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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  82

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 民衆は崇高なるものをもてあそぶ。
 されどもしその真相を知らば、あえてながめ得るの力を有せざるべし。

 クリストフはそこで止まればよかった。
 しかし彼は勢いに駆られて、聴衆を通り越し、あたかも砲弾のように、聖堂の中に、神殿の中に、凡庸《ぼんよう》者の犯すべからざる避難所の中に、批評界に、落ち込んでいった。

 彼は同輩らを砲撃した。
 彼らのうちの一人は、現存の作曲家中最も天分に富んだ者、新進派の最も進んだ代表者、すなわち、実を言えばかなり奇怪ではあるがしかし天才の閃《ひらめ》きに満ちた標題交響曲《シンフォニー》の作者ハスレルを、あえて攻撃していた。
 子供のおりハスレルに紹介されたことのあるクリストフは、その昔受けた感激の感謝として、いつも彼にひそかな愛情をいだいていた。

 ところが今、明らかに無知な馬鹿批評家が、かかる人にたいして訓言を与え、秩序と規範との警告をなすのを見ると、彼は我れを忘れて憤った。
 「秩序だと!
  秩序だと!」
と彼は叫んだ。

 「君らは警察の秩序よりほかに秩序を知らないんだ。
  天才は踏み固められた道を進むものではない。
  天才は秩序を創《つく》り出し、おのれの意志を規範にまで高めるのだ。」
 こういう傲慢《ごうまん》な宣言の後に、クリストフはその不運な批評家をとらえて、彼が近ごろ書いた愚劣な事柄をことごとく取り上げ、厳格な是正を施してやった。

 批評界全部が侮辱を感じた。
 それまで批評界は戦いから遠ざかっていた。
 彼らは側杖《そばづえ》を食うようなことをしたくなかった。
 彼らはクリストフの人物を知っていた。
 彼の能力や彼の短気なことを知っていた。それでただ数人の者が、彼のように天分のある作曲家が天職でもない方面に迷い込むのは遺憾だという旨を、控え目に発表したにすぎなかった。

 いかなる意見をいだいていたにせよ(彼らが一つの意見をもったとして、)彼らはクリストフにも、自分を批評されることなしにすべてを批評し得るという批評家の特権を、尊重していたのである。
 しかしクリストフが、批評家をつないでいる暗黙の因襲を乱暴にも破るのを見た時、彼らはただちにクリストフをもって、一般秩序の敵であると見なした。

 一青年が国民的光栄をになってる人々にたいしてあえて敬意を失することは、だれにも皆いまいましいことに思われた。
 そして彼らはクリストフにたいして、猛烈な戦いを始めた。

 それは長い論説や引きつづいた論争ではなかった。
 自分より武装の優《まさ》ってる敵にたいすると、彼らはみずから進んでそういう陣地で戦おうとはしない。
 新聞記者というものは、敵の理論を眼中に置かずにまたそれを読みもしないで、議論を戦わし得るという特殊な才能をもってるものではあるが。

 彼らは長い経験から教えられていた、一新聞の読者は常にその新聞と同意見であるから、論争するようなふうを見せることだけでも、すでに読者の信用を弱めることになると。
 それゆえ断定しなければならなかった、あるいはさらに上策としては、否定しなければならなかった。

 否定は断定の二倍の力をもっている。
 それは重力の法則の直接的結果である。
 石を空中に投げ上げるよりも、それを落下させる方がはるかに容易である。

 で彼らは好んで、不誠実な皮肉な侮辱的な小文の方法に頼って、それを毎日倦《う》むことなき執拗《しつよう》さをもって、適当な場所にくり返し掲載した。
 いつもそれと名ざされてはいなかったが、しかし明らかにわかるようなやり方で、横柄《おうへい》なクリストフが嘲笑《ちょうしよう》されていた。
 クリストフの言は変化されて、馬鹿げたものになされていた。

