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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  106

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        十

 早くて一週間、すこしのびれば十日の予定でジェネワ旅行に出かけた両親が、一週もたたない六日目に、突然パリへ帰って来たことは、それが須美子と約束のある十四日の午後だったために、伸子を苦しいはめにおくこととなった。

 磯崎恭介が急に亡くなってから、彼と須美子と子供とが三年の間暮していたデュトの住居は、もう家庭ではなかった。
 それは難破船だった。
 難破した船がしずみきらないうちに、須美子はパリでの生活をとりまとめて、日本へ帰る仕度に忙殺されている。

 須美子が恭介の死去につづいて、葬式、帰国準備と、自分に暇を与えないように暮している気持がわかるだけに、伸子はせめてなか休みの一日を計画して、須美子にデュトでない環境を与えたかった。
 家庭であって、しかも、そこには須美子のいたみやすい気持を刺戟するような夫婦生活の雰囲気のないところ。
 つや子と伸子しかいないペレールの家こそ、そのような休息にふさわしい場所だと思えた。

 伸子は、その午後、デュトまで迎えに行って須美子をペレールへつれて来た。
 そして、一休みしてから、ガスに火をつけて、風呂をつくった。
 日本流の、こんなもてなしかたを須美子は心からよろこんだ。
 「きょうはいい日ですわ。
  こんなにして頂くし、入選のこともわかりましたし……」
 恭介が死ぬ一日二日前に、自分で搬入した静物がサロン・ドオトンヌに入選した。

 そのことがけさわかった。
 同時に、須美子の作品も入選していることがしらされたのだった。
 「わたし、磯崎が描いたお古の花を窓ぎわにおいて、描いてみただけだったんですのに。
  こんどはめずらしく磯崎がしきりにすすめて、自分でもって行ってくれましたの」
 だまっていようとしてもつい須美子の話題はそこにたちかえるという風だった。
 「どうしてだったんでしょう。
  わたし、あの花を描いていたとき、ちょくちょく、
  ホノルルのころを思い出しましたわ」

 須美子は、いつだったか伸子に、ホノルルの一ヵ月が生涯で一番幸福なときだったのかもしれないと云ったことがあった。
 恭介と自分が偶然に同じ花を描き、それが最後となった恭介の仕事とともに自分も入選したことを、須美子はただ偶然と思えないらしかった。
 「磯崎も、これでいくらかくにの御両親におめにかけるものができましたわ」

 こんな風で、その日はなお更、ペレールへ来ているのが須美子ひとりではないようで、伸子は心をくばって、しんみりしたまどいの主人役であろうとねがっていた。
 湯あがりで、大きい目の上にきりそろえた厚い前髪が、一層黒く輝いている須美子をかこんで緑茶をのんでいるときだった。

 玄関のベルが、短く、力のはいった響きかたでリ・リ・リと鳴った。
 伸子は、おや、と耳を立てた。
 泰造のベルのならしかたそっくりだった。
 つづいて、
 「オ、ラ、ラ!
  ムシュウ、エ、マダーム!」
 賑やかなマダム・ルセールの歓迎の声がおこった。
 「ちょっと失礼、ね」

 やっぱり父と母とだった。
 多計代は伸子の顔を見ると、
 「お客さまかい?」
 そう云いながら、持っていた例のコバルト色の旅行用バッグをわたした。
 「つや子さん来ておくれ」
 多計代は、客室の外の廊下を素通りして寝室へ行った。

 泰造は、客間で須美子にあいさつし、寝室と食堂の間を、落付かなそうに出入りしている。
 「わたし、お暇《いとま》いたしますわ、お加減がわるくてお帰りになったんでしょう?」
 「まあ、もうちょっとそうやっていて」
 多計代もこの調子では夕飯のために外出はできまいから、いっそ、みんなうちで、日本弁当をとどけさせてすませるのも一つの方法だと伸子は思いついた。

 デュトの家の食事ばかりしている須美子に、日本風のさしみでも御馳走したいと計画していたのだった。
 伸子は泰造に相談してみた。
 「それもいいだろう。
  だがおっかさんに一応きいてからの方が無事だよ」
 寝室へゆくと、伸子が何とも云い出さないうちに多計代が枕の上から白眼がちの眼づかいで娘を見上げた。

 「だれをお湯へいれたんだい」
 ベルの音をきいたとき、まっさきに伸子の頭に閃いたのは、浴室にまだこもっているにちがいない湯気やシャボンの匂いのことだった。
 多計代は、つや子からきいて、もうわかっていないはずはないのに、伸子にそれをきくのは、悶着の口火のためなのだ。

 しずかに友愛のただよっていた雰囲気は、いちどきに変った。
 多計代の状態のわるいとき、佐々の家族をおしつつむ不安な空気がみなぎりだした。
 それが、病気そのものについての不安ではなくて、神経的なものであるだけ、つましい気立ての須美子をいたたまらなくさせ、伸子も、気の毒でとめようがなくなった。

