ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  81

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 年少気鋭で過激でかなり悪趣味なこの宣言は、もとより読者を絶叫せしめた。
 けれども、万人がその目標とされていながら、だれ一人として明らかに名ざされていはしなかったので、自分のことだと見なすものはなかった。
 各人が真実の最良の友であり、そう信じており、あるいはそう考えていた。
 それでこの論説の結論は、だれからも攻撃されるの恐れがなかった。

 人々はただ全体の調子を不快に思った。
 そしてそれがあまり妥当なものではなく、ことに半官的な芸術家の言としてはそうであるというのが、一般の意見であった。

 数人の音楽家らは活動しだして、鋭い反抗の態度を取った。
 彼らはクリストフがそのままでとどまりはすまいと予見していた。
 またある音楽家らは巧みな態度を取るつもりで、クリストフにその勇敢な行ないを称揚した。

 でも彼らはやはり、次回の論説には不安をいだいていた。
 そういう二様の策略は、共に同じ結果をしか得なかった。
 クリストフはもう飛び出していた。
 何物も彼を引止めることができなかった。
 そして彼があらかじめ言ったとおりに、作者も演奏者も皆引き出された。

 まっ先に血祭に上げられたのは音楽長らであった。
 管弦楽統率術にたいする一般の意見を、クリストフは少しも眼中におかなかった。
 彼はその町の同僚や近隣の町の同僚を、一々それと名ざした。
 名ざさない場合には、だれにも一見して明らかであるような諷刺《ふうし》を用いた。

 宮廷管絃楽長アロイス・フォン・ヴェルネルの無気力さが述べられていることは、だれにでもわかった。
 これは種々の名誉な肩書をになってる用心深い老人で、万事を気づかい、万事を慎み、部下の音楽家らに一言の注意を与えるのも恐れて、彼らのなすままを従順にながめ、また演奏の番組のうちには、幾年もの引きつづいた成功によって箔《はく》をつけられたものか、あるいは少なくとも、何か官僚的権威の公然の印をおされたものかでなければ、何一つ思い切って加えることもできなかった。

 クリストフは反語的に、彼の大胆なやり方を称賛した。
 ガーデやドヴォルザークやチャイコフスキーを見出したのを祝した。
 彼の指揮する管絃楽の、確固たる正確さ、メトロノーム的な均斉《きんせい》さ、常に美妙な色合いを失わない演奏法を、激称した。

 次の音楽会には、チェルニーの急速なる練習曲を演奏するがいいと提議した。
 そして、あまり身体を疲らせないように、あまり憤激しないように、貴重な健康をいたわるようにと頼んだ。

 あるいはまた、彼がベートーヴェンのエロイカを指揮した方法にたいし、憤怒《ふんぬ》の叫びをあげた。
 「大砲だ、大砲だ!
  こういう奴らを掃蕩《そうとう》してくれ!
  君らはいったい、戦いとはいかなるものであるか、
  人間の愚昧《ぐまい》と獰猛《どうもう》とにたいする争闘とは、
  いかなるものであるか。

  歓喜の笑いを浮かべてそれらを蹂躙《じゅうりん》する力とはいかなるものであるか、
  それを少しも知らないのだ。
  それがどうして諸君にわかろう?
  力が戦うのは諸君にたいしてである!

  ベートーヴェンのエロイカを聞いたり演奏したりしながら、
  欠伸《あくび》を我慢することに。
  なぜならこの曲は諸君を退屈がらせるからだ。
  退屈だと、退屈でたまらないと、告白したまえ!

  あるいは、貴顕な人々の通過のさいに、帽をぬぎ背をかがめて、
  風を物ともしないことに、諸君はおのれのうちの勇壮をことごとく浪費してるのだ。」

 過去の偉人らの作を「古典《クラシック》」として演奏してる音楽学校の重鎮らにたいしては、彼はいかに譏刺《きし》を事としてもまだ足りなかった。
 「古典《クラシック》!
  この言葉にはあらゆるものが含まっている。
  自由な情熱が、学校で使えるように整理し加減されてるのだ!

  風に吹かれてる広野たる人生が、運動場の四壁のうちに閉じこめられてるのだ!
  戦《おのの》く心の粗野な誇らかな律動《リズム》も、
  高拍子の撞木杖《しゅもくづえ》によりかかり跛を引きながら、
  お人よしのくだらぬ道を安心して進んでゆく、
  四拍子一節の時計の音になされてるのだ!

