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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  94

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 「そういうわけじゃない。
  僕は、マルクシストたちが、ひとくちに反動だ、ファシストだって片づけるだけで、  彼らの必死な実力を知ろうとしないのは間違っていると思うんだ。
  第一次大戦のあと、ファシズムがおこって来ているには、
  それだけの必然があるんだから、そこを分析する勇気がなければ、
  いくら『自由のフランス』でだって左翼は敗北するね」

 「そりゃそうでしょう。
  しかし大戦後の必然ってことを云えば、ソヴェト同盟が生れた必然、
  世界に社会主義がたかまって来る必然が一方にある。
  少くともわたしたちはね、その二つのもののたたかいを、
  犬のかみ合いを見物しているようには見ていないんです」
 「犬のかみ合いは、ひどい」

 「だって、ただ、どっちがつよいか、
  どっちが勝つかなんていうところからだけ見ているなら、
  結局、闘犬見物みたいなもんですよ。
  闘犬にだって、ひいきはあるでしょう、かたせたい側っていうものが……」
 男の友人たちとの間で話が議論めいて来ると、ぐいぐいつっこんでゆくのは、いつも素子だった。

 伸子は、蜂谷のいうことのうちに感じとられる真実と、そこにまじって現れている彼の傍観的な立場とを、だまって考えあわせるのだった。
 「さあ、そろそろ、ひっこみましょうか」
 そう云って自分のかけていた椅子を部屋のなかへもちこむ素子に、つづいて椅子を運びながら蜂谷は、

 「それにしても、あなたがたは、かわったもんだなあ」
 と云った。
 素子は、そういう批評が不満足ではないらしく、その感情を、からかうような眼つきの中に示して、
 「あなたはどうなんです」
 蜂谷は、それに答えなかった。
 素子に案内されて、向いの部屋へ去るとき、
 「あなたがたが、ロンドンから帰って来たら、
  いっぺん是非サン・ドニへ行って見ましょう」
 二人の女のどちらへともなく云った。
 「あすこの市長は去年の選挙でドリオという共産党員になって、
  七月と十一月の革命記念日にはサン・ドニの市庁《オテル・ド・ウィユ》に、
  赤旗があがりますよ」

 翌朝、伸子と素子とが起きたとき、蜂谷良作は、向いの室で、ちゃんと身仕度をすまして待っていた。
 朝のコーヒーを三人でのんで、蜂谷は帰って行った。
 伸子の手帳に彼のクラマールの住所を書きのこして。




    第二章

        一

 ロンドンにいた四十日の間に、ヨーロッパの夏が秋の季節にうつって行ったばかりでなく、伸子の身のまわりの事情もあれやこれやと変った。
 八月十三日の朝、アミアンの飛行場から飛びたった真白い旅客機は、二十四人の客をのせて、パリから北へとんで、カレーとドーヴァの間で英仏海峡を越した。

 海峡の上はひどい霧だった。
 気流もわるかった。
 真白い飛行機は灰色の濃い霧の渦の中で、エレヴェータァが三階から地階まで落ちるときのような気味わるい無抵抗さで沈み、次の瞬間には、同じ高さを浮き上った。
 ピッチングのひどいとき船にのっているよりも、はるかにわるかった。

 素子は伸子より早く酔いはじめて、青黄色い顔色になっては、そなえつけの紙袋に顔をつっこんだ。
 伸子の酔いかたは素子とちがって、ちっとも嘔気はなく、ただ頭が金のたがでしめつけられるようになって、段々夢中になって行った。
 こわばって、きしんで、動かなくなったように感じられる眼玉で、伸子は、濃い霧のきれめから憂鬱な藍色に波だっているドーヴァ海峡の水の色を眺めた。

 イギリスの上空にはいったとたん、飛行機の下に見える草木の色が変った。
 フランスの、うすい灰色や真珠色とまじって軽快に爽やかな自然の緑は、イギリスの重厚に黒ずんだ緑にかわった。
 それはイギリスの風景画の基調だった。
 時間を倹約するつもりもあって伸子と素子とは、飛行機でロンドンへ向ったのだったが、午後おそく佐々の一行がとまっているケンシントン街のホテルへたどりついたときの二人は、帳場から電話をしたきり、挨拶にゆく力もなくて、晩餐の時刻まで寝こんでしまった。

 素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスクワへ帰った。
 伸子が佐々の家族にかこまれているということで、日ごろ伸子についてもっている関心から素子は自由になったというわけだったろうか。
 ロンドンへ行けば、素子の気分もかわるかもしれないと思った伸子の想像は、あたらなかった。

