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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  65

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 しばらくして、ドアをノックするものがあった。
 それが、黒い髪の毛に黒い背広を着た、若いのに世なれた調子の黒川隆三だった。
 「やっぱり、おいででしたね、下で、電話に出る方はないが、
  鍵が来ていないっていうもんですから。
  いきなりお邪魔しました」

 黒川という客の来たことが素子にとっても局面打開のきっかけだった。
 仕方なくきのう着た白いブラウスを着た素子と伸子とは互同士では口をきかず、しかし黒川に対してはどっちもあたりまえに応対しながら、寝室のとなりの室で朝食をすました。
 やがて三人でホテルを出、伸子たちは約束のある服飾店へ、黒川は次に会う日どりをきめてわかれた。

 黒川は、二週間近くウィーンに滞在する伸子と素子とのために、下宿《パンシオン》をさがすことをすすめ、その仕事をひきうけた。
 ホテルを出て、明るい街頭を行きながら、伸子はそれとなく並んで歩いている素子のブラウスに目をやった。
 もういく度か洗われている素子の白絹のブラウスは、きついその純白さをおだやかな象牙色にくもらしているけれども、細いピンタックでかざられた胸のあたりにも、アイロンのきいているカラーにも、よごれらしいものは一つもなかった。

 モスクワから来れば、はじめてヨーロッパの都会らしいウィーンの通りを歩きながら、伸子は素子のブラウスがみっともないようには着古されていないことに安心した。
 同時に、ウィーンまで来たのに、まだ駒沢のころのように、或はモスクワぐらしのあるときに素子がそうであったように自分に対してこじれからまる素子の感情が伸子に苦しかった。

 これからの旅の先々では片言ながらどうしても伸子の英語で用を足してゆかなければならなかった。
 素子が自分の言葉の通用しないもどかしさと、伸子のうかつさとに癇をたかぶらしてきっかけがありさえすれば又けさのような場面が起るのかと思うと、伸子はその鞣細工品で、自分のために気の利いた小鞄を選びながら自分たちの旅行について銷沈した気分になるのだった。

 ウィーン風にいれられたコーヒーには、ふわふわと泡だってつめたいクリームが熱く芳しいコーヒーの上にのっている。
 その芳しいあつさと軽くとけるクリームの舌ざわりとをあんまりかきまぜず口にふくむ美味さが、特色だった。
 そういう飲みようを知らない伸子と素子とは、クリームをすっかりかきまわしたコーヒーの茶碗を前において、とあるカフェーにかけていた。

 空いている椅子の上に、買って来た、暗緑色とココア色の二つの婦人用カバンがおいてある。
 暗緑色で、角のまっしかくに張った方は素子のだった。
 こってりしたココア色で四隅に丸みのつけてあるのが伸子用だった。
 そのカフェーも、ウィーンの目抜き通りにあるカフェーがそうであるように、通りに向って低く苅りこんだ常緑樹の生垣《いけがき》の奥に白と赤の縞の日覆いをふり出している。

 初夏がくれば、ウィーンの人々は、オペラの舞台にでも出て来そうなその緑の低い生垣の陰で休みもするのだろう。
 五月もまだ早い季節で、英語を話している婦人づれを交えた人々はみんなカフェーの室内に席をとっていた。
 その室の、すっきりした銀色の押しぶちで枠づけられた壁の壁紙には、うす紅の地に目のさめるような朱ひといろで、大まかに東洋風を加味した花鳥が描かれていた。

 大胆で、思いきってあかぬけしたその壁紙の色彩と図案は、そこにとりつけられている浮彫焼ガラスの、扇を半ば開いて透明なガラスの上に繊細な変化をつけたようなランプ・シェードと、しっくり調和していた。
 おそろしい戦争が終り、ウィーンの飢餓時代がすぎた一九一八年このかた、ロシアはソヴェトになってしまったけれども、ヨーロッパのこっちはこれまでの貴族をなくしただけでそのまま小市民風の安定と安逸に落付こうと欲している人々の感情を反映し、またその気分にアッピールしてウィーンの最新流行は、室内装飾まで、このカフェーのようにネオ・ロココだった。

