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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  75

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 伸子はベルリンへ来て間もなくそれに気づいていた。
 モスクワで会ったときは、ふるい歌舞伎の世界にいたたまれなくなって、そこから脱出しようとしていた長原吉之助の方が思いつめていた。
 あれからベルリンへかえって、七八ヵ月の生活が中館公一郎に何を経験させたかは、伸子にはかり知られないことだった。

 しかし、川瀬勇との話しぶりは、いつも会っていて、何か継続的な問題について論じあっている友達同士のもの云いであり、省略の中に二人に通じる何か根本的な問題がふれられていることを、伸子に感じさせるのだった。
 「実際、映画や演劇って奴は、ギリギリまで近代企業でいやがるからね」
 眼玉の大きい顔を平手で撫でて、川瀬勇はいまいましそうに巻き舌をつかった。

 「ドイツ映画にしたって、もう底をついたさ。
  エロティシズムにしろ、異常神経にしろ、マンネリズムだ。
  パプストにしたってうぬぼれるがものはありゃしないんだ。
  そうかって、一方じゃラムベル・ウォルフでもう限界なんだから」
 映画制作が大資本を必要とするために、左翼の芸術運動が盛なように見えるベルリンでも、プロレタリア映画の制作は経済上なり立ちにくいということだった。
 「このまんまトーキーにでもなったら、ドイツ映画も末路だね」
 「そうさ、目に見えていら。
  アメリカ資本にくわれちまうんだ」

 そのビール店では、入って来るなりいきなりバアに立って、たんのうするだけのむと、さっさと出てゆく人々も少くない代り、片隅へ陣どったら容易に動き出さない連中もかなりいた。
 それらの男女の姿が店内に煌く鏡にうつり、伸子のいる隅からは、すっかり夜につつまれた大通りの一角が眺められた。
 ベルリンが世界に誇っているネオンが、往来の向い側にそびえている建物の高さにそって縦に走り、初夏の夜空へ消える青い光のリボンのように燃えていた。

 わきの映画館の軒蛇腹に橙色の焔の糸が、柔かい字体で、GLORIA《グロリア》・PALAST《パラスト》と輝やいている。
 色さまざまなネオン・サインは、動かない光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスクワやウィーンで味わうことのなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。
 ベルリンの夜には、闇が生きものでもあるかのように伸子を不気味にするものがある。
 伸子は、そういう夜の感覚の上に、中館公一郎と川瀬勇とが、なお映画、演劇の企業性について論じているのを聞いていた。


        九

 伸子と素子とがベルリンへ来ると間もなく、中館公一郎と川瀬勇とはつれだって、彼女たちをウンテル・デン・リンデン街のしもてを横へ入ったところにあるプレイ・ガイドのような店へつれて行った。
 光線の足りない狭い店の壁からカウンターの奥へかけて、ドイツ特有の強烈な色彩と図案の広告ビラがすきまなくはりめぐらされていた。

 そこで、二人は、この二週間のうちに伸子と素子とが、シーズンはずれのベルリンで見られる芝居、きける音楽会のプログラムをしらべた。
 そして、伸子たちのために数ヵ所の前売切符を買わせた。
 ドイツ劇場でストリンドベリーの「幽霊」をやっている。
 その切符。
 ふたシーズンうちとおしてなお満員つづきの「三文オペラ」。
 演奏の立派なことで定評のあるベルリーナア・フィルハルモニッシェス・オルケスタアが珍しくシーズン外にベートーヴェンの第九シムフォニーを演奏する。

 それと、旅興行でベルリンへ来るスカラ座のオペラがききものであったが、どっちも切符はほとんど売りきれで、伸子たちは、第九の方では柄にない棧敷席《ロッジ》のうれのこり二枚、オペラでは「カルメン」の晩三階の隅っこで二つ、やっと切符を手にいれることができた。

 「さあ、これでよし、と」
 背のたかい体でその店のガラス戸を押して、伸子たちを先へ往来へ出してやりながら川瀬勇が云った。
 「いま、このくらいの番組がそろえば、わるい方じゃないや。
  じゃ、いい?
  君たちきょうは美術館なんだろう?」
 役所風に堂々とはしているけれども無味乾燥なウンテル・デン・リンデンの大通りへでたところで、伸子たちはその大通りのつき当りにそびえている元宮殿の美術館の方へ、川瀬たちは地下鉄の方へとふたくみにわかれた。

