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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  87

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 「なんの用だろう?
  どういう名前なの?
  クリストフ、クリストフそれから?
  クリストフ・クラフトだって。
  おかしな名前だこと!」
 彼女はリやラの音をひどく口の中でころがしながら、二、三度その名前をくり返した。
 「まるで悪口《わるくち》の言葉のようだわ……。」
 彼女こそ悪口を一つ言ったのだ。

 「若い人、それとも年寄り?
  よさそうな人なの?
  そんならいいわ、行ってみよう。」
 彼女はまた歌いだした。
 吾《わ》が恋よりもやさしきものは世にあらじ。

 歌いながら、室じゅうをかき回し、散らかった物の中にはいり込んだ鼈甲《べっこう》の留め針を、ののしりちらした。
 じれったがって、怒鳴りだし、獅子《しし》のように猛《たけ》りたった。
 クリストフにはその姿は見えなかったけれど、壁越しに彼女の身振りを一々想像して、一人で笑っていた。

 ついに足音が近づいてき、扉《とびら》がさっと開かれ、そしてオフェリアが現われた。
 彼女はちゃんとした服装をしてはいなかった。
 化粧着を身体にまきつけ、広い袖《そで》の中に腕を露《あら》わにし、髪はよく梳《くしけず》ってなく、巻き毛が眼や頬《ほお》にたれ下がっていた。

 その美しい褐色の眼は笑い、口も笑い、頬も笑い、かわいらしい小窪《こくぼ》が頤《あご》のまん中に笑っていた。
 彼女は荘重な歌うような美しい声で、そんな姿で出て来たことをちょっと詫《わ》びてみた。

 しかし、別に詫びるわけはないことを、かえって感謝されていいことを、よく知っていた。
 彼女は彼を、訪問にやって来た新聞記者だと思っていた。
 そして、ただ自分一個の考えで来たのだと言われ、彼女を賛美してるからだと言われると、失望するどころか、非常に歓《よろこ》んだ。

 彼女は愛嬌《あいきょう》のいい善良な娘で、人に喜ばれるのが大好きで、またそれを隠そうともしなかった。
 クリストフの訪問と心酔とに、彼女はうれしくなった。
 彼女はまだ、世辞追従に毒されてはいなかった。

 彼女はその動作においても、作法においても、小さな虚栄心においても、また人に好かれる時に感ずる無邪気な喜びにおいても、少しの不自然さもなかったので、クリストフは一瞬間も窮屈を感じなかった。
 二人はすぐに古い友だちのような間になった。

 彼は拙《まず》いフランス語を少し話し、彼女は変なドイツ語をわずか話した。
 一時間もたつと、どんな内密な話でももち出した。
 彼女は少しも彼を帰らせようとは思わなかった。
 この強健で快活で怜悧《れいり》で感情を隠さない南欧の女は、愚かな仲間たちにとりまかれ、言葉を知らない他国にあって、生来の喜びをも覚ゆることなく、退屈でたまらなかったので、話し相手を見出したのがうれしかった。

 クリストフの方では、誠実に乏しいいじけた小市民らのまん中で、平民的元気に満ちた南欧の自由な女に出会ったことは、言い知れぬ幸福であった。
 彼はまだ、それら南欧人の不自然な性質を知らなかった。
 彼らはドイツ人と違って、その心の中にもってるもの全部を相手に示す――またしばしば、もっていないものをも相手に示すことがある。

 しかしとにかく、この女優は年が若かった、溌剌《はつらつ》としていた、思ってることを、腹蔵なく露骨に言ってのけた。
 清新な見方で、すべてを自由に批判した。
 雲霧を吹き払うあの南風が、彼女のうちにも多少感ぜられた。

 彼女は天分が豊かであった。
 教養も思慮もなかったけれど、美しいよい物ならば、それをただちに心から感ずることができて、ほんとうに感動するほどだった。
 そしてすぐそのあとで、にわかに大笑いをした。

 もとより、彼女は仇《あだ》っぽい女で、瞳《ひとみ》をよく働かせた。
 よく合わさっていない化粧着の下から、裸の喉《のど》をのぞかしてるのも、少しも不愉快ではなかった。
 彼女はクリストフの心を迷わせたかったかもしれない。
 しかしそれはまったく本能からであった。
 なんらの打算もなかった。
 笑い、快活に話をし、気兼ねも遠慮もなく、善良なお坊《ぼっ》ちゃんとなりお友だちとなることを、いっそう好んでいた。