 そのカフェーの一隅で、伸子は途中で買った英字新聞をひろげた。
 二人がモスクワをたったのは四月二十九日だった。
 五月五日のその日まで、あしかけ七日、伸子たちは新聞からひきはなされていたわけだった。
 何心なく新聞を開いた伸子の眼が、おどろいたまばたきとともに、第一面に吸いよせられた。

 「ベルリン市危機を脱す。騒擾やや下火。」という大見出があった。
 「暴民《モップ》はウェディング・ノイケルン地区に制圧さる」そうサブ・タイトルがつけられている。
 ロイター通信五月四日附だった。
 見出しがセンセーショナルに扱われているのにくらべると、本文は簡単だった。

 五月一日の暴力的なメーデー行進にひきつづいて、ベルリン全市の各所におこった亢奮と騒擾は、この二日間に漸次鎮静されつつある。
 現在なお一部の暴民《モップ》はノイケルン地区で彼らの抵抗をつづけている。
 しかし、ウンテル・デン・リンデンその他中心地の街上は、外国人の通行安全である。
 そういう意味が報道されている。
 ウンテル・デン・リンデンは外国人の通行安全とあるのが、いかにもウィーンの英字新聞らしかった。

 ドイツは、世界から旅行者を吸収するために、入国手続を簡単にしてヴィザのいらない時期であった。
 「どういうことなのかしら、こんなことが出ているけれど」
 伸子は素子にその新聞をわたした。
 ドイツの共産党は合法的な政党として大きな組織をもっていた。
 K《カー》・P《ペー》・D《デー》という三つの字は、モスクワの生活をしている伸子たちにとっていつとはなしの親しみがあった。
 そのベルリンで、暴力的メーデーというのは、どういうことがおこったのだろう。
 その新聞記事につたわっている調子から、激しい武装衝突がおこったことだけはわかる。

 伸子と素子とは、ワルシャワで、ああいうせつないメーデーの断片とでもいう光景を目撃して来た。
 「比田礼二や中館公一郎、大丈夫かしら」
 伸子はあぶなっかしそうに、そう云った。
 ベルリン全市がただならぬ事態におかれたとすれば、日本の新聞記者である比田礼二や映画監督である中館公一郎にしても、その渦中にいるかもしれないと伸子は考えた。
 二人は、どちらも、この人々がベルリンからモスクワに来たときに伸子が会った人たちだった。

 二人がベルリンからモスクワへ来て見る気持の人々だということは、メーデーの事件がおこったとき、彼等がカーテンをひいてベルリンの自分の室にとじこもってはいまいと伸子に思わせるのだった。
 「何かあったらしいが、これだけじゃわからない」
 ニュースにおどろいて、その朝から二人の間にあった感情のわだかまりを忘れている伸子に、しずかに新聞をかえした。

 「いずれにしたって、あの連中は大丈夫さ。外国人だもの」
 「わからないわ。
  どっちもじっとしていそうもない人たちなんだもの」
 ワルシャワのあの広場のカフェーに逃げこんだときの女二人の自分たちの姿を伸子は思い浮べた。
 雨あがりの空に響いてパン、パン。
 と二つ鳴ったピストルのような音も。

 どういう意味で、ベルリンにそれほどの混乱がおこったのか、わけがわからないだけ、伸子はいろいろ不安に想像した。
 「きのうの新聞をぜひ見つけましょうよ、ね」
 カフェーを出ると、伸子はさっきのキオスクへとってかえした。
 その店には、前日のしかなかった。

 青く芽だっているリンデンの街路樹の下に佇んで、伸子は五月三日づけの外電をよんだ。
 ベルリン騒擾第二日という見出しで、数欄が埋められている。
 できるだけはやく、事件の輪廓をつかもうとして、伸子は自分の語学の許すかぎり、記事をはす読みした。
 ベルリンでメーデーの行進が禁止されていたことがわかった。
 それにかまわず、多数の婦人子供の加った十万人ばかりの労働者の行進がベルリン各所に行われて、警官隊との衝突をおこし、ウェディング、モアビイト、ノイケルンその他の労働者街では市街戦になった。
 警官隊は、大戦のときつかわなかった最新式の自動ピストルまでつかったとかかれている。