 その日、伸子たちは、川瀬や中館の仲間がよくそこで昼飯をたべているらしい、一軒の日本料理店で彼らとおちあった。
 外国にある日本料理店には、ほかのところにないしめっぽくて重い一種のにおいがしみこんでいる。
 それは味噌だの醤油だの漬けものだのという、それこそ恋しがって日本人がたべに来る食料品から、壁やテーブルへしみこんでいるにおいだった。

 ときわとローマ字の看板を出しているその店の、そういうにおいのある食堂の人影のない片隅で、醤油のしみのついているテーブルに向いながら、伸子、素子、中館、川瀬の四人がおそい昼飯を終った。
 「ここのいいところは、ちょいと時間をはずすと、このとおりがらあきなことなんだ。
  食わせるものは御覧のとおり田舎くさいがね……」
 ベルリン生活のながい川瀬は、懐《ふところ》都合とそのときの気分で、月のうちの幾日かは、顔のきく、そして大してのみたくもないビールをのまなくてもすむこのときわへ食事に来ていた。
 ベルリンのたべもの店には、ビールか葡萄酒がつきもので、それをとらない伸子たちは、食事ごとに、料理の代以外の税金みたいなものを酒がわりにはらわせられるのだった。

 その日それから伸子たちは美術館へゆく予定だときくと、川瀬勇は、
 「丁度いいや。
  ね、きょう行っちまおう、どうだい?」
 大きい眼玉をうごかして、中館公一郎をかえりみた。
 「ああ、いいだろう」
 「なんのことなの?」

 二人の問答にすぐ好奇心を刺戟されたのは伸子だった。
 「あなたがたも、美術館に用があるの?」
 「そうじゃないんだが、どうせ君たち、ウンテル・デン・リンデンへ出るんだろう?」
 「ほかに行きようがあるんですか」
 素子がきいた。
 「やっぱり、あれが道順ですよ」

 柔かに説明する中館を見つめるようにして考えをまとめていた川瀬が、
 「君たち、いま金のもちあわせがあるかい?」
 おもに素子に向って云った。
 「たいしてもっちゃいないけど……なにさ」
 「君たちに、芝居の切符を買わせようと思うんだ。
  どうせ観る気でしょう」

 川瀬はそこでウンテル・デン・リンデン街のわきにあるプレイ・ガイドのような店のことをはなし、伸子たちがあらかじめ順序だてて、ベルリンにいる間、見たりきいたりしたいものの切符を買っておく方が便利だろうとすすめたのだった。
 「なるほどね、それもわるくないかもしれない」
 万更でもなさそうな素子の返事を、しっかりつかまえるまじめな口調で川瀬は、
 「こうみえてても、われわれはいそがしいんでね」
 と云った。

 「君たちにはせいぜい、いろいろ見ておいて貰いたいんだけれど、
  とてもくっついて歩いていられないんだ。
  おたがいに負担にならない方法がいいと思うんだ」
 「わたしたちは、
  はじめからなにも君たちの荷厄介になろうなんて気をもってやしないよ」
 「そりゃよくわかっているさ、だからね。
  妙案だろう?」
 川瀬はいくらか口をとがらして、大きな眼玉をなおつき出すように素子を見た。

 その拍子に、まじめくさっている川瀬の下瞼のあたりをちらりと掠めた笑いのかげがあった。
 伸子はそれに目をとめて、おや、と万事につけて川瀬のあい棒である中館公一郎を見た。
 例のとおりたださえ濃い眉の上に黒く丸く大きく眼鏡のふちを重ねた中館は、眼鏡がもちおもりして見える細おもてを、さりげなく窓の方へ向けて指の先でテーブルをたたいている。

 その中館の、表情をかえずにいる表情、というようなところにも何だか伸子をいたずらっぽい気持へ刺戟するようなものが感じられる。
 伸子は、
 「あら……なんなんだろう」
 まばたきをとめて、当てっこでもするように中館を見つめた。
 「なにがあるの?」
 「相談でしょう」
 芝居のせりふをいうときのような口元の動しかたで中館が答えた。
 自分たち二人分の勘定をはらったついでに、素子がテーブルのかげでこれから切符買いに行くために金をしらべはじめた。
 街頭に面して低く開いている窓から、ベルリンの初夏の軽い風が吹きこんで来て、その部屋のかすかな日本のにおいをかきたてる。

