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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  103

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 伸子は、きょうも夜になればいつもどおりモンソー・エ・トカヴィユへ帰ってゆくつもりだし、急に引越そうとも考えなかった。
 そんなことは、伸子としてくよくよ考える必要はないわけだった。
 伸子に何のひけめもあるのではないのだから。

 しかし、ホテルに対する抵抗の気分は、伸子をおちつかせなくさせた。
 ジェネワ行きの間だけペレールにとまるのはいいとして、そのあと、つづけてここに暮さなければならないような事情におかれては、伸子は困るのだった。
 それに、ここは佐々のうちのものが出立すると同時に、あけわたす契約になっている。

 安定を求めて、あすこ、ここと考えめぐらしていた伸子の頭に、ふっと蜂谷良作にきいて見ようという考えが浮かんだ。
 その思いつきはあっさりしていて、伸子を躊躇《ちゅうちょ》させる何もなかった。
 伸子は、ハンド・バッグから小さい手帳を出して、そのうしろに蜂谷良作が書きつけて行ったクラマールの八四五という電話を呼び出した。

 蜂谷は在宅だった。
 伸子は、ごくかいつまんで、今朝のあらましを話した。
 「ふらちな男だな。
  どういうんだろう。
  僕が行って談判してみてもいいですよ」
 「ありがとう。
  でも、それはいいんです」
 今さら、男のひとに出てもらう気は、伸子になかった。

 「ただね、もしかしたら、部屋の事でお心あたりがあるかしらと思って」
 「じゃこうしましょう、僕はどうせ、きょう午後から用事があって市内へ出るから、
  そうだなあ……二時ごろになるかな、そちらへよって見ましょう。
  ペレールでいいんでしょう?」
 よびたてたようで、伸子は気がひけた。
 「そんなことは、かまわない。
  どうせ、ついでなんだから……」
 蜂谷良作は、その午後約束の時間に伸子をたずねて来た。



        六

 蜂谷良作とつれだって、伸子はその日のうちにエトワール附近にある貸室をみに行った。
 ペレールのアパルトマンの古風さにくらべると、新式で軽快な建物の三階の一室だった。
 ウィーンの下宿《パンシオン》がそうであったように、ここも持主の住んでいる部屋の入口は別で、ひろやかで明るいエレヴェーターぐちをとりまいて、いくつかのドアのある建てかただった。

 灰色っぽい小粋ななりをした、賢い目つきの五十がらみの主婦が、あっさりした態度で、蜂谷良作と伸子にその室を見せた。
 貸室はエレヴェーターを出て、右手に両開きのドアをもった部屋だった。
 ドアがあいて、室内がひとめに見えたとき、伸子は、自分の住めるところではないと感じた。

 横長くひろびろとしたその室のヴェランダと、大きい二つの窓は、晩秋の色にそまった並木越しに凱旋門の一部を見晴らした。
 いかにもシャンゼリゼの近くらしい贅沢で逸楽的な雰囲気の部屋であった。
 この部屋のもち主は、能率よくこの部屋を働かせるために、これまで住んでいた人たちが立つと、すぐその日の午後であるきょうの三時から五時まで面談と新聞広告をだしたにちがいなかった。

 目を見はらせる室の眺望とともに、これまで住んでいた人の暮しのぬくもり、女がつかっていた香水ののこり香さえまだどこかに漂っている。
 もと住んでいた人たちというのは男と女であり、夫婦であって夫婦でないようなつながりで、この美しい眺めの一室に贅沢な拘束のない生活をしていた、そんな風に感じられた。

 蜂谷良作は、伸子の柄にもない部屋がまえについて何と感じているのか、表情に変化のない顔つきで、主婦と室代について話している。
 室代は場所がらと、二つの窓のすばらしい眺望が証明しているとおり高かった。
 「御希望でしたら朝の食事だけお世話いたしてもようございますよ、
  牛乳入コーヒーのフランス風の朝飯なら、これこれ」
 ひろい室内をヴェランダや窓に沿ってぶらぶら歩きまわりながら、伸子は、借りないときまっている気持の楽さで、主婦と蜂谷の問答をきいた。

 「もし、イギリス流の朝飯がおのぞみでしたら、お二人で、これこれ」
 「マダム、部屋をさがしているのは、このマドモアゼルなんです」
 正確だが重くて平板な蜂谷のフランス語が主婦の流暢《りゅうちょう》で弾力のある言葉をさえぎった。
 「彼女が一人で住むことのできる室が必要なんです」
 「では、ここはひろすぎますわ」
 機智のこもった主婦の視線が、ベレーをかぶって、パリ風というよりはイギリスごのみの学生風ななりをして窓から景色を見ている伸子をちらりと見直した。