 わたしにはパリにいるよりつまらない。
 第一、かたくるしいや。
 二日目に素子はそう言った。
 そして、四日目の朝、ヴィクトーリア停車場から立ってしまった。
 伸子が、いつモスクワへ帰るかということも、はっきりとはうち合わせずに。

 和一郎と小枝は、伸子たちより二週間おくれてロンドンへ来た。
 二人は、親たちや伸子のいるケンシントンのホテルには二晩とまったきりで、ミセス・ステッソンの部屋にうつった。
 ミスタ・ステッソンというひとは、存命中、長崎の領事だったということで、大戦前の日本の、地方の小都市で、たてまつられていた外国夫人らしい権式ぶりだった。

 伸子をつれて、ミセス・ステッソンのところで部屋を見たり、黒ずくめの絹服をつけたその未亡人と話したりしての帰途、泰造は、
 「まあ、和一郎たちには、あれもいいだろう」
 と言った。

 ミセス・ステッソンは、泰造にまで平日は十一時という門限のことや、日曜日の食事は料理女を休ませるから冷たい皿《コールド・ディッシュ》だと心得てくれ、と言った。
 「語学の稽古にはいい。
  あの夫人はいい英語をはなしていたよ。
  伸子にわかったかい?」

 泰造としては、ロンドンで昔、自分が下宿していたミセス・レイマンの住居をさがしだして、そこへ和一郎夫婦をおきたかった。
 パリにいたころ、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。
 ところがロンドンへ来て、いまミセス・レイマンとその息子が住んでいるところをしらべると、泰造がいたころからほぼ四分の一世紀をすぎたイギリス社会の推移は、このつましい一家の生計を、泰造が下宿していた時分とはくらべものにならず落魄させていることがわかった。

 変らないのは、ミセス・レイマンがGペンを風雅につかって書く手紙の文字と、彼女の温い親切な生れつきだけだった。
 ミセス・レイマンは、礼儀にかなった服装がなくて失礼だからと泰造夫婦の晩餐の招待をことわってよこした。

 若い和一郎夫婦が、「彼らの前途多幸《プロスペラス》な未来」のために、イギリス生活を学ぶ目的のためには、残念なことにわたしの家庭はふさわしい環境でありません。
 大戦後、わたしたちの生活は、もう二度ともとに戻ることの不可能な変化をうけました。
 イギリスの多くの中流階級の人々のように。
 風雅な書体のレイマン夫人の手紙は、そういう風な現実を告げていた。

 ミセス・ステッソンが、下宿人をおきはじめたのも大戦後のことだった。
 ローラとよばれる二十六七の娘は、チャーリング・クロスの近くで友達と服飾店を経営していた。
 ミセス・レイマンの手紙にある和一郎夫婦の「前途多幸《プロスペラス》な未来」という文句を、伸子は、言葉に出して誰にいうこともできない懐疑をもって見つめた。

 ミセス・レイマンにとって懐古的な思いをそそるばかりのプロスペラスという言葉、戦後、ひとしお激しい資本主義経済の波に追いまくられて、ロンドン市内の生活を支えきれず、郊外の一隅へなげだされたささやかな中流の一家。
 あからさまに言ってしまえば、伸子は、和一郎の代になってからの佐々の家の未来に、ミセス・レイマンが経た生活の推移と大差ない過程を予感しているのだった。

 泰造と多計代とはミセス・レイマンとその息子のジャック・レイマンを、少し改まった午後の茶に招いた。
 七十歳ちかい母親であるミセス・レイマンと三十歳になったばかりというジャックの上に、大戦を境とするロンドンの中流人の経済的な世代のちがいが、あんまりくっきり描き出されていて、伸子は苦しいようだった。
 ミセス・レイマンはその老年にかかわらず、レースの訪問着はややつかれているにかかわらず、いくらか頬の艷があせているだけで、イギリス婦人らしいしっかりとした骨格と血色を失っていなかった。
 眼づかいや身ごなしに清潔な気品がのこっていた。

 ジャックはおそらく実業学校を卒業しただけで、商会の店員になったらしく、彼の体格は、年とった母より、ずっとわるかった。
 伸子が、二階づくりのバスにのって、商業地域《シティ》から、奥にひろがるロンドンの東区を歩きまわるとき、そこで出会って来る数万の店員《クラーク》たちの一人であった。
 両肩がすぼんで、すこし猫背で、くすんだ顔色の冴えることのない若者たち。

 日曜日の午後、東《イースト》の大公園ヴィクトーリア・パークのせまい池は、そういう若者たちが、男同士、または女の友達をのせて漕ぎまわるボートで、こみあっていた。
 その池にそって、散歩道の上には、あとからあとから家族づれの散歩者の列がつづいた。

