ですよ。
  戦争ってものは、一つだっていいことはのこさないもんですさ」
 おばあさんは、肩にかけている薄い毛糸の肩かけを、一層赤くなったように見える両手で胸の前へひっぱりつけながら、ためいきした。

 「ご覧なさい。
  戦争で儲けたのはアメリカでしたよ。
  景気《ブーム》!
  景気《ブーム》!」
 ベルネのおばあさんは、がんこものらしく、ブーム、ブーム、と口をとがらせて蒸気が噴くように云った。

 「あげくに、こんどは恐慌《パニク》!
  それで世界中を震い上らせるんです」
 パ、ニ、クとひとこと、ひとこと、唇の間からにがい種でもほき出すようにおばあさんは云った。
 「しかし、お宅の職業は安全率が多いですよ」
 蜂谷はパンをたべない民衆はないし、現代では洗濯は日常の必要になって来ていると云った。

 「民衆生活の必要に結びついた職業は、いつもつよいです」
 「そこですよ!
  教授《プロフェスール》、アチヤ」
 主人のベルネは満足そうに、椅子の背にぐっともたれて両方の脚をテーブルの下にぐっとつき出しながら肯《うなず》いた。
 フランシーヌが今にも鼻声の出そうな眼つきをして頸をくねらせ、母親へ目まぜした。
 細君はとりあわない。
 フランシーヌは日ごろから、親が洗濯屋だということを、いやがっているのだ。

 「われわれの商売は、そりゃ正直な商売ですさ」
 食卓のまわりの話題は、いつか、燃料がたかくなって洗濯業の儲けはいよいよ減って来るという話に移って行った。
 それからまたアメリカの恐慌にもどって、日本の生糸、絹織物の輸出は当然大きい打撃を蒙《こうむ》るだろう。
 ヨーロッパで最も直接の混乱におかれるのはドイツであるという蜂谷の話になった。

 ベルネの一家は幸いドイツ人でないし、アチヤは教授であり、マドモアゼルは作家であって、日本の絹の輸出商でなかったことは何よりだった。
 ベルネ家の、味のよくない葡萄酒つき晩餐は、そういうところで終りになった。

 ともかく自分たち一家に急な打撃が来ないとわかると、ベルネの人たちは、赤い手のおばあさんからフランシーヌにいたるまで、恐慌に対して全く平静になった。
 おばあさんが梨をひろって、ヴェランダのガラスの中へ乾しているいつもの前掛姿。
 晩餐のテーブルへつきながら伸子の食慾までそこなうような物懶《ものう》さで、鼻声を出すフランシーヌ。

 伸子は、朝ごとの新聞の報道によって、こんどのウォール街の恐慌は、ウォール街の歴史がはじまって以来最大のものであるということを学びつつあった。
 四十階の建物の上からウォール街へ身を投げて死ぬのは、暴落のショックによって錯乱した女仲買人だけではなかった。
 ニューヨーク市カウンティ・トラスト会社の社長がピストルで自殺した。

 しかし大銀行家たちとフーヴァー大統領とは、どうかして愚図ついていた。
 やっと「資本・労働協約《キャピタル・レーバア・パクト》」が発表されたが、それは結果において、アメリカの大資本たちに(鉄道王・石油王・自動車王などに)銀行利子の引下げと、一年一億六千万ドルの所得税免税を許しただけのことであり、労働者はグリーンやウールのおかげで賃上げのたたかいを禁止され「労働者はあらゆる自分たちの問題の解決に際して、あらゆる途を講じて産業側と協同」することを約束させられただけのことであった。

 この協約《パクト》は、経済安定のために新しく八〇億ドルの新事業に着手することを予約しているけれども、これは当座の見せかけで実現しないであろうし、恐慌は救われず、単によりゆるやかな形に変ってそれを引きのばすにすぎない。
 なぜならば、フーヴァーと大資本家の計画が実現するものとすれば、このたびの恐慌によって暴力的解決をよぎなくされた原因そのもの、社会の生産力と消費力との不釣合が、八〇億ドルの生産増進によって、ますますその不釣合を鋭くすることにしかならない。

 「リュマニテ」は「フォードのデマゴギー」という大きい見出しで、自動車王フォードの厚かましい声明を分析した。
 フォードは恐慌の進行していた十一月二十一日、いきなり、フォードの会社は、十五万人の従業員に対して賃銀を引下げるどころか、むしろ賃銀を引上げるだろう、そして自動車の価格も下げるだろうと発表した。
 フォード自動車会社は、労働者の初給五ドルを六ドルに、これまで働いている労働者たちの最低賃銀を六ドルから七ドルまで引上げる、と。

 しかし現実におこったことは次のようだった。
 フォードは、よりやすい新型自動車をつくるために模様がえをするという口実で、大部分の工場の作業を中止した。
 そして、もう必要のない職場の労働者数万をほうり出した。
 世界に名のひびく殺人的な合理化で四、五年間働かせられているフォードの労働者は、次の雇いてを見出すのがむずかしい。
 彼らがすっかり搾りあげられてしまっていることは周知であるから。

 フォード自動車がやすくなるのは、フォードにくっついて生きている何万人という販売者たちの手数料が二〇パーセントから一七・五パーセントに切下げられたからであった。
 たとえば二五ドルやすくなったフォード一台について、手数料のやすくなった販売者たちの負担はその二五ドルのうち一七ドル半。
 フォード会社はただの七ドル半を背負うにすぎない。
 販売者たちの負担で、これまでより貧しくなった人々の財布から、フォードはこれまでよりも儲けようとしているのだった。

 十一月に入ると失業者は四十万人を越した。
 「これらすべてのことは何を告げるか?
  世界市場の争奪は一層はげしくなるであろう。
  それは、とりも直さず、第二次世界戦争の危機を増大するであろう」
 三十日の晩、ベルネのうちでの会話にしろ、「リュマニテ」が告げているこれらの事実にしろ、蜂谷良作のたすけなしには言葉の不自由な伸子にわかることでなかった。

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