 この主婦が、ひろすぎますわ、といったことは、とりもなおさず、この方には場ちがいなところですわ、という意味だった。
 伸子は、お愛想ばかりでなく、
 「すばらしい眺めですこと!」
 と、その部屋をほめた。

 「この室は、ほんとの贅沢部屋です」
 伸子と蜂谷とをドアのところへ送り出しながら主婦は人をそらさない調子で、
 「わたしどもも、この室の眺めは、ほんとに愛しているんです」
 と云った。
 この景色があるばかりで、彼女のもっているこの一室はどんなにねうちがあるかということへ満足をこめて。

 往来へ出ると、伸子は笑って蜂谷良作に云った。
 「あのマダム、まるで金の玉子を生む牝鶏《めんどり》のことでもいうように、
  あの部屋の景色のことを云ったわね」

 「ハハハハ。
  金の玉子をうむ牝鶏か。
  なるほどね、彼女にとってみれば、そうにちがいないわけだ」
 蜂谷良作と伸子は、ペレールへ向って歩きながら、途中で休んだ。
 「この辺でさがすとなると、どうしても、あんな風な部屋になってしまうんだな」
 「ひまつぶしをおさせして、ごめんなさい」
 「暇なんだから、一向かまいませんよ。
  僕も興味がなくもない」

 いやがらないで蜂谷が時間をさいてくれただけに、伸子は彼にだらだらと部屋さがしをてつだって貰うことは、押しつけがましいと思った。
 男のひとが若い女に示す好意に甘えて、何かをたのむというような習慣を伸子はもっていないのだった。
 「もうひとところ、下宿《パンシオン》であるんだが、
  いちどきに二つはくたびれるでしょう?」
 「それはどのへん?」
 蜂谷はポケットからノートブックをとり出して、アドレスをしらべた。
 「僕も行ったことはないんだが、キャルディネ通りっていうんだから、
  どっかモンソー公園とワグラムの中間あたりじゃないのかな」

 パリのそんなこまかい通りを、日ごろ市外に住んでいる蜂谷良作が知っているとは思えなかった。
 凱旋門のそばの貸室を、彼は伸子の電話をきいてから新聞広告で見つけだした。
 下宿というのも、同様の方法で目星をつけたのだろう。
 伸子をつれてあんまり迷わないように、彼は地図を見て来たのかもしれなかった。
 伸子は、いつも持っている赤い表紙のパリ案内を出しかけた。
 そして蜂谷からキャルディネという町名の綴りを教わりながら頁をくると、それは親たちの住んでいるペレールと同じ第十七区だった。

 「ああ、あった。
  ここだわ。
  ホラ、キャルディネ……。
  近いし、わかりやすいところなのね」
 桃色にぬられている地図を見ながらちょっと思案して、伸子は、
 「番地教えていただいて、あしたでも、わたし自分で行って見ます」
 と云った。蜂谷は、そういう伸子をいくらか解せなそうに、
 「僕の方は、ほんとにかまわないんですよ」
 額によこ皺をよせるようにして伸子をみた。

 「一人じゃ、交渉なんか、めんどうくさいでしょう?」
 伸子の言葉が不自由なのを、蜂谷はそういう表現で云った。
 「ありがとう。
  でも、また無駄足だとわるいから……」
 何となし伸子にはそんな予感があった。
 「そんなことは、室さがしにつきものだ。
  ともかく、あした、あなたのいい時間によりましょう」

 キャルディネ通りの下宿の経営者はふるい軍人あがりらしい老人であった。
 彼が、ともかくうちの庭を見て下さいと、蜂谷と伸子とを、いきなり庭へ案内したのは、かしこいことだった。
 というのは、こぢんまりした三階の建物に沿ってしつらえられている生粋《きっすい》にフランス風の小砂利をしいた細長い庭こそ、その下宿《パンシオン》の気質《かたぎ》を語っていたから。

 奥が深いかわり間口が狭い庭に、夏の日をしのぎよくするための葡萄《ぶどう》棚がつくられていて、建物の入口の横から庭へはいる境は、低い植込みだった。
 手入れのゆきとどいた小砂利の上には、白く塗った鉄の庭園用テーブルと同じ椅子が三つ四つおかれて、その一つに、黒ビロードの部屋着を羽織った髭の白い老人が、小型の本を片手にもってよんでいた。

