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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  85

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 善良なドイツ人として彼は、遊蕩《ゆうとう》な異国人とその文学とを軽蔑《けいべつ》していた。
 その文学について知ってるところはただ、仔鷲や気儘夫人などの放逸な滑稽《こっけい》劇と洒亭の小唄《こうた》とにすぎなかった。
 だから、芸術になんらの感興をも見出し得そうにない人々が、騒々しく場席係りへ行って急いで名前を記入するような、この小都市の流行好みの風潮を見ると、彼はその名高い旅役者にたいして、軽蔑《けいべつ》的な無関心さを装《よそお》わずにはいられなかった。

 それを聞くために一歩も踏み出すものかと言い張った。
 そして座席が非常に高価で、それだけの金を払う手段がなかっただけに、彼には自分の言葉を守《まも》るのがいっそうたやすかった。
 フランス俳優一団がドイツへもってきた番組のうちには、二、三の古典劇がはいっていた。

 しかしその大部分は、とくに輸出向きのパリー物たる馬鹿げた種類だった。
 なぜなら、凡庸《ぼんよう》くらい万国的なものはないから。
 クリストフは、その旅回りの女優の第一の出し物となってるトスカを知っていた。
 彼は前に翻訳のトスカを聞いたことがあった。
 その時には、ライン地方の小劇団がフランスの作品にたいしてなし得るかぎりの、軽快な優美さで飾ってあった。

 そして彼は今、友人らが劇場へ出かけてゆくのを見ながら、嘲《あざけ》り気味の笑いを浮かべて、それを二度聞きに行くには及ばないと気楽に考えていた。
 それでも翌日になると、友人らが昨晩のことを感激的に話すのに、注意深く耳傾けざるを得なかった。
 今皆が話してる劇の見物を拒みながら、皆の意見に抗弁する権利までも失ったことを、一人憤慨していた。

 予告の第二の出し物は、ハムレットのフランス訳ということになっていた。
 クリストフはかつてシェイクスピヤの作を見る機会を逃がしたことがなかった。
 シェイクスピヤは彼にとってはベートーヴェンと同等で尽くることなき生命の泉であった、彼がちょうど通って来た雑然たる不安疑惑の時期においては、ハムレットはことになつかしいものとなっていた。
 その魔法的な鏡の中に自分の姿をふたたび見出しはすまいかと気づかいながらも、それから魅せられていた。

 座席を取りに行きたくてたまらないことをみずから打ち消しながら、芝居の広告《びら》のまわりを歩き回った。
 しかし彼はきわめて強情だったので、いったん友人らに言明した以上は、それを取り消したくなかった。
 そしてその晩も前晩と同じく、自分の家に留まってるつもりで帰りかけたが、ちょうどその時偶然にも、マンハイムとばったり出会った。

 マンハイムは彼の腕をとらえた。
 そして、父の妹に当たる老いぼれ婆《ばあ》さんが、おおぜいの家族を連れて不意にやって来たことや、それを迎えるために皆家にいなければならなかったことなどを、腹だたしい様子でしかも嘲《あざけ》りの調子を失わないで語ってきかした。
 彼は逃げ出そうとしたのだった。

 しかし父は、家庭上の礼儀と年長者に払うべき尊敬との問題については、嘲弄《ちょうろう》を許さなかった。
 それにちょうど彼は、父をうまく取りなして金を引き出す必要があったので、譲歩して芝居をあきらめない訳にはゆかなかった。

 「君たちは切符をもってたのかい。」とクリストフは尋ねた。
 「そうさ、上等の桟敷《ボックス》だ。
  おまけに、僕はそれを他《ほか》へ届けなけりゃならないんだ。
  このまますぐに行くところだ。
  親父《おやじ》の仲間でグリューネバウムという奴《やつ》にさ。
  妻君と馬鹿娘とを連れて行っていただきたいというんでね。

  愉快な話さ。
  僕はせめて奴らに何か面白くないことを言ってやりたいと思ってるんだ。
  だがそんなことには奴らは平気だ、切符さえもって来てもらえれば。
  切符が紙幣《さつ》ならなお喜ぶだろうがね。」
 彼はクリストフをながめながら、口を開いたままにわかに言いやめた。