 彼らの間には、何とどっさりの乳母車がおされて行っただろう。
 若い母親が夫とつれだって押してゆくのもあったけれど、七つから十二三までのお下髪の女の児が押してゆくのが多かった。
 二三人の、もっと小さい子供たちは姉娘が押してゆく乳母車のまわりや母親のスカートのまわりにたかって歩いてゆく。

 散歩行列の中にいるおびただしい子供たちの日曜日用の服は、どの子の服もきつく畳まれていた折目がついていて小さい体から浮くようにこわばっていた。
 その折目は、いつもはどんなに注意ぶかく、その半ズボン服がしまいこまれているかということを告げた。
 その人々の生活には、子供用の服ダンスなどというものはないこと。
 畳んだ服はトランクに入れられて、兄から弟へ、姉から妹へとゆずられていることなどを語るのだった。

 インディアン・サマアとよばれる夏の終りの明るく暑い日曜日の午後でも、ヴィクトーリア公園の明るさには払いきれない人生のかげりと、隈と、たまにしか入浴させられない子供たちの体の匂いがあった。
 そこの散歩道をねり歩いている大人や子供の鼻のまわりや口のすみには、いくらシャボンで洗ってもおちない、うすぐろさがあるように。

 バスで三十分も乗ってゆくと、伸子の目には全くちがった光景が展開された。
 笛をふいているピイタア・パンの銅像のあるハイド・パークの一隅から、のどかそうにボートの浮んでいるテームズ河がひろびろと見えた。
 そのあたりには、英国の血色と言われている、あざやかな顔色と金髪をもってすらりと背の高い若い男女の夏衣裳だの、桃色や白の子供服が楽しそうに動いていた。

 大公園の中でも伸子たちのいるホテルに近い一廓はケンシントン公園《ガーデン》とよばれて、きれいな芝生の上に、華やかな縞の日除傘をひろげた喫茶店があった。
 そういう西《ウエスト》の色彩、声、動き、習慣のすべてはゴールスワージーの小説の舞台であり、バーナード・ショウの皮肉の本質にそういうものがあるように、自己満足があるのだった。

 西《ウエスト》の人たちは、ロンドンに、自分たちとまったく外見まで違うイギリス人の大群がいることを、至極当然としているらしかった。
 伸子は、しかし、資本主義がひき出したこれらの二つの人種をあるままに見くらべて驚歎し、やがては奥歯をかみしめるような思いにおかれた。

 赤坊のときからもうふけはじめて、それなり育ちがとまったような人間の大群。
 紫外線の不足とよくない食物のために、こまかいふきでものを出している顔色のよくない両肩の落ちた若い男女の大群集。
 夕刻のラッシュ・アワに、こういう男女の大群集が数万の眼をもつ無言の黒い流れとなって、地下鉄のエスカレータアに運ばれ、自働的に上ったり下ったりしている光景は、緩慢で大規模な屠殺場のようだった。

 伸子は、ケンシントンのホテルの五階に、寄宿舎の一人部屋のような狭い室をもっていた。
 その室の一つの窓は、ケンシントン・ガーデンの芝生を見下した。
 夕方になると柵のしめられるその公園は、夜じゅうしずかで、ときたま、ねぐらのなかで何かにおどろかされた鳩のつよい羽音などがきこえて来る。

 毎晩床につく前に、伸子はルドウィッヒ・レーンの「戦争」を数頁ずつよんでいた。
 ロンドンの本屋には、十年たったいまだに「戦争物《ワア・ブック》」の特別な陳列台があるのだった。
 レーンの小説は、理性的で鮮明な描写をもつ戦争反対の作品だった。
 近代科学の力をふるって大量に人間を殺しあっている前線で、一人の男が、機械力そのものの機械的な性格を積極的につかんで、砲弾の落ちる時間の間隔、角度を測定し、一つの砲弾穴から次の穴へと這い進んで僚友と一緒に自分の生命を救う場面を伸子は読んでいた。

 おそろしい破壊のただなかでも、失われることのなかったレーンの精神の沈着さ、緊密さは、その小説をよむ伸子のこころを二重に目ざめさせ、活動させた。
 その小説の頁から時々頭をもたげては、伸子はその日に見て来たいろいろのことについて考え、やけつくように思った。

 背の低い顔にふきでものを出して、腕が不均斉に長いようなロンドンの人々の大群は、いつこの西にまであふれて出て来るだろうか、と。
 マクドナルドの労働党内閣は、伸子がロンドンについて間もない八月二十二日に、ランカシアの紡績労働者の大ストライキを、一二パーセントの賃銀値下げで、一ヵ月目に鎮圧した。

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