 「ごめんなさい。
  あいにくなことになってしまって」
 「いいえ、いいえ。
  あなたのお心もちは、ほんとにうれしく頂きましたわ」
 伸子はこまりきって、恥しさと苦しさのまじった心で須美子を送って出た。
 途中で日本料理店により夕食のためのちょっとしたみやげをわたした。

 ジェネワの五日間は、多計代をたのしませるよりも多く、そこにいる日本人たちの暮しぶりに対して神経をたかぶらせたらしかった。
 来年早々ロンドンで開かれる軍縮会議の下相談に、イギリスから労働党首相のマクドナルドがワシントンへ出かける計画が発表された折からであった。
 こんどのマックの旅行の本質が、英米帝国主義間の増艦競争に妥協点を見出すためであることは、すべてのひとに明瞭であった。

 国際連盟を中心とするジェネワの、狭くて見栄坊な国際社交界での日本人たちの気分は、そんなことからも刺戟されていて、おそらく多計代のかたくるしくて、外国の風に順応しない性格は、客として来られた人たちにとっても、客として行った多計代にとっても、しっくり行かなかった模様だった。
 「大使でも公使でもないものが、公《おおやけ》の金を湯水のようにつかって、
  ああいう景色のいいところであれだけの暮しをしていられるんだから、
  津田さんが、日本よりジェネワがいいというわけさ。
  留守番ばかりさせられている奥さんが見たら、どんな気がしなさるだろうね」

 しかし多計代の鬱憤には、微妙なニュアンスがひそんでいた。
 社会医学という専門から津田博士がジェネワで暮しているように、万一泰造が、建築という専門から、同じところでああいう風に暮すとしたら、多計代はいまと同じ批評を、その生活に対してもつだろうか。
 「民間人ていっても、たいしたものだ」

 それを聴かないふりで薪のたいてある客室の煖炉の前で泰造は手帖を見ている。
 父と母との間に、くいちがった気持の流れがあることを伸子は感じるのだった。
 泰造がもっていない博士号のねうちや、いわゆる民間人が官僚機構にくいこんだとき、どういう工合にやれるものかという光景がジェネワへ行った多計代の前に展開されたのだった。

 どこか、いらいらした印象で、ジェネワ旅行が終ってから、佐々のみんなは、いそがしくなった。
 太洋丸を解約しシベリア鉄道で日本へ帰ることが決定した。
 十月二十七日モスクワ発のシベリア鉄道で帰れば、ジェネワから津田博士ともう一人、彼の門下生である若年の医博とも同道できる、そのことで多計代の決心がきまったのだった。
 伸子は、モスクワにいる素子にそのことを知らせるために、電報をうった。

 ペレールの家は十月二十四日、うちのものが出立すると同時に、持主にかえすことが通知された。
 どこかに住む場所をきめることが伸子にとって緊急の必要になって来た。
 帰らない晩が数日つづいたことは、伸子とホテルとのいきさつを一層わるくした。

 その日伸子は、蜂谷良作のもっているアドレスの最後の一つとしてソルボンヌ大学附近の、昔からラテン区と云われている一廓に、部屋をみに行くことになっていた。
 旧い歩道のようにすりへった石の階段を蜂谷良作とつれだって五階までのぼりつめてその一室のドアをあけて内部を見たとき、伸子は身ぶるいした。

 街のほこりでよごれていつ拭かれたともわからないたった一つの窓から、うすぐもりのパリの日ざしがやっとさしている室内の壁は、ソルボンヌ大学の歴史とともに古びよごれていて、ラテン区でむしばまれたあまたの青春をかたるように、あらゆる壁のすき間に結核菌を繁殖させているようなところだった。

 その室には電燈がひかれていなかった。
 ここに住んでいたのが学生なら、何の燈で夜をすごして来たのだろう。
 こわれかかって歪んだ木製の洗面台が片隅にたっている。
 粗末な鉄の寝台から、どういうわけか布団《マトレス》がはぎとられていて、不潔な床に、つめ藁のはみ出た肱かけ椅子が二つあるきりだった。

 そこには、まともなものが、なに一つなかった。
 歪んだもの、こわれかかったもの、そして、恐ろしげな壁があるだけだ。
 そこにはおとといまで、ハンガリア人の学生が住んでいたということだった。
 不潔というより病菌の巣のような感じだった部屋の光景と、布団《マトレス》をはがされていた鉄寝台の異様な印象は、いつまでも伸子につきまとった。

 「それにしても、ああいうのが広告を出すとは、おどろいた」
 パリの生活には少しなれているはずの蜂谷良作もあきれた風だった。
 「おとといまでいたっていうハンガリア人の学生、もしかしたらあすこで死んだのね」
 「まさか」
 「だって、じゃ、どうして寝台の布団《マトレス》がはがれているの?
  ほかに何か思いあたること?」
 「そう云われれば、そうかな」

 しかし、いつまでも気持わるがっている伸子にこだわらず、蜂谷は、
 「その辺で休みましょう」
 人通りの絶え間ないサン・ミッシェルへ出た。
 「きょう、僕は一つ提案があるんだ」
 蜂谷がいまいるクラマールの部屋をかわるから、そのあとへ伸子が来ないか、というのだった。