 報ぜられてるクリストフの逸話は、時とすると端緒だけがほんとうのこともあったが、しかしその他はすべてこしらえ物で、全市の人々との間を不和になすために、またさらに宮廷との間を不和になすために、巧みに細工されたものであった。
 また人身攻撃にまでわたって、彼の顔立ちや服装《みなり》などが悪口され、その漫画が一つ作られていたが、幾度もくり返し掲載されたために、ついには彼に似てると一般に思われるようになった。

 それらのことはクリストフの友人らにとっては、もし彼らの雑誌が戦いの飛沫《ひまつ》を受けさえしなかったならば、別になんでもないことだったろう。
 実際のところ、それは雑誌の広告だった。
 同人らは雑誌を争論の渦中《かちゅう》に投げ出そうとはせずに、むしろ雑誌をクリストフから引き離そうと思った。

 彼らは雑誌の評判が傷つけられるのに驚いた。
 そしてもし注意しなければ、少なくとも編集の方において、遺憾ながら同等の責任を帯ぶるの余儀なきにいたるだろうということが、次第にわかってきた。
 アドルフ・マイとマンハイムにたいするまだかなり手緩《てぬる》い攻撃が始められただけで、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎになった。

 マンハイムは面白がった。
 このことは、父や叔父《おじ》たちや従兄弟《いとこ》たちや数多《あまた》の親戚《しんせき》など、彼がなすことをすべて監視しそれをいまいましく思うのを自分の権利だとしてる連中を、たぶんは立腹させるかもしれないと思った。

 しかしアドルフ・マイは本気に考えて、雑誌の評判を悪くすることをクリストフに非難した。
 クリストフは手きびしく撃退した。
 他の同人らは、害を被らなかったので、いつも皆にたいして首領らしい振舞いをしていたマイが皆の代わりに一本やられたことを、かえっておかしがった。

 ワルトハウスはひそかに愉快がった。
 喧嘩《けんか》があればかならず頭を割られる者も出て来る、と彼は言った。
 もとよりそれは自分の頭を除外した意味でだった。
 家柄から言っても交友から言っても、自分は打撃を受けないですむと思っていた。
 そして同人のユダヤ人らが多少いじめられても、別に不都合はないと考えていた。

 エーレンフェルトとゴールデンリンクとは、まだ害は被らなかったが、多少の攻撃に狼狽《ろうばい》するような者ではなかった。
 彼らは答え返すことができるのだった。
 彼らにとってそれよりはるかに手痛いことは、クリストフが頑固《がんこ》に議論をつづけるために、友人らことに女の友人らとの仲が、妙に不和になることであった。

 彼らは最初の論説を見ると、ごく愉快になって面白い狂言だと思った。
 クリストフの破竹の勢いを感嘆した。
 そしてただ一言忠告さえすれば、彼の争闘的な熱気を和らげることができ、あるいは少なくとも、自分らが名ざす男や女からは彼の攻撃を転ぜしむることができると思い込んでいた。

 ところがそうはいかない。
 クリストフは何物にも耳を貸さなかった。
 なんらの勧告をも顧慮しなかった。
 そして猛《たけ》り狂ったように攻撃をつづけた。
 もしそのまま放《ほう》っておいたら、もはやこの地方では生き得られなくなるかもしれなかった。

 すでに彼らのかわいい女の友だちらは、涙を流して口惜《くや》しがりながら、雑誌社へやって来て苦情をもち込んだ。
 彼らはあらゆる手段をつくして、クリストフにせめてある批評だけなりと和らげさせようとした。
 しかしクリストフは少しも調子を変えなかった。
 彼らは憤った。
 クリストフも憤った。
 しかし彼は少しもあらためなかった。

 ワルトハウスは、自分になんら影響のない友人らの憤激を面白がり、彼らをますます怒らせるためにクリストフの味方をした。
 万人に向かって頭からぶつかってゆき、なんら退却の道を講ぜず、未来のために隠《かく》れ家《が》を取っておこうとしない、クリストフの勇敢な無法さを、おそらく彼は彼らよりもよく評価し得たのであろう。

 次にマンハイムは、なんらの私心なしにその騒動を愉快がっていた。
 几帳面《きちょうめん》な同人どもの中にこの狂人を引き入れたのは、面白い狂言のように思われた。
 そしクリストフが振り回す拳固《げんこ》をも、また自分にふりかかってくる攻撃をも、斉《ひと》しく腹をかかえて笑っていた。

 妹の感化を受けて、クリストフにはまさしく足りないところが多少あると信じ始めてはいたものの、そのためにますますクリストフが好ましくなるばかりだった。
 彼は自分が同感をもち得る人々のことを多少滑稽《こっけい》だと思いたがっていた。
 それで彼はワルトハウスとともに、他人に反対してクリストフを支持しつづけた。

 彼はいつもつとめて自分には実際的才能がないと思いたがってはいたが、それでもなお実際的才能が乏しくはなかったので、ちょうどおりよくも、この地方で最も進んだ音楽上の一派の主旨と友の主旨とを結びつけた方が、ずっと有利だろうということを思いついた。

 ドイツのたいていの都市にあるように、この町にも一つのワグナー協会があって、保守派に、対抗して新思潮を代表していた。
 そしてもとより、ワグナーの光栄が至る所で認められ、彼の作品がドイツのあらゆる歌劇場の上演曲目にのぼせられるに及んでは、彼を擁護しても大なる危険を冒すことにはならなかった。

 しかし彼の勝利は、自由に承認されたというよりもむしろ、無理強《じ》いに課せられたものであった。
 そして多数の者は、心の底では頑固に保守的であって、この町のように、近代の大潮流からやや遠ざかって、古代の評判を誇りとしてる小都市では、ことにそうであった。

 あらゆる新しきものにたいする、ドイツ民衆に先天的な不信の念、数多の時代によってまだよく咀嚼《そしゃく》されていない何か真実な強健なものにたいする、感受性の一種の怠惰さが、他のどこよりもかかる小都市にいっそうはなはだしかった。
 その明らかな例としては、ワグナー的精神に鼓吹せられたあらゆる新しい作品が――もうあえて非議できないワグナーの作品は別として――ことごとく冷遇されていた。

 それゆえワグナー協会がなすべき有益な務めは、芸術の若々しい独創的な力を真面目《まじめ》に擁護することであった。
 時々それが実際になされていた。
 そしてブルクナーやフーゴー・ヴォルフは、それらの協会のある物のうちに、自分の最良の味方を見出した。

 しかしあまりにしばしば、師の利己主義が弟子どもを圧迫していた。
 バイロイトがただ一人の者を恐ろしく光栄あらしむることにのみ役だったと同じく、バイロイトの分派はそれぞれ小さな教会堂であって、そこで人々は永久に、唯一の神をほめてミサを唱えていた。

 神聖な教義を文字どおりに遵守《じゅんしゅ》し、顔を塵《ちり》に埋めてひれ伏し、音楽や詩や劇や形而上《けいじじょう》学などというさまざまの見地から唯一の神体を礼拝してる、忠実なる弟子《でし》らにたいして、礼拝堂の側席へはいるのを許すのが、最上のことであった。

 この町のワグナー協会の場合も、まさに同じであった。
 けれどもこの協会は、種々の行動を取っていた。
 役にたちそうに思われる有能な青年らを、好んで取り入れようとつとめていた。
 そして久しい以前から、クリストフに眼をつけていた。

 ひそかに彼へ意を伝えたこともあった。
 が彼はそれを念頭にも置かなかった。
 いかなるものとも結合するの要求を別に感じなかったのである。
 いかなる必要があって同国人らが皆、いつも羊のように群れを作り、単独では、歌うことも散歩することも飲むことも、何事もなし得ないかの観があるのを、彼は理解できなかった。

 彼はあらゆる組合主義をきらっていた。
 しかしいずれかと言えば、他のいかなる組合よりもワグナー協会の方に親しみやすかった。
 少なくとも、りっぱな音楽会をやるという口実があった。
 そしてワグナー派の芸術観にことごとく同感ではなかったとは言え、他の音楽団体のいずれよりもそれに接近しがちであった。

 ブラームスやブラームス派にたいして、自分と同じように不当な態度を示してる一派となら、了解の地歩を見出し得られそうだった。
 それゆえ彼は紹介されるままに任した。
 マンハイムが仲介人であった。
 マンハイムは皆と知り合いだった。
 音楽家でもないくせに、ワグナー協会の一員になっていた。

 協会の幹事は、クリストフが雑誌上で始めた戦いを一々見落とさなかった。
 またクリストフが敵陣の中でなした若干の演奏は、味方にして働かしたら役にたつだろうということを、力強く立証するもののように彼には思われた。

 クリストフはまた神聖なる偶像にたいして、不敬な矢を多少放ったこともあった。
 しかしそのことについては、眼をつぶっておく方がいいと考えられた。
 そしてまたおそらく、まだかなり手緩いものであったそれらの最初の攻撃は、クリストフにその上発言する隙《すき》を与えずに急いで引き入れてしまったということに、だれもそうと承認はしなかったが、無関係ではなかったのである。

 人々はごく丁重に、協会の今後の音楽会に彼の旋律《メロディー》を少し演奏するのを、許してもらいたいと申し込んできた。
 クリストフはおだてに乗って承諾した。
 彼はワグナー協会へ出かけて行った。
 そしてマンハイムから説き勧められて、それに加入してしまった。

 このワグナー協会の首領は当時二人あったが、一人は著作家として、一人は管弦楽長として、ともにある程度の名声を有していた。
 二人ともワグナーにたいして、マホメット教徒的の信仰をいだいていた。

 前者はヨジアス・クリングといって、ワグナーに関する一辞典――ワグナー辞典――をこしらえ、全知全能なる師の思想を一瞬間に知り得る方便とした。
 それが彼の畢生《ひっせい》の大事業であった。
 あたかもフランスの地方の中流人らが、オルレアンの少女の歌をすっかり諳誦《あんしょう》するように、彼はその辞典の綱目をことごとく諳誦し得たかもしれない。

 彼はまたバイロイト日報に、ワグナーおよびアリアン精神に関する論説を発表していた。
 言うまでもなく彼にとっては、ワグナーは純アリアン的な典型であり、ドイツ民族は、ラテンのセム精神ことにフランスのセム精神の腐敗的影響から、少しも侵されることのない避難所であった。
 不純なゴール精神の決定的な敗滅を、彼は宣言していた。

 それでもやはり、あたかも永遠の敵の脅威を常に感じてるかのように、毎日激しい戦いをつづけていた。
 彼はフランスにただ一人の偉人をしか認めなかった。
 それはゴビノー伯爵であった。
 クリングは小さな老人で、きわめて小柄で、きわめてていねいで、処女のようにすぐ顔を赤らめた。

 ワグナー協会のも一人の柱石は、エーリッヒ・ラウベルといって、四十歳まである化学工場の支配人をしてた男だった。
 その後彼はすべてをうち捨てて、管絃楽長になってしまった。
 なり得たのは意志の力にもよるし、また富裕だからでもあった。

 彼はバイロイトにたいする狂信者だった。
 ミュンヘンからバイロイトまで巡礼の草鞋《わらじ》をはいて徒歩で行ったこともあるそうである。
 おかしなことだがこの男は、非常に読書をし、非常に旅をし、種々の職業をやり、そして至る所で精力的な人物だということを示していたのに、音楽上においては、まったくパニュルジュの羊となってしまった。

 あらゆる独創の才を用いつくしながら、他人より少し愚かな地位だけをようやく保ち得た。
 音楽上ではあまりに自信が乏しかったので、自分の感情に頼ることができないで、音楽長やバイロイトの免許者らがワグナーについて与えてくれる注解を、唯々《いい》諾々として傾聴していた。
 ヴァーンフリートのワグナー官邸の粗野幼稚なる趣味に合致する、舞台装置や多彩な衣裳などのごとく些細《ささい》な点までも、そのとおりに真似《まね》たいと思っていた。

 世にはミケランジェロの狂信者がいて、師の作を模写する場合に黴《かび》までも写し取り、神聖な作品の中にはいってきてるということによって、その黴をも神聖なものと見なすことがあるが、ラウベルもまたそういう狂信者と同様だった。

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