 「ああ……そうだ……ちょうどいい!」
 彼は低く言った。
 「クリストフ、君は芝居へ行くのかい。」
 「いや。」
 「諾《うん》と言えよ。
  芝居へ行ってくれ。
  僕の頼みだ。
  厭《いや》とは言えまい。」

 クリストフは訳がわからなかった。
 「だが切符がないんだ。」
 「ここにある!」
 とマンハイムは勢いよく言いながら、彼の手に切符を無理に握らしてしまった。
 「君はめちゃだ。」とクリストフは言った。
 「そしてお父《とう》さんの言いつけは?」

 マンハイムは笑いこけた。
 「怒《おこ》るだろうよ。」と彼は言った。
 彼は笑い涙を拭《ふ》いて、そして結論した。
 「明日《あした》の朝起きぬけに、まだ何にも知らないうちに、
  僕からもち出してやるんだ。」
 「僕は承知できない、」とクリストフは言った、
 「君のお父さんに不愉快なことだと知っては。」
 「君が知る必要はない、君の知ったことじゃない、君に関係あることじゃないんだ。」

 クリストフは切符を開いた。
 「そして四人分の桟敷《ボックス》をどうするんだい。」
 「いいようにするさ。
  よかったらその奥で眠っても踊っても構わない。
  女を連れてゆくさ。
  幾人かあるだろう。
  入用なら貸してやってもいいよ。」

 クリストフは切符をマンハイムに差し出した。
 「いや、どうしてもいやだ。
  取ってくれ。」
 「取るもんか。」
 とマンハイムは数歩退《さが》りながら言った。
 「厭なら無理に行ってくれとは言わない。
  だがもうそれは受け取らないよ。
  火にくべようと、または律義《りちぎ》者の真似《まね》をして、
  グリューネバウムの家へ届けようと、それは君の勝手だ。
  もう僕に関係したことじゃない。
  さよなら。」
 彼は手に切符をもってるクリストフを往来のまん中に置きざりにして、逃げて行ってしまった。

 クリストフは困った。
 グリューネバウムの家へ切符をもってゆくのが至当であると、はっきり思ってもみた。
 しかしその考えにはあまり気乗りがしなかった。
 心を定めかねて家へ帰った。
 気がついて時計をながめてみると、もう芝居へ行くために着替えるだけの時間しかなかった。

 いずれにしても切符を無駄《むだ》にするのはあまり馬鹿げていた。
 母へいっしょに行こうと勧めてみた。
 しかしルイザは、これから寝る方がいいと言った。
 彼は出かけた。
 心の底には子供らしい楽しみがあった。

 ただ一つ不満なのは、その楽しみを一人きりで味わうことだった。
 桟敷を取り上げてやったグリューネバウム一家や、マンハイムの父にたいしては、なんらの苛責《かしゃく》をも感じなかったけれど、自分と桟敷を共にし得るかもしれない人々にたいして、一種の苛責を感じた。
 自分のような若い者にとっては、それがどんなに喜ばしいことであるかを考えると、その喜びを分かたないのがつらかった。

 頭の中であれこれと物色してみたが、切符をやるような相手が見つからなかった。
 そのうえもう遅《おそ》くなっていて、急がなければならなかった。
 劇場へはいる時に、彼は閉《し》め切られてる札売場のそばを通った。
 座席係りの方にはもう一席も残っていないことが、掲示に示してあった。

 残念そうに帰ってゆく人々のうちに、彼は一人の若い女を認めた。
 彼女はまだ思い切って出て行くことができないで、はいって行く人々をうらやましそうにながめていた。
 ごく簡素な黒服をまとい、さほど背が高くもなく、細そりした顔立ちで、しとやかな様子だった。

 きれいであるか醜いかは気づく隙《ひま》がなかった。
 彼は彼女の前を通り越した。がちょっと立ち止まり、ふり向いて、考える間もなく、ぶしつけに尋ねた。
 「あなたは、席がありませんか。」
 彼女は顔を赤らめ、外国人らしい口調で言った。
 「はい、ありませんの。」
 「僕は桟敷《ボックス》を一つもってますが、始末に困ってるところです。
  いっしょにそれを使ってくださいませんか。」