 老人の頭に、黒ビロードの室内帽がかぶられている。
 老人は、しずけさのうちにゆるゆるとすぎていく時間を居心地よく感じているらしく、低い植こみのかなたに現れた伸子と蜂谷の方へ、自然な一瞥を与えたきり、ふたたび読書に没頭して行った。
 パリの賑やかさのうちに静けさをたのしんで生きている恩給生活者を主な客としている下宿であることは、庭の様子に語られていた。

 そして、どこか武骨なところのある経営者は、自分の下宿《パンシオン》が、古いフランス流儀でとりまかなわれていることを、ほこりとしているにちがいないのだった。
 建物について入口の方へもどって行きながら、伸子は、
 「何て、ことわりましょう」
 こまったように蜂谷良作を見上げた。
 「面白いけれど、住めないわ。
  あんまり巡回図書版のアナトール・フランスごのみで……」

 蜂谷良作は、入口の石段のところに立って彼らの戻って来るのを待っていた経営者に、
 「非常に居心地よさそうで、ちゃんとした庭をおもちですね」
 と云った。
 「そうです、そうです、ムシュウ」
 「ところで、あなたの下宿《パンシオン》は、
  外国人にあんまり馴れておいででないように見うけますが……」
 「そうです、そうです、ムシュウ」

 「わたしたちは、あなたの伝統に敬意を表しましょう。
  このマドモアゼルは、主に英語を話しますから」
 「そうです、そうです、ムシュウ」
 年よりの角顔に、安心したような、気のいい微笑が浮んだ。
 「さようなら、マドモアゼル」
 老人は、子供の時分から見なれて年月を経た大木をいつか愛しているように、自分の下宿の伝統を愛しているのだった。

 その日、伸子と蜂谷良作は、もうひとところの貸室を見た。
 セイヌ河のむこうにあるアトリエだった。
 古い寂しい横丁に面した一つの石門をはいると、そのすぐ右手に住みすてられたようなアトリエがたっていた。
 趣味のある大きい鉄の蝶番《ちょうつがい》つきの小扉をあけると、そこがもう煉瓦じきのアトリエの内部だった。

 なかくぼに踏みへらされた煉瓦の床に窓からの日かげが流れていて、高いガラス張りの天井から落ちる光線が、うっすり埃をかぶった中二階の手すりや、その辺のがんじょうな木組みを見せている。
 いつ舞いこんだか、床にマロニエの枯葉がころがっている。

 それは荒廃したアトリエだった。
 ほんとに仕事をする場所としては、もう役に立たないところかもしれなかったが、伸子の目にうつる廃屋めいた風情は、空想をそそった。
 一緒にくらす愛するものがあったら、こんなところに暮してみるのも面白かろう。
 町すじの寂しい人気なさ。
 見すてられているようなアトリエ。

 男と女とが棲《す》むのでなければ、ここでの生活の愉しさはかもし出されようがない。
 蜂谷良作と伸子とは、小扉をあけてアトリエに入ったところにたたずんだまま、しばらく黙ってその辺を見まわしていた。
 「どう?
  そろそろ行きましょうか」
 そう云ったのは伸子だった。
 モスクワで、あんなに部屋さがしをした。

 だけれども、モスクワでの部屋さがしは、ほんとにいそがしい生活と生活との間に見出そうとする空間の問題のようで、そこに住むのが男であろうと、女であろうと、第一に考えられるのは、そこが健康に適しているかいないかということだけだった。
 いまこのアトリエを見まわしている伸子の心に湧いたような空想をおこさせた場所は、どこにもなかった。
 それは、モスクワの生活そのものが、沸騰し、充実した活動にみたされているためにそうなのだろうか。
 それとも、伸子が素子と一緒に暮していた、そのせいだろうか。

 落葉のちっている古い歩道に、男の靴音と女靴の小さい踵《かかと》の音とをまじえて歩きながら、伸子は、
 「なかなか住めるってところはないものなのね」
 複雑にゆすられたこころもちを、室さがしという話の幅におさめて、蜂谷良作に云った。
 こういう風に室さがしをやりはじめて、伸子は、二人でさえあれば、どんなところにでも住めるのに、と思うことが多かった。

 二人でさえあれば、と云って、その二人のうちの自分でないもう一人は、伸子にとって現実のどこにいるのでもないのだった。

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