 芝居生活の内幕や、自分のちょっとしたみじめな事柄や、仲間たちのつまらない猜疑《さいぎ》や、彼女に光らせないようにと注意してるゼザベル――(彼女は座頭の女優をきらってゼザベルと綽名《あだな》していた)――の意地悪なことなどを、彼に話してきかした。

 彼はドイツ人にたいする不平をうち明けた。
 彼女は手をたたいて面白がり、彼に調子を合わした。
 彼女は元来善良であって、だれの悪口をも言うつもりではなかったが、しかしやはり自然と悪口を言うのだった。
 だれかを揶揄《やゆ》する時には、自分の意地悪さを心ではとがめながらも、やはり南欧人の特色たる、現実的な滑稽《こっけい》な観察の才を失わなかった。

 彼女はそれをどうすることもできないで、うがった批評をくだすのだった。
 若犬のような歯並みを見せて、蒼《あお》ざめた唇《くちびる》で面自そうに笑った。
 化粧のために色褪《あ》せた蒼白い顔の中には、隈《くま》のある眼が輝いていた。
 二人は突然、もう一時間以上も話をしたことに気づいた。
 クリストフはコリーヌ――(それが彼女の芸名だった)――へ、市内を案内するために午後誘いに来ようと申し出た。

 彼女はその考えにたいへん喜んだ。
 そして二人は、昼食後すぐに会う約束をした。
 約束の時間に、彼はそこへ行った。
 コリーヌは旅館の小さな客間にすわって、書き抜きを手にしながら声高く読んでいた。
 彼女は笑《え》みを含んだ眼で彼を迎え、なおやめないで文句を終わりまで読んだ。

 それから、安楽椅子《いす》の自分のそばにすわるように合図をした。
 「かけてちょうだい、そして口をきいちゃ厭《いや》よ。」と彼女は言った。
 「台詞《せりふ》を読み返してるところなの。
  十五分もかかれば大丈夫よ。」
 彼女は急《せ》き込んでる小娘のように、ごく早くやたらに読み散らしながら、爪《つめ》の先で書き抜きをたどっていた。
 彼は諳誦《あんしょう》の手伝いをしてやろうと言い出した。

 彼女は彼に書き抜きを渡し、立ち上ってくり返した。
 盛んに言いよどんだり、次の文句へ進んでゆく前に、前の句の終わりを何度もくり返したりした。
 諳誦しながら始終頭を振っていた。
 髪の留め針が室の方々に落ち散った。
 なかなか覚えにくい言葉に出会うと、躾《しつけ》の悪い子供のように焦《じ》れったがった。

 時とすると、おかしな悪口やかなりひどい言葉――みずから自分に浴びせかけるごくひどい短い言葉――を発することもあった。
 クリストフは、才能と幼稚さとを共にそなえてる彼女に驚いた。
 彼女は正当な感動的な台辞回しを見出していった。

 しかし、全心をこめてるらしい調子の最中に、なんの意味も含まないような言葉を言うことがあった。
 かわいい鸚鵡《おうむ》のように文句を諳誦して、どういう意味のものであるかは少しも気にかけなかった。
 するともう支離滅裂なおかしなものになってしまった。

 彼女はいっこう平気だった。
 自分でも気がつくと身をねじって笑いこけた。
 しまいには「ちぇッ!」と言いすてて、彼の手から書き抜きを奪い取り、室の隅《すみ》に投げやり、そして言った。
 「もうおしまい、休みの時間だわ!
  散歩に出かけましょう。」

 彼は彼女の台辞《せりふ》に多少不安を感じて、懸念《けねん》のあまり尋ねた。
 「覚えたつもりですか。」
 彼女は確かな様子で答えた。
 「大丈夫よ。
  それにまた、黒坊《くろんぼ》だってついてるんだもの。」
 彼女は帽子を被《かぶ》りに室へ行った。

 クリストフは待ちながら、ピアノの前にすわって少しばかり和音をひいた。
 向こうの室から彼女は叫んだ。
 「あ、それはなんなの?
  もっとひいてちょうだい。
  ほんとにいいこと!」
 彼女は帽子を頭に留めながら駆けて来た。

 彼はひきつづけた。
 ひいてしまっても、彼女はもっとつづけるように願った。
 そして、トリスタンの曲についても一杯のチョコレートについても同様にまき散らす、フランス婦人特有の気のきいた短い感嘆の声をたてながら、彼女はうっとりと聞き入っていた。

