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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  64

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 いるにきまっていた。
 たとえば、ここのどの屋敷の一つかがロスチャイルド一門に属すものであったとしたら、近所の召使いたちは何と噂するだろう。
 うちのお隣りはロスチャイルドの御親戚なんですよ。

 そう云わないだろうか。
 そういう召使自身はポーランド人であり、旧市街《スタールイ・ゴーロド》へは足もふみ入れたことがない、ということを誇りとしていることもあり得るのだ。
 そのようにあり得る現実を伸子は嫌悪した。

 馬車は馬の足並みにまかせてゆっくりひかれてゆく。
 美しい糸杉の生垣の彼方に黄色いイギリス水仙の花が咲きみだれている庭があった。
 その美しい糸杉の生垣も早咲きのイギリス水仙の花も、繊細な唐草をうち出した鉄の門扉をとおして、往来から見えるのだった。

 まるで、ここにある人生そのものを説明しているようだ、と伸子は思った。
 その人生は、旧市街《スタールイ・ゴーロド》のくさい建物につめこまれている夥《おびただ》しい人生とはちがうし、伸子が名を知らないあの陰気な広場へ赤旗をもって行進して来た人々の人生ともちがう。
 そして、糸杉と黄水仙のある人生は、それが無数の他の人生とちがうことについて満足している。

 伸子はかたわらの素子を見た。
 素子は火をつけたタバコを片手にもち、手袋をぬいだもう片方の指さきで、舌のさきについたタバコの粉をとりながら、馬車の上から、とりとめのない視線を過ぎてゆく景色の上においている。
 焦点のぼやけたその表情と、むっつりしてあんまりものも云わないところをみれば、素子も特別気が晴れていないのだ。

 ゆうべホテルの食堂でモスクワ馴れした自分の目をみはらせたワルシャワのパンの白さ。
 それが、象徴的に伸子に思い浮んだ。
 パンはあんなに白い。
 パンのその白さを反対の暗さの方から伸子に思い出させるようなものがワルシャワの生活とその市街の瞥見のうちにあった。

 メーデーさえ何だか底なしのどこかへ吸いこまれてしまって、しかも、それについては、知っているものしか知っていてはいけないとでもいうような。
 ワルシャワの街そのものが秘密をもっているような感じだった。

 折から、伸子たちをのせた馬車が、とある四辻のこぢんまりした広場めいた場所にさしかかった。
 その辺一帯の公園住宅地のそこに、また改めて装飾的な円形小花園をつくり、伸子たちの乗っている馬車の上からその中央に置かれている大きい大理石の塊《マッス》の側面が見えた。

 大理石の塊《マッス》から誰かの記念像が彫り出されている。
 記念像は下町に向ってなだらかにのびている大通りにその正面を向けて建てられているのだった。
 「ショパンの記念像です。
  有名なポーランドの音楽家のショパンの像です」
 御者は、御者台の上で体をひねってうしろの座席の伸子たちにそう説明しながら、ゆっくり手綱《たづな》をさばき、その記念像の正面へ馬車をまわしかけた。

 「どうする?」
 少しあわてたような顔で素子が伸子を見た。
 「見るかい?」
 「いい。いい」
 伸子もせかついてことわった。
 この首府の名物ショパンの像と云ったものを見せられたところで、伸子がワルシャワの街から受けた印象がどうなろうとも思えなかった。

 「まっすぐゆきましょうよ」
 素子は御者に向って片手を否定的な身ぶりでふりながら、
 「ハラショー。ハラショー。ニェ・ナーダ(よしよし、いらないよ)」
 と云った。
 「プリャーモ・パイェージチェ(まっすぐ行きなさい)」
 うすよごれた馬車は、伸子と素子とをのせてそのまま下町を見晴らす大きな坂へさしかかった。
 かすかにあたりをこめはじめた夕靄と、薄い雲の彼方の夕映えにつつまれたワルシャワの市街にそのとき一斉に灯がともった。


        二

 ヨーロッパ大戦の後、オーストリアの伝統を支配していたハップスブルグ家の華美な権威がくずれて、オーストリアは共和国になった。
 首府ウィーンをかこんで、そこからとれる農作物では人口の必要をみたしてゆくことのできないほど狭い土地が、共和国のために残された。

 外国資本があらゆる部面に入りこんでいた。
 それでも、ウィーンは、さきごろまでヨーロッパにおける小パリ・ヴィエンナと呼ばれていた都市の特色をすてまいとしていて、大通りに並んでいる店々は、その店飾りにもよその国の都会では見られない趣を出そうと努力している。

 伸子と素子とは、ウィーンまで来たらいかにも五月らしくなったきららかな陽を浴びながら、店々がその陽にきれいに輝やいている大通りを歩いていた。
 婦人靴屋のショウ・ウィンドウには、ウィーンの流行らしく、おとなしい肌色の皮にチョコレート色をあしらった典雅な靴が、そのはき心地よさで誘うようにガラスのしゃれた台の上に軽く飾られている。

 大体ウィーンはヨーロッパでも有名な鞣細工の都だった。
 目抜きの通りのところどころに、用心ぶかく日よけをおろして、その奥に色彩のゆたかなウィーン金唐皮《きんからかわ》のハンド・バッグやシガレット・ケースを売っている店がある。
 そういうものに興味をもっている素子は、鞣細工店を見つけると、必ずその店先にたちどまってショウ・ウィンドウをのぞいた。

 ウィーンで伸子と素子とは、これから先の旅行のためにいくらか身なりをととのえる必要があった。
 素子はここでそういう用をはたすひまに、ちょっとした身のまわり品を入れる気のきいたカバンと、婦人用のシガレット・ケースを買おうとしている。
 気に入った品があったにしても素子は、決して、はじめてそれを見つけた店で買ってしまわなかった。
 ホテルを出てウィーンの街を歩くにつれ、目につく鞣細工品の店のあれからこれへと丹念に飾窓を見くらべた。