 ウェディングとノイケルンにバリケードが築かれた。
 二日の夜は附近の街燈が破壊され、真暗闇の中で、バリケードをはさんだ労働者と警官隊とが対峙した。
 夜半の二時十五分に、装甲自動車が到着して、遂にその明けがた、労働者がバリケードを放棄したまでが、夜じゅう歩きまわった記者の戦慄的なルポルタージュに描写されている。
 一日二日にかけて労働者側の死者二十数名。
 負傷者数百。
 そして千人を越す男女労働者少年が検挙されつつあるとあった。

 政府がベルリンのメーデー行進を禁止したという理由が、伸子にはまるでのみこめなかった。
 ドイツは共和国だのに。
 政府は社会民主党だのに。
 こんな風なら、ワルシャワのメーデーも、行進が禁じられていたのだったろうか。
 でもなぜ?
 いったいなぜ?
 メーデーに労働者がデモンストレートしてはいけないというわけがあるのだろう。

 不可解な気もちと、腹だたしさの加った不安とで伸子は、眉根と口もとをひきしめながら、その記事をよみ終り、あらましを素子に話した。
 「これだから、モスクワの新聞がないのは不便なのさ。
  何が何だかちっともわかりゃしない」
 もどかしそうに素子が云った。
 そう云いながら、さっきカバンやなにかの買物をした鞣細工店の前をまた通りすぎるとき、素子は、つとそのショウ・ウィンドウへよって行ってまたその中をのぞいた。


        三

 メーデーにおこったベルリン市の動乱は、五月五日ごろまでつづいた。
 政府は禁止したが、それを自分たちの権利としてメーデーの行進をしようとしたベルリンの労働者の大群を、武装警官隊が出動して殺傷したことは、ドイツじゅうの民衆をおこらしているらしかった。
 ハンブルグでジェネラル・ストライキがおこる模様だった。

 「メーデー事件公開調査委員会」というものが、ドイツの労働団体ばかりでなく、各方面の知識人もあつめて組織されようとしているらしかった。
 ウィーン発行の英字新聞だけを読んでいる伸子と素子とにとって、それらすべてのことがらしいとしかつかめなかった。
 その英字新聞は五月三日のベルリン市の状況を報道するのに、何より先に外国人はウンテル・デン・リンデンを全く安全に通行することができる、と書いたような性質の新聞であった。

 ハンブルグにジェネストがおこりかかっていることも、調査委員会が組織されたことも、その英字新聞は、直接ベルリンのメーデー事件に関係したことではないように、まるでそれぞれが独立したニュースであるかのように同じ頁のあっちこっちにばら撒いてあるのだった。
 伸子と素子とは、黒川隆三が世話してくれた下宿《パンシオン》の三階の陽あたりのいい窓の前におかれたテーブルのところで、ゆっくりそういう新聞紙に目をとおした。

 繁華なケルントナー・ストラッセからそう遠くない静かな横通りにあるその下宿《パンシオン》は、伸子たち女づれの旅行者にホテルぐらしとちがった質素なおちつきを与え、黒い仕着せの胸から白いエプロンをきちんとかけ、レースの頭飾りをつけた行儀のいい女中がパン、コーヒー、ウィンナ・ソーセージの朝飯の盆を運んで来たりするとき、伸子は明るいテーブルのところにかけていて、このウィーン暮しが二週間足らずで終るものだということを忘れがちな雰囲気につつまれた。

 ベデカ(有名な旅行案内書)一冊もっていず、金ももっていない伸子と素子とは、オペラや演劇シーズンの過ぎた五月のウィーンの市じゅうをきままに歩いて、いくつかの美術館を観た。
 リヒテンシュタイン美術館でルーベンスの「毛皮をまとえる女」を見ただけでも、伸子としては忘られない感銘だった。
 そこには、ベラスケスの白と桃色と灰色と黒との見事に古びた王女像もあった。

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