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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  83

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 クリストフには、これら二人の人物があまり好ましく思えるはずはなかった。
 しかし彼らは二人とも、かなり教養のある親切げな社交的な男であった。
 そしてラウベルの会話は、音楽以外の話題になると面白かった。

 そのうえ彼は変わり者だった。
 変わり者はクリストフにとってはあまり不快でなかった。
 几帳面《きちょうめん》な人々のたまらない凡俗さから、彼の気分を転じさしてくれるのだった。
 彼はまだ知らなかった、不条理なでたらめを言うくらいたまらない者はないということ、そして独創性なるものは、しばしば誤って「独創家」と呼ばれる方の人々には、その他の人々によりもいっそう少ないということを。
 なぜならそれらの「独創家」なる人々は、思想が時計の運動みたいになってしまってる単なる奇人にすぎないから。

 ヨジアス・クリングとラウベルとは、クリストフを虜《とりこ》にしようと思って、最初彼に向かって敬意に満ちた態度を示した。
 クリングは彼に称賛の論説を奉り、ラウベルは協会の音楽会で自分が指揮する彼の作品について、彼の指図を一々守ろうとつとめた。

 クリストフは心を動かされた。
 ところが不幸にも、それらの懇切の結果は、それを示してくれる人々の愚昧《ぐまい》さによって害された。
 自分を称賛してくれるがゆえにこちらからもよく思ってやるという能力を、彼はそなえていなかった。

 彼は気むずかしかった。
 真実の自分とは反対な点を称賛されることを、断固としてしりぞけていた。
 そして誤って自分の味方となった人々を、往々敵と見なしがちだった。
 それで、クリングからワグナーの弟子と認められたり、音階中のある音以外になんら共通点のない、自分の歌曲の楽句と四部作の楽節との間に、多少の類似を捜されたりしても、彼は少しもありがたくなかった。

 また自分の作品の一つが、永遠のワグナーの巨大な二作の間に、ワグナー門下生の無価値な模造品と相並んで、插入《そうにゅう》されて演奏されるのを聞いても、彼は少しも愉快ではなかった。

 彼は間もなく、その小さな礼拝堂が息苦しくなった。
 それは一種の音楽学校であって、各種の古い音楽学校と同様に狭苦しく、また芸術界に新しくできたものだけにさらに偏狭なものだった。
 クリストフは、芸術もしくは思想の一形式が有する絶対的価値にたいして、幻影を失い始めた。

 これまでは、偉大な観念はどこへいってもそれ自身の光明をもってるものだと信じていた。
 ところが今では、観念は変化することあっても人は常に同じであることに、気づいた。
 そして結局は、すべて人にあるのであった。
 観念は人そのままであった。
 もし人が凡庸卑屈に生まれついたとすれば、いかなる天分もその人の魂を通るうちに凡庸となるのだった。
 鉄鎖を破壊する英雄らの解放の叫びも、次の時代の人々の隷属契約となるのだった。

 クリストフは自分の感情を言明せずにはおられなかった。
 芸術上の拝物教を嘲笑《ちょうしょう》した。
 もはやいかなる種類の偶像も不用であり、いかなる種類の古典も不用であると公言した。

 ワグナーの精神の後継者だと自称し得る者はだれかと言えば、それはただ、常に前方をながめて決して後ろをふり返ることなく、ワグナーをも足下に踏みしいて直進し得る者、死ぬべきものを死なしめ、生命との熱烈な交渉を維持する、という勇気をもってる者、のみであると公言した。
 クリングの愚かさは彼を攻撃的ならしめていた。
 彼はワグナーのうちに見出されるあらゆる欠点や滑稽《こっけい》な点を取り上げた。

 ワグナー崇拝者の方では、自分らの神にたいして彼がおかしな嫉妬《しっと》を感じてるゆえだと、思わずにはいなかった。
 クリストフの方では、ワグナーの死後になってそれに熱中してる連中は、ワグナーの生前にはそれをまっ先に絞め殺そうとしたに違いないということを、少しも疑わなかった。
 この点においては、彼は彼らにたいして不正だった。

 クリングやラウベルのごとき者にも、やはり光ってた時代があったのである。
 二十年ばかり前には、彼らも先頭に立っていた。
 それから、多くの者と同じように、彼らはそこに停滞したのである。
 人間の力はいかにも弱いもので、最初の坂を上るともう息を切らして立ち止まる。
 なおつづけて前進するだけの丈夫な気息をもってる者は、きわめて少ない。