 そのあげくきょうは、伸子たちの服をこしらえている服飾店のある大通りから一つ曲った横通りで目ぼしをつけておいた一軒の店でその買物をしようというのだった。
 伸子は、素子とならんで賑やかな目抜通りを歩いていた。
 その辺の店ではどこでも英語が通じた。
 それはウィーンへはこの頃アメリカの客がふえていることを物語っている。

 伸子は沈んだ顔つきで午前十一時のウィーンの街を歩いていた。
 何を売るのか二本の角を金色に塗られた白い山羊が、頸につられた赤い鈴をこまかく鳴らしながら、クリーム色に塗られた小さな箱車をひいて通ってゆく。
 トラックが通り、そうかと思うと蹄の大きい二頭の馬にひかれた荷車が通ってゆく。
 頻繁で多様なそれらの車馬の交通は、街の騒音を小味に、賑やかに、複雑にしている。
 こうしてウィーンの街はどっさりの通行人にみたされて繁昌しているように見える。

 だけれども、こんなに店があり、こんなに使いきれないのがわかっているほど品物があり、しかもどの店の品も真新しく飾りつけられているのを眺めて歩いていると、伸子はウィーンがどんなに商売のための商売に気をつかっているかということを感じずにいられなかった。
 ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味、小共和国の首府としての気軽さをもちながら、その程よい貴族趣味と華麗で旅行者をよろこばせるように工夫されている。

 オペラと芝居のシーズンがすんでしまっているウィーンでも、ウィーンという名そのものにシュトラウスのワルツが余韻をひいているようだった。
 鞣細工品の店頭の椅子にかけて、素子は自分たちの前へ並べられた男もちの財布の一つを手にとり、しかつめらしくそのにおいをかいでいる。

 店員が、
 「これはすばらしい品です。
  かいで御覧なさい。
  いいにおいがしていましょう?
  すぐわかります」
 と云ったからだった。
 伸子は、気のりのしない表情で、皮財布のにおいをかいでいる素子の様子を見ていた。

 伸子は、そんなにして買物をたのしんでいる素子に対して、傷つけられた自分の気持を恢復できず、離れた気分でいるのだった。
 けさ、ホテルで、素子はどうしてあんなに伸子をおこらなければならなかったのだろう。
 自分の着がえのブラウスが、手まわりのスーツ・ケースに入っていなかったからと云って。

 ベッドのわきで着がえをはじめた素子は、さきに着てしまっていた伸子に、スーツ・ケースからブラウスを出すことをたのんだ。
 伸子はスーツ・ケースの下まで見た。
 が、素子のいう白いクレープ・デシンのブラウスは見当らなかった。
 伸子は、うっかりした調子で、
 「どうしたのかしら、……ないわ」
 と云った。

 「ないことあるもんか。
  あれはたった一枚のましなんだから、入れなかったはずありゃしない。
  見なさい」
 「ほんとに入っていないのよ……どうしたのかしら」
 手ごろなスーツ・ケースが伸子の分一つしかなくて、その一つに、素子のと伸子のと、二人ぶんの手まわりを入れて来ているのだった。
 「ぶこがつめたんじゃないか」
 まだカーテンをあけず、電燈にてらされている寝室の中で、スリップの上にスカートだけをつけた立ち姿の素子が、こわい眼つきと声とで、

 「出してくれ!」
 伸子に命令した。
 「わたしが、出さなかったはずは絶対にないんだ。
  ほかに着るものがないのに、忘れる奴があるもんか。
  ぶこの責任だ。
  つめたのは君だもの。
  どっからでも、出してくれ」
 どっからでも出せと云ったって、伸子と素子と二人で、そのたった一つのスーツ・ケースしかもっていないのに。

 「無理よ。そんなこと」
 伸子は、自分のベッドの上で、ひっくりかえしたスーツ・ケースのなかみをまたもとどおりにしまいながら云った。
 「二人分を一つに入れているのがわるかったんだわ」
 「出してくれ!」
 素子は腹だちで顎のあたりがねじれたような顔つきになり、寝台に近づいて来て、その上で片づけものをしている伸子の腕を服の上からぎゅっとつかんだ。

 「あのブラウスがなくて何を着たらいいんだ」
 「…………」
 いっしょにつめるように素子が揃えて出したすべてのものを、スーツ・ケースに入れたとしか伸子には思えないのだった。
 伸子は途方にくれた。
 「もしかしたら、衣裳ダンスにかけっぱなしで来たんじゃないのかしら。
  着て来ようとでも思って」

 「そんなことないったら!」
 痛いように伸子の腕をつかんでゆすぶりながら、
 「自分のものは何を忘れて来た?
  え?
  何一つ忘れたものなんかないじゃないか。
  わたしだけ、よごれくさったものを着て歩かなくちゃならないなんて!」
 くいつくように睨んでそういう素子の顔に赤みがさして来て眼のなかに涙がわいた。

 「わたしのことなんかどうでもいいと思っている証拠だ。
  いいよ!
  いつまでだってこうしてここにいてやるから!」
 あのとき、ウィーンの公使館からきいて来たと云って、黒川隆三という青年が二人を訪ねて来なかったら、素子はほんとに一日ホテルの寝室から出なかったかもしれなかった。

 二つのベッドの間のテーブルの上で電話のベルが鳴ったとき、素子は、そっちを見むきもしないで、伸子の腕をつかんでいた。
 自然、伸子もその場から動けず、答えてのない電話のベルは、重いカーテンで朝の光を遮られた寝室のなかで、三四へんけたたましく鳴った。
 やがてベルがやんだ。

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