 「川瀬さん!」
 ずるいや、という感じで溢れる笑い声で、ほどなく伸子が川瀬をよんだ。
 「なに?」
 「わかったわ。
  これはわたしたちにとって妙案であるより以上に、
  川瀬勇にとっての妙案だったんでしょう?」
 「ふーん。
  そういうことになるかな」
 眉のあたりをうっすり赧らめたが、川瀬は青年らしくいくらか気取っているいつもの態度を崩さなかった。

 中館が、またせりふのように、
 「小細工というものは、とかく看破されがちだね」
 と云ったので、みんなが笑い出した。
 彼らのグループの間では公然のひとになっている愛人を、川瀬はどういう都合か伸子たちに紹介しなかった。
 伸子たちの方でもそれにはふれず、彼とつきあっているのだったが、川瀬はそのひとと過す夜の時間をつぶさないで、伸子たちにも不便をさせまいと、二人に前売切符を買わせておくという便法を思いついたにちがいなかった。

 金をしらべていて、三人の間の寸劇を知らなかった素子が、
 「そろそろ出かけましょうか」
 女もちの書類入の金具をピチンとしめて立ち上る仕度をした。
 そして四人は、もよりの駅からウンテル・デン・リンデン街まで地下鉄にのりこんだのであった。


        十

 数日たってゆくうちに、伸子は、素子と二人ぎりで行動できるように前もって切符の買ってあったことに、思いがけない便利を発見した。
 一方に、伸子のまたいとこである医学博士、木曜会の幹事である津山進治郎がいることから、ベルリンで伸子たちが動く軸が二つになった。
 木曜会で伸子が小講演したあと、素子と二人が誘われたセント・クララ病院とベルリンの未決監病舎の見学は、どちらも全く官僚的な視察だった。

 セント・クララ病院は婦人科専門で、レントゲン設備が完全なことと、その医療的効果の高いことで知られているということだった。
 二十人ばかりの男にたった二人の女がまじっている日本人の視察団一行に応対したのは、六十ばかりの言葉が明晰で快活な尼だった。
 糊のこわい純白の頭巾が血色よく健康そうな年とった女の顔をつつんでいて、黒衣の上に長く垂れている大きい金色の十字架を闊達に揺りながら、一行を案内し、説明する動作には、現実的な世間智と果断さがあった。

 いかにも尼僧病院らしく、レントゲン室の欄間も白い天井をのこして、白、水色、紫の装飾的なモザイックでかこまれていた。
 伸子たちは、素人らしくそういう外観のドイツ趣味にも興味を感じ、おのずからモスクワの病院を思いくらべて参観するのだったが、木曜会の医者たちは、専門がちがうのか、それともセント・クララ病院のレントゲン室が噂ほどでなかったのか、質問らしいまとまった質問をするひともなかった。

 ベルリンの未決監獄は、アルトモアブ街に、おそろしげな赤錆色の高壁をめぐらして建っていた。
 一行が案内されて、暗い螺旋《らせん》階段をのぼって行くと、明りとりの下窓から中庭が見おろせた。
 中庭が目にはいった瞬間、伸子は激しく心をつかれ、素子をつついた。
 あまり広くない中庭のぐるりに幅のせまいコンクリート道がついていた。
 真中に三本ばかり菩提樹が枝をしげらしている。
 その一本ずつを挾んで稲妻型に、これも人一人の歩く幅だけのコンクリート道がついている。

 その道の上に、同じように褐色のスカートにひろいエプロンをかけた十人たらずの女が一列になって歩いていた。
 伸子は男連中にまじってその窓のところを更にもう一階上へとのぼりつづけて行ったが、その光景は心にやきついた。
 伸子は小声で、
 「同じね、ローザの写真と」
 と素子にささやいた。

 ローザ・ルクセンブルグが投獄されていたとき、女看守に見はられながら散歩に出ているところをうつした写真をモスクワで見たことがあった。
 ローザは、エプロンをかけさせられていた。
 そして、散歩場は、その窓からちらりと見えた散歩場そっくりに、せまい歩道が樹のある内庭をまわっていた。
 病舎の見学と云っても、見学団の一行は、舎房の並んでいる廊下をゾロゾロとつっきったばかりだった。

 丁度、昼食の配ばられている時間で、伸子たちが廊下を通りすぎるとき、一人の雑役が小型のドラム罐のような型の入れものから、金じゃくしで、液体の多い食餌をアルミニュームの鉢へわけているときだった。
 灰色の囚人服に灰色の囚人帽をかぶった雑役は、水気の多いその食べものを、乱暴にバシャバシャという音をたててわけていた。
 その音は伸子に日本の汲取りのときの音を連想させた。

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