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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  86

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 彼の憤りは解けなかった。
 もし彼が偏狭でなかったならば、その六十年代の婦人に青年の服装をして舞台に立たせ、しかもきれいに――少なくとも追従的な眼には――見えさせている、変装の優美さと技巧の芸当に、敬意を表したかもしれなかった。

 しかし彼はあらゆる芸当を憎み、自然を破るものを憎んでいた。
 彼の好むところは、女は女であり男は男であることだった。
 現代ではいつもそうなってるとは言えない。

 ベートーヴェンのレオノーレの幼稚な多少滑稽《こっけい》な変装でも、彼には不愉快だった。
 しかしハムレットの変装は、滅法に馬鹿げたものだった。
 脂肪質で蒼《あお》ざめ、怒りやすく、狡猾《こうかつ》で、理屈っぽく、幻覚にとらわれてる、その強健なデンマーク人を、女――しかも女でもないのだ、男に扮《ふん》する女は怪物にすぎない――それになしてしまうとは?

 ハムレットを、宦官《かんがん》になし、もしくは曖昧《あいまい》な両性人物になすとは!
 そういう嫌悪《けんお》すべきばかばかしさが、ただ一日でも口笛を吹かれずに寛容されるとは、だらけ切った時代というのほかはなく、愚昧《ぐまい》きわまる批評界というのほかはないのだ。

 女優の声はクリストフをすっかり激昂《げっこう》さしてしまった。
 彼女は各綴《つづ》り字を切り離す歌唱的な口調をもっていた。
 シャンメーレ以来、世に最も詩的でない国民にはいつも貴《とうと》く思われたらしい、あの単調な朗詠法をもっていた。

 クリストフはいらだって、四つ匍《ば》いに動物の真似《まね》でもしたいほどだった。
 彼は舞台の方に背中を向けて、直立の罰を受けた小学生徒のように、桟敷の壁と鼻をつき合わせながら、憤怒の渋面をしていた。
 仕合わせなことには、連れの女は彼の方を見かねていた。
 もし彼女が見たら、彼を狂人だと思ったかもしれない。

 にわかにクリストフの渋面はやんだ。
 彼は身動きもしないで口をつぐんだ。
 音楽的な美しい声が、荘重でやさしい若い女声が、聞こえてきたのだった。
 クリストフは耳をそばだてた。
 その声が語りつづけるに従って、彼は心ひかれて、そういう囀《さえずり》りをもってる小鳥を見んがために、椅子《いす》の上でふり返った。
 見るとオフェリアがいた。

 もとより彼女はシェイクスピヤのオフェリアとは似てもつかなかった。
 それは背の高い強健なすらりとした美しい娘で、エレクトラかカサンドラみたいなギリシャの若い女の彫像に似ていた。
 生命の気があふれていた。
 自分の持ち役だけにとどまろうと努力しながらも、その肉体や身振りや笑ってる褐色《かっしょく》の眼から、青春と喜悦との力が輝き出していた。

 その美しい肉体の魅力にとらえられてクリストフは、一瞬間前にはハムレットの演出にたいして峻厳《しゅんげん》だったにもかかわらず、オフェリアが自分の描いていた面影とほとんど似てもいないことを、少しも遺憾とは思わなかった。
 そして想像のオフェリアを犠牲に供しても、なんら後悔を感じなかった。

 熱情に駆られた者が有する無意識的な妄信《もうしん》さで彼は、その貞節な惑乱せる処女の心の底に燃えてる若々しい熱気に、一つの深い真実さまでも見出した。
 そしてその魅力をさらに大ならしむるものは、浄《きよ》い温《あたた》かい滑《なめ》らかな声の惑わしだった。

 一語一語が美しい和音のように響いていた。
 各綴《つづ》り音のまわりには、百里香かあるいは野生薄荷《はっか》の香《かお》りのように、弾力性の律動《リズム》を有する南欧のあでやかな抑揚が踊っていた。
 アルル国のオフェリア姫ともいうべき不思議な幻影だった。
 金色の太陽と狂おしい南風との多少を、彼女は身にそなえていた。

 クリストフは隣席の女のことを忘れて、彼女のそばに桟敷の前方へすわった。
 そして名も知らないその美しい女優から眼を離さなかった。
 しかし一般の観客らは、無名の女優を見に来たのではなくて、彼女になんらの注意も払わなかった。
 そして女のハムレットが語る時にしか喝采《かっさい》しようとは思っていなかった。 それを見て取ったクリストフは、彼らに「馬鹿者ども」と怒鳴りつけてやった――十歩先ばかりまで聞こえる低い声で。

 舞台に間幕《あいまく》が降りてから彼は初めて、桟敷を共にしてる連れの女の存在を思い出した。
 そしてやはりおずおずしてる彼女を見ながら、自分の粗暴な様子は彼女をどんなにか驚かしたに違いないと、微笑《ほほえ》みながら考えてみた。
 まさしく彼の考えたとおりだった。

 偶然にも彼と数時間いっしょにいることとなったその若い女の魂は、ほとんど病的なほど慎み深かった。
 思い切ってクリストフの招待を承諾したのも、異常な興奮のうちにあったからだった。
 そして承諾するやすぐに、どうかして彼の手をのがれ、口実を見出し、逃げてしまいたかった。
 皆の者の好奇心の的となってることを気づいた時には、なおたまらなかった。

 自分の後ろに――(彼女は振り向き得なかったのである)――連れの男の低いののしり声や不平の声を聞くに従って、ますますいたたまらなくなるばかりだった。
 彼がどんなことをしでかすかわからないような気がした。
 そして彼が出て来て自分のそばにすわった時、彼女は恐ろしさにぞっとした。
 まだ彼はどんなとっぴなことをするかわからない。

 彼女は穴にでもはいりたかった。
 そして知らず知らず身を引いていた。
 彼にさわるのが恐ろしかった。
 しかし、幕間《まくあい》になって、おとなしく話しかける彼の声を聞いた時、彼女の恐れはすべて消え去った。

 「僕が隣りにいるとたいへん不愉快でしょうね、ごめんください。」
 そこで彼女は彼をながめた。
 そして、先刻いっしょに来る決心の動機となったあの善良な微笑をまた彼の顔に見出した。
 彼はつづけて言った。
 「僕は思ってることを隠すことができないんです。
  それにまた、あまりひどすぎたんで。
  あの女が、あの婆《ばあ》さんが……。」
 彼はふたたび嫌悪《けんお》のしかめ顔をした。

 彼女は微笑《ほほえ》んで、ごく小声で言った。
 「それでも、きれいですわ。」
 彼は彼女の語調に気づいて尋ねた。
 「あなたは外国の方《かた》ですか。」
 「ええ。」と彼女は言った。

 彼は彼女の質素な小さい長衣をながめた。
 「先生をしてるんですか。」と彼は言った。
 彼女は顔を赤くして答えた。
 「ええ。」

 「国はどちらです?」
 彼女は言った。
 「フランス人ですの。」
 彼は驚きの身振りをした。
 「フランス人ですって?
  僕は思いもつきませんでした。」

 「なぜですの。」と彼女はおずおず尋ねた。
 「あなたはたいそう……真面目《まじめ》だから。」と彼は言った。
 彼女はそれを、彼の口から出る以上まったくお世辞ではないと考えた。
 「フランスにだって真面目なものもありますわ。」と彼女は当惑して言った。

 彼は彼女の正直そうな小さな顔、丸く出てる額《ひたい》、小さなまっすぐな鼻、細そりした頤《あご》、栗《くり》色の髪に縁取られてる痩《や》せた頬《ほお》を、うちながめた。
 しかし彼の眼に映ってるのは彼女ではなかった。
 彼はあの美しい女優のことを考えていた。

 彼はくり返し言った。
 「あなたがフランス人だとは実に不思議だ!
  ほんとうにあなたはあのオフェリアと同じ国の人ですか。
  そうだとはだれにも思えないでしょう。」
 彼はちょっと黙った後につけ加えた。
 「あれは実にきれいですね!」

 彼は、隣席の女にとってはあまりありがたくない比較を、彼女とオフェリアとの間に試みてる自分の調子に、みずから気づかなかった。
 彼女の方はよくそれを感じた。
 しかし彼女はクリストフを恨まなかった。
 なぜなら、彼女も彼と同じ考えだったから。

 彼はあの女優に関するいろんなことを、彼女から聞き出そうと試みた。
 しかし彼女は何にも知らなかった。
 明らかに彼女は、芝居のことにはほとんど通じていなかった。
 「フランス語が話されるのを聞くのは、あなたには愉快でしょうね。」と彼は尋ねた。

