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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  95

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 一九二九年になってからイギリスの炭坑労働者の合理化はひどくて、一六パーセント減った労働者数で、前年よりも一三〇〇万トンよけいに採掘している状態だった。
 賃銀は一交替九シリング六ペンスから九シリング一ペンス半に下げられた。
 こういう合理化と賃下げ、失業に反対する左翼は少数者運動と云われ、第三インターナショナルの影響のもとに行動しているといつも非難されているのだった。

 ある日、伸子はペンネン通りにある一つの労働大学へ行って見た。
 十三番地のそこでは、「売家」と大きな広告の出ている露台のところで、二人の労働者が労働大学の看板を太い繩で歩道へつりおろしている最中だった。
 残務整理のために一、二脚の椅子と一つのテーブルだけをのこしてとりかたづけられた受付のところで、太ってたれた頬にそばかすのある五十がらみの男が、気落ちのした顔で伸子に閉鎖するわけを説明した。

 御承知のような現状で、炭坑労働者組合は三十人前後のものを教育するために年に三四千ポンドの負担にたえなくなったんです。
 このごろでは、ここで教育されたものがかえって政府や資本家の利益のために逆用されている。
 それでは労働大学をもってゆく意味がない。
 従って閉鎖することに決定されたんです。

 伸子は、セットルメントの仕事で世界に知られているトインビー・ホールを訪問して、そこの労働者大学の課目を帳面に写してもっていた。
 夏のつたが青々とした大きい葉をからましている由緒のふるい掲示板には、九月末からはじまる新学期の課目がはり出されていた。
 経済、文学、歴史、英・仏・独語。
 劇。
 雄弁術、音楽、美術、民族舞踊、応急看護法。
 一科目五シリング、と。

 この科目のどこに、労働者が自分たちの階級の意義を自覚するために必要な勉強がふくまれているだろう。
 トインビー・ホールの内部を参観して帰りぎわに、もう一遍掲示板を眺めたとき、伸子の不同意は反撥にまで高められた。

 トインビー・ホールでは、労働者学生の食堂は天井の低い、窓が床に近いところに切られている薄暗い中二階のなかだった。
 うす暗い中に、むき出しの木のテーブルとベンチがあって、錫《ティン》の茶のみコップがずらりと並んでいた。
 どこか中世の職人部屋の感じがただよい、そこを見てから、しばらく廊下を行って伸子が案内された指導者たちの食堂は、あんまり学生の食堂との相違がはげしくて伸子をおどろかせた。

 そこは天井の高い柱を見せた造りの室だった。
 真白いテーブル・クローズのかかった食卓の上には銀色にかがやく砂糖壺だの大小のスプーンがきちんと並んでいた。
 壁にはいくつもの記念写真が飾られている。
 婦人の案内者が重々しく発音して「指導者たち《リーダース》」と云っているのは、どういう人たちなのだろう。

 云いかえれば、一方に労働者たちのためのああいう食堂をおきながら、平気でこの真白いクロースのかかったテーブルに向う無神経な指導者というのは、どういう種類のひとたちなのだろう。
 伸子は、そのことを質問した。
 案内の婦人は、その人たちは、オックスフォード大学とケイムブリッジ大学から来ます、とだけ答えた。

 伸子の口辺にちらりとほほ笑みが走った。
 旅行案内書《ベデカ》にも、それは書かれています。
 彼らは、教授ですかそれとも学生ですか。
 婦人の案内者は、白いブラウスの胸をはり出すようにして、ゆっくり、彼らの多くは学生たちです、と答えた。

 トインビー・ホールから帰る道々、伸子は胸に迫る鮮やかさと感動とをもって、モスクワ大学の円屋根の下に記されている字を思い出した。
 すべての働く者に学問を。
 この一句のうちに、千万言にまさる真実があった。
 これこそ人類に新しくかちとられるべき美ではないだろうか。
 すべての働くものに学問を。
 真実の科学を。
 いつわりなく社会の現実を追求して、それを発展させる力をもつ学問を。

 売家に出された労働学校の残務整理をして、ふとった悲しそうな顔を頬杖に支えている男に、伸子はトインビー・ホールを訪問したと話した。
 そして、あなたのところでも、もしあすこと同じような学科を教育していたのなら、卒業生たちがマクドナルド政府に便利な召使になるのは明瞭だと思います。
 トインビー・ホールの二種類の食堂がそれを語っています、と云った。