 クリストフは笑っていた。
 ドイツ人の大袈裟《おおげさ》な強調した感嘆の言葉から、気を散らされるのであった。
 でも二つとも、相反した誇張だった。
 一つは床の間の置き物を山とすることであり、一つは山を床の間の置き物とすることであった。
 後者も前者に劣らず滑稽《こっけい》なものだった。

 しかしその時クリストフには、後者の方が好ましかった。
 なぜなら、それが出て来る口を彼は愛していたから。
 コリーヌは、彼がひいてるのはだれの作だか尋ねた。
 そして彼自身の作だと知ると、驚きの声をたてた。
 彼はその午前の会談のおりに、自分は作曲家だとはっきり言っていた。

 しかし彼女はそれに少しも注意しなかったのである。
 彼女は彼のそばにすわって、彼の作を残らずひいてくれとせがんだ。
 散歩は忘れられてしまった。
 彼女の方にお世辞があるのではなかった。
 彼女は音楽を愛していたし、教育の不足を補うに足るりっぱな本能をそなえていた。
 彼は初め彼女の言うことを本気にしないで、最もたやすい旋律《メロディー》をひいてやった。

 しかし、自分の好きな一節をふとひいてみて、そのことをなんとも言わないのに、彼女もまたそれが好きだということを知った時、彼は喜ばしい驚きを感じた。
 りっぱな音楽家であるフランス人に出会うと、ドイツ人はいつも率直な驚きを示すのであるが、彼もやはりそのとおりで、彼女に言った。

 「これは不思議だ。
  あなたは実にりっぱな趣味をもってる。
  僕はまったく意外でした……。」
 コリーヌは彼の鼻先で嘲笑《あざわら》った。
 その次から彼は面白がって、ますます理解しにくい作を選び、どこまで彼女がついて来るかを見ようとした。

 しかし彼女は、どんな大胆な表現にもまごつかないらしかった。
 そして、ドイツではどうしても人から鑑賞されないので、自分でもついに疑惑を生じかけていた、とくに新しい旋律《メロディー》を弾くと、コリーヌはも一度ひいてくれと頼み、みずから立ち上がって、記憶をたどりながらほとんど間違えずにその曲を歌い出したので、彼は非常に驚かされた。

 彼は彼女の方へ向き直り、心をこめてその両手を取った。
 「あなたは音楽家だ!」と彼は叫んだ。
 彼女は笑いだした。
 そして、初めは田舎《いなか》の歌劇に歌手として乗り出したのであったが、巡回興行主から詩劇にたいする才能を認められて、その方へ向けられたのだということを、説明してきかした。

 彼は叫び声をたてた。
 「ひどいや!」
 「なぜ?」と彼女は言った。
 「詩もやはり音楽の一つじゃないの。」
 彼女は彼の歌曲の意味を説明さした。
 彼はドイツ語で話した。
 彼女は彼の口や眼の皺《しわ》までも真似《まね》て発音しながら、猿《さる》のようにすばしこくその言葉をくり返した。

 それから暗誦して歌う時になると、おかしな間違いをした。
 わからなくなると、自分で言葉を作り出して、喉《のど》にかかった粗野な音を発するので、二人とも笑いだした。
 彼女は彼に演奏してもらうのに飽きなかったし、また彼は、彼女に演奏してやり彼女の美しい声を聞くのに飽きなかった。

 その声には少しも職業的な技巧がなかったし、また小娘のように多少喉にかかる歌い方をしてはいたが、なんとも言えぬはかない感傷的な調子がこもっていた。
 彼女は思うとおりを腹蔵なく言ってのけた。
 ある物をなぜ好むかあるいは好まないかを、はっきり説明することはできなかったけれど、その批判のうちにはいつも理由が潜んでいた。

 不思議なことには、最も古典的でドイツで最も賞美さるる楽節において、彼女は最も退屈がった。
 彼女は礼儀上多少の世辞は言ったが、しかし明らかに、そういう曲からはなんの意味をも感じていなかった。
 音楽愛好家やまたは音楽家でさえも、かつて聞いたものからは一種の喜びを感ずるものであって、またその喜びのために彼らは、古い作品の中にかつて愛したことのある形式や様式を、知らず知らずのうちにしばしば再現し、もしくは新しい作品中にもそれを愛するものであるが、しかし彼女は音楽的教養がなかったので、そういう喜びを知らなかった。

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