 クリストフの態度は、新しい友人らをすぐに離反さしてしまった。
 彼らの同情は一つの取り引きであった。
 彼らが彼の味方であるためには、彼の方で彼らの味方でなければならなかった。
 しかるに、クリストフの方で少しも譲歩しそうにないことは、あまりに明らかだった。

 彼は少しも巻き込まれなかった。
 人々は彼に冷淡な態度を示してきた。
 徒党が設定した神々や小さな神々にたいして、彼が与えるのを拒んだ賛辞は、彼にもまた拒まれた。

 人々は彼の作品を遇するに、以前ほどの熱心を示さなかった。
 そしてある者らは、彼の名前があまりしばしば番組に出るのを抗議し始めた。
 人々は彼を背後から嘲《あざけ》り、悪評が盛んになってきた。
 クリングとラウベルとは、それらの言を打ち捨てておいたが、それに同意してるらしかった。
 けれども人々は、クリストフと葛藤《かっとう》を結ぶまいと用心していた。

 第一には、ライン地方の人々の頭は、中間の解決を好み、決して真の解決ではなくて、曖昧《あいまい》な状態をいつまでも長引かせる特権を含む解決を、好むからであった。
 次には、説得によらずとも少なくとも倦怠《けんたい》によって、彼を思うとおりにしてしまいたいと、人々はやはり望んでいたからである。

 クリストフはその余裕を彼らに与えなかった。
 彼は、一人の男が自分に反感をいだきながらそうだと自認するのを欲しないで、自分となお交誼《こうぎ》をつづけるためにしいて幻をかけようとつとめてるのを、はっきり感ずるように思う時には、自分はその男の敵であるということをりっぱに証明してやるまでは、決してやめないのであった。

 ワグナー協会のある晩餐会で、偽善に包まれた敵意の壁にぶつかった後、彼は理由なしの退会届をラウベルのもとに送った。
 ラウベルには合点がゆかなかった。
 マンハイムはクリストフのもとに駆け込み、万事を調停しようと試みた。
 クリストフは最初の一言をきくや否や、怒鳴りだした。

 「いや、いや、断じていやだ。
  もうあいつらのことを言ってくれるな。
  僕はあいつらをもう見たくないんだ。
  もう我慢できない、まったくできない。
  僕は人間が厭《いや》でたまらないんだ。
  人間の顔を見るのが堪えられないんだ。」

 マンハイムは心から大笑いをしていた。
 クリストフの激昂《げっこう》を鎮《しず》めようと考えるよりも、むしろその激昂を面白がっていた。

 「あいつらがりっぱな者でないことくらいは僕もよく知ってるよ。」と彼は言った。

 「だがそれは何も今日に始まったことじゃない。
  で、何か新しいことでも起こったのか。」
 「何にも。
  僕の方でたまらなくなったんだ。
  そうだ、笑いたまえ、僕を嘲《あざけ》りたまえ。
  もちろん、僕は狂人《きちがい》さ。
  慎重な奴《やつ》らは、健全な理性の法則に従って行動する。

  だが僕はそうじゃない。
  衝動によってのみ動く人間なんだ。
  僕のうちにある電量が蓄積すると、どうしてもそいつが爆発しないではいない。
  もしそれで怪我《けが》をする者があったら、お気の毒の次第だ。
  僕にとっても厄介な話さ。
  僕は社会に生きるようにできてはいない。
  今後僕は、もう自分だけの者でいたいんだ。」


 「それでもまさか、だれの手もかりないで済まそうというんじゃないだろう?」
 とマンハイムは言った。
 「君一人きりでは、君の音楽を演奏させることもできやしない。
  君にだって必要だ、男女の歌手や、管絃楽隊や、管絃楽長や、聴衆や、拍手係や……。」

 クリストフは叫んでいた。
 「いや、いや、いや!」
 しかし最後の言葉は彼を躍《おど》りたたした。
 「拍手係だって、君は恥ずかしくないのか。」
 「雇いのを言うんじゃないよ。
  実を言えば、雇人拍手係こそ、作品の価値を聴衆に示すために、
  なお見出された唯一の方法ではあるが。
  しかし、一種の拍手係が、適当に訓練された小さな仲間が、いつでも必要なんだ。
  どの作家も皆それをもっている。それでこそ友だち甲斐《がい》があるというものだ。」