 彼女はなおひどく顔を赤らめ、承諾できない断わりを言いながら感謝した。
 クリストフは断わられたのに当惑して、自分の方から詫《わ》びを言い、なお頼んでみた。
 しかし、彼女が承諾したがってることは明らかでありながら、彼はうまく説き伏せることができなかった。

 彼はたいへん困った。
 そしてにわかに決心した。
 「ねえ、すっかりうまくゆく方法があります。」
 と彼は言った。
 「切符を上げましょう。
  僕はどうだっていいんです。
  前に見たことがあるんですから。
  彼は自慢していた。
  僕よりあなたの楽しみの方が大きいでしょう。
  さあどうか、この切符をおもちなさい。」

 年若な女は、その申し出とその親切な申し出方とにいたく心を動かされて、ほとんど眼に涙を浮かべようとした。
 そして、彼から切符を取り上げるようなことはしたくないと、感謝しながらつぶやいた。
 「では、いっしょにいらっしゃい。」
 と彼は微笑《ほほえ》んで言った。

 彼の様子がいかにも温良で磊落《らいらく》だったので、彼女は断わったのをきまり悪く感じた。
 そして少しまごつきながら言った。
 「まいりますわ。
  ありがとうございます。」

 彼らは中にはいった。
 マンハイムの桟敷《ボックス》は正面で、広々と開《あ》け放してあって、姿を隠すことはできなかった。
 二人がはいって来たことは人目につかざるを得なかった。
 クリストフはその若い女を前の席にすわらせ、自分は邪魔にならないように少し後ろに控えた。

 彼女はまっすぐに身を堅くし、振り向くこともなし得ず、非常に恥ずかしがっていた。
 承諾しなければよかったと後悔してるらしくもあった。
 クリストフは彼女に落ち着く隙《ひま》を与えるために、また話の種が見つからなかったので、わざと他方をながめていた。

 そしてどこへ眼をやっても、桟敷のはなやかな看客のまん中に、見知らぬ女とともに自分がすわってることが、小さな町の人々の好奇心と批評とを招いてることは、容易に見て取られた。
 彼はあちこちに激しい視線を投げ返してやった。
 こちらから他人へ干渉しないのに、他人が執拗《しつこ》く自分に干渉してくるのを、憤っていた。

 その無遠慮な好奇心は、彼よりも連れの女にいっそう向けられており、しかもいっそう厚かましく向けられてることを、彼は考えなかった。
 そして、他人がどんなことを言いどんなことを考えようと、まったく平気だという様子を示すために、そばの女の方に身をかがめて、話を始めた。

 彼女は彼から話しかけられるのを非常に恐れてるらしく、また彼に答えなければならないのを非常に困ってるらしく、彼の方を見もしないで、「はい」とか「いいえ」とか言うのもようやくのことだったので、彼は彼女の世慣れないのを憐《あわ》れに思い、また自分の片隅《かたすみ》に引き込んでしまった。

 が幸いにも、芝居が始まった。
 クリストフは番付を読んでいなかったし、またその名女優がどんな役をするか知りたくも思っていなかった。
 彼は役者を見にではなく芝居を見に来るという正直者の一人だった。
 あの名高い女優がオフェリアになるか女王になるか、そんなことを彼は考えなかった。

 もし考えてみたら、両者の年齢から見て、女王になる方を賛成したろう。
 しかし彼が思いもつかなかったことには、女優はハムレットの役をした。
 彼はハムレットを見た時、その機械人形めいた声音を聞いた時、しばらくはそうだと信じられなかった……。
 「だれだろう、いったいだれだろう?」と彼は半ば口の中でみずから尋ねた。
 「それでもまさか……。」

 そして、「それでも」それがハムレットだと認め得ざるを得なかった時に、彼は罵声《ばせい》を口走った。
 幸いにもそばの女は外国人だったからその意味を理解しなかったが、しかし隣りの桟敷《ボックス》の人たちにはよく意味がわかったらしい。
 黙れという怒った声がすぐに返された。
 彼は一人で自由にののしるために桟敷《ボックス》の奥に引っ込んだ。

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