 彼は戯れのつもりだったが、しかし図星をさした。
 「ええ、それはもう、」と彼女は彼がびっくりしたほど真実な調子で言った、
 「どんなにかうれしいことですわ。
  こちらでは、私は息苦しい気がしますの。」

 彼はこんどはなおよく彼女をながめた。
 彼女は軽く両手を震わせ、胸苦しいようなふうだった。
 しかし彼女はすぐに、今の自分の言葉のうちには、あるいは相手の気色を害するものがあるかもしれないことを、思いついた。
 「あら、ごめんください、」と彼女は言った、「自分でもなんだかわからないことを申しまして。」
 彼は淡白にうち笑った。
 「あやまることがあるものですか。
  まったくおっしゃるとおりです。
  何もフランス人でなくっても、こちらでは息がつまりそうです。
  うっふ……。」
 彼は空気を吸い込みながら肩をそびやかした。

 しかし彼女は、そういうふうに考えをうち明けたのがきまり悪くなって、それきり口をつぐんでしまった。
 そのうえ彼女は隣り桟敷の人々がこちらの会話をうかがってるのに気づいていた。
 彼もまたそのことに気づいて腹をたてた。
 そして二人は話をやめた。

 彼は幕間《まくあい》が終わるのを待ちながら、廊下に出て行った。
 若い女の言葉はまだ彼の耳に響いていた。
 しかし彼は他のことに気を奪われていた。
 オフェリアの面影が彼の心を占めていた。

 そして次々の幕で彼はすっかりとらえられてしまった。
 狂乱の場面になると、愛と死とのあの哀《かな》しい歌のところになると、女優の声は人を感動せしめないではおかないような抑揚《よくよう》になり得たので、彼はまったく心転倒してしまった。

 子牛のように声を挙げて泣き出しそうになっている自分を、彼は感じた。
 そして、気弱さのしるし――(なぜなら、彼は真の芸術家たるものは決して泣いてはいけないと信じていたから)――だと思われるそのことにみずから憤り、また人に見られたくなかったので、ふいに桟敷から外に出た。

 廊下にも休憩室にもだれ一人いなかった。
 彼は心乱れながら階段を降りていって、みずから知らないで外に出た。
 夜の冷たい空気を吸いたかった。
 薄暗い寂しい通りを大跨《おおまた》に歩きたかった。

 いつしか運河の岸に出で、河岸の胸壁に肱《ひじ》をついて、黙々たる水をながめた。
 水の面には街燈の反映が闇《やみ》の中に踊っていた。
 彼の魂もそれに似ていた。
 真暗《まっくら》でおののいていた。

 表面に躍《おど》りたってる大喜悦のほかは、何にも見えなかった。
 方々の大時計が鳴った。
 劇場へもどって劇の終わりを聞くことは、彼にはできそうにもなかった。
 フォルティンブラスの勝利を見にもどれというのか?
 いや、彼はそれに心ひかれなかった。

 なるほどみごとな勝利だろうさ!
 だれがそんな勝利者をうらやむものか。
 獰猛《どうもう》な愚かな生命のあらゆる蛮行に飽きはてた後、勝利者になって何になろうぞ。
 作品全部が生命にたいする恐るべき迫害である。

 しかしながらその中には、生命の異常なる力が沸きたっていて、悲哀は喜悦となり、苦悩は人を陶酔せしむるほどになっている。
 クリストフは、あの初対面の若い女のことはもはや気にもかけないで、家に帰っていった。
 彼は彼女を桟敷の中に置きざりにして、その名前さえも知らなかった。

 翌朝、彼は女優に会いに、三流どころの小さな旅館へ出かけた。
 興行主は彼女を仲間といっしよにそこへ泊まらせ、ただ座頭《ざがしら》の女優だけを、町一流の旅館に入れていたのである。
 クリストフは乱雑な小さな客間に案内された。

 朝食の残り物が、髪の留め針や裂けたきたない楽譜の紙とともに、蓋《ふた》を開いたピアノの上にのっていた、傍《かたわ》らの室ではオフェリアが、ただ騒ぐのが面白さに、子供のように声を張り上げて歌っていた。
 訪問者があるのを告げられると、彼女はちょっと歌をやめて、壁の向こうまで聞こえても構わないような、快活な声で尋ねた。

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