 「僕は友だちをほしくない。」
 「それじゃ君の作は、口笛を吹かれるばかりだ。」
 「僕は口笛を吹かれたいんだ。」
 マンハイムは愉快でたまらなくなった。
 「そんな楽しみも長くはつづかないよ。
  だれも演奏してくれる者がなくなってしまうだろう。」

 「なに構うもんか。
  それじゃ君は、僕が有名な人間になりたがってるとでも思ってるのか。
  なるほど僕はこれまで、そういう目的に向かって全力を注いでいた。
  まったく無意義だ、狂気沙汰《ざた》だ、阿呆《あほう》の至りだ。
  ちょうど、最も凡俗な高慢心の満足は、光栄の代価たるあらゆる種類の犠牲、
  不愉快、苦痛、不名誉、汚辱、卑劣、賤《いや》しい譲歩、
  などを償うものででもあるかのように!

  ところでもしそういう焦慮が今もなお僕の頭を悩ましてるとしたら、
  僕はむしろ悪魔にでもさらってゆかれたい。
  もうそんなことは少しも思っていないんだ。
  聴衆だの著名だのということには、少しも関《かか》わりたくないんだ。
  著名ということは、不名誉きわまる賤《いや》しいことだ。
  僕は一私人でありたいし、自分自身と愛する人々とのために生きたいんだ。」

 「それはそうだ。」とマンハイムは皮肉な様子で言った。
 「だが仕事は一つなくっちゃいけない。
  君はなぜ靴《くつ》でもこしらえないのか。」
 「ああ僕がもし、他に類のないあのザックスのような靴屋だったら!」
 とクリストフは叫んだ。

 「どんなにか僕の生活は愉快に整ってゆくだろう!
  一週のうち六日は靴屋をやる。
  日曜には、ただ親しい者だけで、自分の楽しみにまた数人の友人の楽しみに、
  音楽をやる。
  実にいい生活だろう!

  馬鹿者どもの判断に供せられるというみごとな喜びのために、
  自分の時間と労力とをささげてしまうのは、愚の至りではないか。
  多くの阿呆どもに聞かれたりがやがや言われたり諛《へつら》われたりするよりは、
  少数のりっぱな人々に愛せられ理解される方が、はるかにましでりっぱではないか。
  傲慢《ごうまん》と光栄の欲求との悪魔から、僕はもう引きずり回されはしないぞ。
  その点は安心したまえ!」

 「そうだとも。」とマンハイムは言った。
 しかし彼はこう考えていた。
 「一時間もたったらこの男は反対のことを言うだろう。」
 彼は平然と結論した。
 「で僕が、ワグナー協会との間を万事調停してやろうじゃないか。」

 クリストフは両腕を上げた。
 「そんなことだから、僕は一時間も骨折って、
  喉《のど》をからしながらいけないと叫んでるんじゃないか!
  断わっておくが、僕はもう決してあんな所へ足を踏み入れはしない。

  いっしょに鳴くためにたがいに寄り集まりたがってる、あのワグナー協会の奴らが、
  あの組合主義の奴らが、あの羊小屋の奴らが、残らず厭でたまらないんだ。
  あの羊どもに向かって、僕の代わりに言ってくれたまえ、僕は狼《おおかみ》だと、
  僕には歯があると、僕は草を食うようにできてる人間じゃないと!」

 「よし、よし、言ってやろう。」
 とマンハイムは言いながら、その昼芝居を面白がって立ち去っていった。
 彼はこう考えていた。
 「この男は狂人だ、縛っておくべき狂人だ……。」

 彼はすぐにその対談を妹に語った。
 妹は肩をそびやかして、そして言った。
 「狂人ですって?
  あの人は狂人だと思わせたがってるのよ。
  お馬鹿さんで、おかしなほど傲慢《ごうまん》な人ですわ……。」

 かかる間にもクリストフは、ワルトハウスの雑誌上で、激しい戦いをつづけていた。
 それも戦いが面白いからではなかった。
 批評界全体が彼を非難し、彼の方ではすべてを罵倒《ばとう》し去ろうとしていた。
 彼は口をつぐむように仕向けられるのでなお頑張《がんば》ったのであって、譲歩の様子を示したくなかったのである。

 ワルトハウスは心配しだした。
 乱打の最中にあって無難である間は、オリンポスの神のごとき泰然さをもって激戦をながめていた。
 しかし数週以前から、どの新聞もいっせいに、ワルトハウスの侵すべからざる品位を忘れたかのようだった。
 そして彼の作者としての自尊心を攻撃し始めた。

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