 「あなたはどこへいらっしゃるの?」
 「僕は、その家のじき近所で、勉強にはもってこいの室を見つけたんです。
  画家の未亡人の二階で。
  そっちの方がずっと勉強するには落ちつける。
  もっとも部屋そのものは粗末だが、かえって僕にはいいんだ」
 伸子は、きくような眼で蜂谷をみた。

 いつから蜂谷は引越すことを考えたのだろう。
 この間うち伸子の部屋さがしがはじまったとき、あちこち歩いたり、あれこれ喋ったのに、そんな話はひとこともされなかった。
 「ちっともお話に出なかったのね。
  急にそういうことになったの?」
 「そうじゃない、僕は、前からさがしていたんだ」

 クラマールの家の室代は、パリの物価があがるにつれて、蜂谷が住むようになってからも二度あがった。
 今年の冬は、燃料が急にたかくなったからという理由で、十一月からあとは新しい価を請求されているのだそうだった。
 室代ばかりがかさんで、本が買えない。

 「それに僕がわるい習慣をつけちゃったんで、
  実はこのごろになってへこたれているわけもあるんです」
 年齢にあわせて、どこかかたまらないところのある蜂谷の顔の上に善良な苦笑があらわれた。
 「あすこへ行った当座、退屈だったもんだから、つい土曜日なんかに、
  うちの息子や娘をさそって映画を見に行ったりしたんでね、奴《やっこ》さんたち、
  映画と支那飯は僕におごられるものときめてしまって、
  昨今は僕としちゃ相当の負担になって来たしね」
 蜂谷の気質としてありそうなことであった。

 「女学校へ行っている娘は、英語も少しはわかるし、あすこなら、
  きっとあなたもいられると思うな」
 伸子がだまっているのを不承知ととって、蜂谷は、
 「僕は、でまかせで云っているんじゃない」
 眉をしかめたようにして見る表情で伸子を見て云った。
 「あすこなら、僕が責任をもつ、きめるでしょう?」

 「見もしないで?」
 音のないほほえみが伸子の口元をゆるめた。
 クラマールというところが、パリの中心からどのくらい遠いところに在るのかさえ伸子は知っていなかった。
 ヴェルサイユ門からクラマール行の郊外電車が出ている。
 それだけ、わかっている。

 そのヴェルサイユ門のところで、夏のころ、終電車をつかまえようとして走ってゆく蜂谷を、素子と伸子とで見ていたことがある。
 「クラマールに住むと、時々、いつかのあなたみたいに、
  かけ出さなけりゃならないことになるんでしょう?」
 マダム・ラゴンデールを、稽古のためにひどく遠方まで来て貰うことになるのかもしれない。
 永年の暮しの習慣から伸子は、自分ひとりで出歩き、夜もひとりで帰るものとして、クラマールではあんまり遠いと感じたのだった。

 そんなにクラマールの遠さと、その不便とを感じながら、伸子の心には、蜂谷のすすめる室をことわる、はっきりした気持が湧かなかった。
 伸子と蜂谷良作のかけているカフェーから、サン・ミッシェルの歩道の並木の一本に貼られているセンセーショナルな黄色いビラが見えていた。

 フランス共産党代議士二名と、中央委員三十二名が誰にもはっきりしない理由で突然検挙された。
 それはきのうのことだった。
 「共産党を禁止しろ」
 「『リュマニテ』は労働者の敵だ!」
 「農工銀行は人民の金を盗んでいる!」
 「フランスを売る共産党と共産党代議士を裁判しろ!」その黄色いビラは、火の十字架運動《クロア・ド・フウ》の署名だった。

 いつかの夜蜂谷良作がヴォージラールのホテルのテラスで伸子に説明してきかせたように、クロア・ド・フウはフランスで、最もよく武装されたファシスト団体だった。
 フランス共産党の内部に悪質なトロツキストの秘密組織があるらしいことは、八月一日の反戦示威の直前、サン・ジョルジュで中央部の会合が一斉に検挙されたことにふれて蜂谷も云っていたことだった。

 こんどの検挙も怪しいものだ。
 蜂谷がそういう意味は、党を混乱させ、指導権を握っているために、労働組合の統一戦線を主張している人々をふくむ中央部に対してその一味が企んだ挑発と内通であるという意味なのだった。

 伸子の視線を追って、黄色いビラを見ていた蜂谷良作は、やがて、
 「ね、佐々さん」
 伸子をゆりうごかすような口調で云った。
 「ともかく、あしたクラマールの家をごらんなさい。
  そして、クラマールへ来ることにおきめなさい。
  一緒に勉強しよう」

 彼はつづけて云った。
 「少くとも僕は、佐々さんと話するようになってから、実に刺戟をうける。
  この勢で、僕もひとつがんばるんだ」
 蜂谷良作のパリ滞在も、あと一年はないのだった。

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