 肥った男は眠たそうにしていた瞼をあげて、伸子の顔を見直した。
 あなたは、その二つの食堂を見ましたか?
 見ました。
 それで、あなたの気に入らなかったですか?
 伸子は、ああいうやりかたは、大戦前まではある意味があったのでしょう。
 でも、それでは余り古いです、と云った。

 肥った男は、二つの指で下唇をつまむようにしてしばらく黙って、考えこんでいた。
 やがて、正直そうなふとった顔に一層悲しそうな表情を浮べながら、多分それがほんとうでしょう、と立ち上り、伸子とつれ立って重い足どりで看板おろしをしている入口へ出た。

 歩き出しながら、その男は同じような沈んだ声で、あなたはコンミュニストですか、と質問した。
 そんなしっかりしたものに思いちがいされたことは意外で、ノー、と答える伸子の声に力がはいった。

 伸子のいるケンシントン街のホテルでは、「デーリー・ヘラルド」が労働党の機関紙だというので配達しなかった。
 「ワーカアス・ライフ」は、下町のスタンドで売っているだけだった。
 「ワーカアス・ライフ」は日刊紙になろうとして、ドイツの労働者はローテ・ファーネのために何をしたか、というアッピールをのせていた。

 日曜日の午後、人の出盛る時刻にハイド・パークを歩くと、散歩道に沿った樫の大木の下に台をおいて、いろいろの男が演説していた。
 互の声を邪魔しないだけの距離をおいて、一人一人が立って話している台に、彼が属している団体や政党の名が書きつけられている。

 散歩している人々は、ぞろぞろと歩きながら、見なれた町のショウ・ウィンドウでも見るように、ここに独立労働党。
 次に自由思想家《フリー・シンカア》。
 アナーキスト。
 つづいて協同組合主義者《トレード・ユニオニスト》。
 共産党。
 クリスチャン・サイエンスと演説の断片を耳にはさんで歩いていた。

 もし、何かの言葉に心をひかれて止ってきくなら、それは、どの演説を、どれだけ聴こうと、質問しようと、討論しようと自由だった。
 演説者の並んでいる散歩道の前はかなりひろい草原で、そこの草の上には、ねころがって日曜を楽しんでいる男女や、かけまわっている子供の群がある。

 ハイド・パークのここらを歩いたり、草の上にねころがったりしている人たちは、身なりを見ても、ヴィクトーリア公園に群れて乳母車を押しながらねり歩いている人々より、いくぶん生活のましな部類の人たちだった。
 労働者の家族にしても、就業している労働者たちの一家が多いことはすぐわかった。

 草原に体をのばしている男女は、一週に一度の大気と日光とにあますところなくふれようとして、特に女が、靴をぬいだ両脚をのばしている姿が、あちらこちらで目に入った。
 人々は、のんきに日光にあたっているか、自分たちの間で喋ったり笑ったりしていて、樹の下の、馴れっこになっている演説者に対して関心はうすいようだった。

 広大な地域をしめているハイド・パークの大衆的なこうした風景と、身なりのきれいな人々のとりすまして、散策しているケンシントン・ガーデンのあたりとは、同じ日曜日の午後でも別天地だった。

 泰造も、ロンドンへ来てからは、建築家として実務的ないそがしい日を送っていた。
 日本へ帰ればすぐとりかからなければならない大規模な大学校舎と病院建築の予定があった。
 イギリスの王立美術院の名誉会員である便宜を利用して泰造は、時にはノッティンガムまで出かけて大学や病院の視察に歩いていた。

 和一郎夫婦をミセス・ステッソンのところへ落つけた今は、多計代も心に軽やかなところができたらしくて、ケンシントン・ガーデンの芝生の上で集って来る雀にパン屑をなげてやりながら、ゆっくり茶の時間をすごしたり、つや子をつれてテート画廊を見に出かけたりしていた。
 大使館関係の夫人たちを訪問したりもしている。
 ロンドンでは、言葉がわかるということが、泰造をくつろがせ、多計代の神経をも楽にした。

 しかし一行のなかでつや子の立場が宙ぶらりんなことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。
 ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は夫婦の寝室にもちこまれていた。
 イギリスのいわゆるちゃんとした家庭のしきたりからみれば、つや子ぐらいの少女に家庭教師をつれずに旅行している佐々の一家は、いわば泊っているホテルの格にあわないとも云えるものだった。

 泰造や多計代は、そういうことに頓着していなかった。
 伸子は或る晩八時すぎてから、つや子をつれて、トラファルガー広場から出発するトマス・クックの東区《イースト・エンド》見物バスにのりこんだ。

 トマス・クックはロンドンの観光ルートを独占していて、大戦まではロンドン市の恥とされていた東区の貧窮の夜の光景までを、夜のロンドン見物に変化を与えるスリルの一つとしてさし加えた。
 黄色と藍の塗料のきれいな大型バスは、車内に電燈をきらめかせながらテームズ河の河底を貫く長い淋しいトンネルをぬけて、追剥《おいはぎ》の出そうなロンドン・ドック附近を通り、ホワイト・チャペルの周辺の曲りくねった道へはいって行った。

 バスの行く道すじは、ジャック・ロンドンが「奈落の人々」の中に辿った道順とほとんどちがわなかった。止まったバスのまわりに集って来て、タバコや小銭をせびる浮浪児たち。
 道ばたでやたらに唾をはいているよっぱらい。よっぱらいの中には、年とった売笑婦らしい女も見えた。

 「質屋」の電気看板。「ベッズ」と看板を出している木賃宿。
 その明暗のなかに数知れない男女の失業者と宿なしとを包んで、ゆれているホワイト・チャペルの大通りの黒い人波の上に、そこだけ火事になっているように赤い光で夜の闇をこがしながら、イルミネーションの十字架が大きくきらめいていた。

 つや子はバスでひとめぐりしている一時間半ばかりの間、ひとことも物を云わなかった。
 街にあふれ出ている陰惨におどろき、むき出しの荒々しい生存からうける感銘が、つや子の少女の額に刻まれた。
 伸子はせめてつや子の心へのおくりものとして、このロンドンでの一晩の見物を計画したのだった。

 伸子は、不自由なく親と外国旅行をしているようには見えても、真実にはいじらしい立場にいるつや子が生活というものについて理解をもち、自分の生活を自分でまかなってゆく必要を知るようにと、伸子はねがっているのだった。
 つや子は女の子だから。
 そして、末娘だから。
 自分の力で女が生きにくい日本の社会であり、家族の制度であるだけに、伸子は年下の妹の将来に、女としての実力がゆたかであるように、と願わずにいられないのだった。

 ロンドンでの三度目の日曜日のことだった。
 伸子は泰造とつれだってケンシントン・ガーデンの奥の草原を散歩していた。
 昼寝をしかけていた多計代とつや子とには、四時すぎに、喫茶店で落合う約束で、父娘二人は、のんびり樫の大木の間をぶらついた。

 いつもそのあたりは人気が少くて、伸子たちから見えるところに、一人の銀髪の老人が、指環のはまった手をのばして、栗鼠《りす》に南京豆をやっていた。
 ととのった服装のその老人は、気が向くとここへ来ては、樫の大木の根元に立って栗鼠を対手にいくらかのときを過しているのだろう。

 樫の枝の上からじっと下を見ていて、やがて用心ぶかく幹をつたわっておりて来た一匹の栗鼠は、いくたびか近づいたり遠のいたりしてしらべてから、素早く老人の体をかけのぼって、掌にある南京豆をたべはじめた。

 南京豆をたべるときの栗鼠は、樫の枝の上にいるときと同じように、老人のカフスの上に後脚で坐って、太い尻尾を立てて、二つの前肢の間に南京豆を捧げもって、小刻みに早く口をうごかした。
 一つたべ終るごとに、栗鼠は必ず一度草原へ下りて、樫の枝まで戻るのだった。

 泰造と伸子は、おもしろくその光景を眺めながら遠くに佇んでいた。
 「こういうところがイギリスだねえ」
 泰造の声には、羨しさがこもった。
 「どこへ行っても大戦後は変ったというし、また事実かわってもいるが、
  やっぱり同じ昔のイギリスの樫《セーム・オールド・イングリッシュ・オーク》は、
  そのままだ」

 なお草原にじっと立って、幾度目かに栗鼠が掌の南京豆に向っておりて来るのを待っている老人から歩き去りながら、泰造が伸子にきいた。
 「伸子、きのうパスポート(旅券)の査証をし直しに行ったのかい?」
 「ええ。
  どうして?」
 「ホテルのカウンタアで昨夜注意してよこしたから。
  お前の旅券は、イギリス滞在に期限つきだったんだね。
  知らなかった」

 クロイドンの旅券査証所は飛行機から降りて来た伸子の旅券に「三週間を越えざるイギリス滞在を許可する」と書いてスタンプを押したのだった。
 「お父様たちのは、どう?
  無期限でした?」
 「もちろんそうだよ」
 それが、当然であり、伸子が期限つきの入国許可をうけているというようなことは、泰造として心外であり、傷つけられることでさえもある。

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