  大洋を享楽せんがためには、諸君はそれを金魚といっしょに、
  ガラス瓶《びん》の中に入れたがるに違いない。
  諸君は人生を殺してしまった時に、初めて人生を解するのだ。」

 クリストフは、彼が「剥製《はくせい》者」と名づけた人々にたいして温和ではなかったが、「曲馬師」ら、腕の丸みと粉飾した手とを称賛さしに押し出してくる名高い音楽長らにたいしても、やはり温和ではなかった。

 彼らは、大楽匠を踏み台にしておのれの腕前を揮《ふる》い、広く世に知られてる作品を形《かた》なしにしようとつとめ、ハ短調交響曲の箍《たが》の飛びぬけをやってるのだった。
 クリストフは彼らを、めかし婆《ばば》、ジプシー、綱渡り、などと呼んでいた。

 妙技を有する音楽家らが、豊富な材料を供給してくれた。
 彼は彼らの奇術的興行を批判することを回避した。
 彼の言葉に従えば、そういう機械仕掛《からくり》の技芸は、工芸学校に属する手法であって、それらの仕事の価値を評価し得るものは、時間と音数と消費された精力とを記載する図表ばかりであった。

 時とすると、二時間もの音楽会で、唇《くちびる》に微笑を浮かべ、眼を輝かして、最もひどい困難に、モーツァルトの幼稚なアンダンテをひくという困難に、首尾よく打ち勝った高名なピアノの名手を、彼は蔑視《べっし》することもあった。

 もとより、彼は困難に打ち克《か》つの快楽を否認するものではなかった。
 彼もまたその快楽を味わったことがあった。
 それは彼にとって生の歓びの一つであった。
 しかしながら、その最も物質的な方面のみ見て、芸術上の勇壮心をことごとくそこに限ってしまうことは、彼には滑稽《こっけい》な堕落的なことに思われた。
 彼は「ピアノの獅子《しし》」や「ピアノの豹《ひょう》」を許容することができなかった。

 また彼は、ドイツで名高いりっぱな衒学《げんがく》者にたいしても、あまり寛大ではなかった。
 彼らは、楽匠らの原作の調子を少しも変えまいと正当に注意し、思想の余勢を細心に抑圧し、あたかもハンス・フォン・ブューロウのように、熱烈な奏鳴曲《ソナタ》を演ずる時にも、語法の教えでも授けてるような調子であった。

 歌手らの順番もまわってきた。
 彼らの粗野な重々しさと田舎《いなか》風の強い語勢について、クリストフはたくさん言うべきことをもっていた。
 新しい女たる女歌手との最近の葛藤《かっとう》が頭にあるからばかりではなく、自分にとって苦痛だった多くの公演にたいする怨恨《えんこん》があった。

 そこでは耳と眼とどちらが多く苦しめられるのかわからなかった。
 醜い舞台装置や不体裁な衣装やけばけばしい色彩などを批評するのに、クリストフは比較の言葉も十分に見出しかねた。

 人物や身振りや態度の卑俗さ、不自然きわまる演技、他人の魂を装《よそお》うことにおける俳優らの無能さ、やや同じような声の調子で書かれてさえいれば、一つの役から他の役へと彼らが移ってゆく驚くべき無関心さ、それらのことに彼は胸を悪くした。

 肥満しきった快活豪奢《ごうしゃ》な婦人らが、代わる代わるイソルデやカルメンに扮装《ふんそう》して現われた。
 アンフォルタスがフィガロを演じた。
 しかしクリストフがおのずから最もよく感じたことは、歌の醜いことであって、ことに、旋律の美が本質的要素たる古典的作品における、歌の醜いことであった。

 もはやドイツではだれも、十八世紀末の完全な音楽を歌うことができなかった。
 歌おうとつとめる者がなかった。
 ゲーテの文体のようにイタリー的な光明に浴してるごとく思われる、グルックやモーツァルトの明確素粋な様式、すでに変化し始め、ウェーバーとともに震え揺めき始めた、その様式、クロシアトの作者の鈍重な漫画によって滑稽《こっけい》化された、その様式。

 それはワグナーの勝利によって滅ぼされてしまっていた。
 鋭い叫びを上げるワルプルギスの荒々しい羽音は、ギリシャの空を覆《おお》うていた。
 オディンの密雲は光を消滅さしていた。
 今はもはやだれも、音楽を歌おうと思う者がなかった。
 人は詩を歌っていた。
 細部の閑却や醜いものや誤れる音さえも、大目に見のがされていた、ただ作品全体のみが、思想のみが、重要であるという口実のもとに。

 「思想!
  それについて一言してみよう。
  なるほど諸君は思想を理解するような顔つきをしている。
  しかしながら、諸君が思想を解しようと解すまいと、
  どうか、その思想が選んだ形式を尊敬してもらいたい。
  何よりもまず、音楽は音楽であってほしい、音楽のままであってほしい。」

 その上、ドイツの芸術家らが表現と深い思想とにたいして払ったと自称する、この大なる注意は、クリストフの意見によれば、おかしな冗談にすぎなかった。
 表現だと?
 思想だと?
 そうだ、彼らはそれを至る所に、至る所一様に配置していた。

 毛織の舞踏靴《ぶとうぐつ》の中にも、ミケランジェロの彫刻の中にと同じく――多くも少なくもなく同等に――思想を見出すのであった。
 だれの作をも、いかなる作をも、同じ力で演奏していた。
 要するに、多数の人々の考えでは、音楽の本質は――とクリストフは断言した――音量であり音楽的騒音であった。

 ドイツでかくも強く感ぜられてる歌唱の快楽は、声音的体操の愉悦にすぎなかった。
 空気で胸をふくらまし、それを元気に力強く長く調子をつけて吹き出すことが、その主眼であった。
 そしてクリストフは、賛辞の代わりに健康の保証を、あるすぐれた女歌手にささげた。

 クリストフは芸術家らを非難するばかりでは満足しなかった。
 彼は舞台から飛び出して、呆然《ぼうぜん》と口を開きながらそれらの演奏に臨んでる聴衆をもなぐりつけた。
 聴衆は惘然《ぼうぜん》として、笑っていいか怒っていいかもわからなかった。

 彼らはその非道な仕打ちにたいして怒号してもよかった。
 元来彼らは芸術上の戦いにはいっさい加わるまいと注意していた。
 あらゆる紛議の外に用心深く身を置いていた。
 そして間違いをしやすまいかと気づかって、すべてのものを喝采《かっさい》していた。

 ところが今クリストフは、彼らの喝采《かっさい》を罪悪だとした。
 悪作を喝采するというのか!
 それだけでもたまらないことだ!
 がクリストフはなお極端に奔《はし》った。
 彼が彼らに最も非難したのは、偉大な作品を喝采することであった。

 「道化者めが、」と彼は彼らに言った、
 「諸君はそんなに多くの感激を持ち合わしてると人から思われたいのか。
  ところが、諸君はちょうど反対のことを証明してるのだ。
  喝采したいなら、喝采に相当する作品か楽節かを喝采したまえ。

  モーツァルトが言ったように、『長い耳のために』作られた騒々しい結末を、
  喝采したまえ。
  そこでは有頂天に拍手したまえ。
  驢馬《ろば》の鳴き声が初めから予想されてるんだ。
  それが音楽会の一部となっているんだ。

  しかしながら、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲のあとには!
  不幸なるかなだ!
  これは最後の審判である。
  あたかも大洋上の暴風のように、狂いだつ栄光《グロリア》が展開するのを、
  諸君は見たのだ。

  強力暴戻《ぼうれい》なる意力の竜巻《たつまき》が過ぎるのを、諸君は見たのだ。
  それは進行を止めて雲につかまりながら、
  両の拳《こぶし》で深淵《しんえん》の上方にしがみつき、
  そしてまた全速力で空間中に突進する。

  風は怒号する。
  その暴風の最も強烈な最中に、にわかの転調が、音の反射が、空の暗黒をうがって、
  蒼白《そうはく》な海の上に、光の延板のように落ちてくる。
  それが終わりである。

  殺戮《さつりく》の天使の猛然たる飛翔《ひしょう》は、三度の稲妻に翼を縛られて、
  ぴたりと止まる。
  周囲ではまだすべてが戦《おのの》いている。
  酔える眼は眩《くら》んでいる。
  心臓は鼓動し、呼吸は止まり、四肢《し》は痲痺《まひ》している。

  そして最後の音が響き終わらないうちに、諸君はすでに快活に愉快になり、
  叫び、
  笑い、
  批評し、
  喝采する。

  実に諸君は、何も見ず、何も聞かず、何も感ぜず、何も理解しなかったのだ、
  絶対に何物も!
  芸術家の苦悩も、諸君にとっては一場の見物となるのだ。

  一ベートーヴェンの苦悶《くもん》の涙を、諸君はみごとに描かれてると判断する。
  諸君は主の磔刑《はりつけけい》にたいして『も一度!』と叫ぶかもしれない。
  諸君の好奇心を一時間の間楽しませるためには、
  偉大なる魂が一生の間苦悶のうちにもがくのだ!……」
 かくてクリストフは、ゲーテの偉大な言葉を、まだその尊大なる清朗さには到達していなかったけれども、みずから知らずして注釈したのであった。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング