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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  63

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 「理由があるもんか。なぜ肥料《こやし》が臭いかには、議論の余地はない。
  肥料は臭い、ただそれっきりだ。
  僕は鼻をつまんで逃げ出すばかりさ。」
 彼は憤然として立去った。
 そして冷たい空気を呼吸しながら、大胯《おおまた》に歩き回った。

 しかし彼女は、一遍も、二遍も、十遍も、同じことをやりだした。
 彼の本心をいやがらせ傷つけるようなものなら、なんでも議論のうちに取り入れた。
 それはまったく、人をからかって面白がる神経衰弱症の娘の、不健全な戯れにすぎないものだと、彼は思っていた。

 彼は肩をそびやかし、あるいは聞かないふうをした。
 彼女の言葉を真面目《まじめ》にはとらなかった。
 でもやはり、彼女を投げ捨ててしまいたいような気になることもあった。
 なぜなら、神経衰弱症と神経衰弱患者とは、最も彼の趣味に合わなかったからである。

 しかし彼は十分も彼女と離れていれば、もうすっかり不快なことを忘れてしまうのだった。
 そして新しい希望と幻影とをいだいて、アーダのところへもどっていった。
 彼は彼女を愛していた。
 愛は不断の信仰の行為である。
 神が存在しようとすまいと、そんなことはほとんど構わない。
 信ずるから信ずるのだ。
 愛するから愛するのだ。
 多くの理由を要しない!……

 クリストフがフォーゲル一家の者と喧嘩《けんか》してからは、その同じ家に住んでることができなくなったので、ルイザは余儀なく、息子《むすこ》と自分とのために他の住居を捜して引移った。

 ある日、クリストフの末弟のエルンストが、ふいに家へ帰って来た。
 だいぶ前から消息不明になっていたのだった。
 何かをやるたびごとに、相次いで追い出されて、なんらの職をももっていなかった。財
 布は空《から》であり、健康は害されていた。
 それで彼は、いったん古巣へ立ちもどって、新たに出直すがいいと考えたのだった。

 エルンストは、二人の兄とはどちらとも、仲が悪くなかった。
 二人からあまり敬重されてはいず、自分でもそれを知っていた。
 しかしそんなことはどうでもいいことだったので、別に恨みもしなかった。
 二人もまた彼を憎んではいなかった。

 憎んでも無駄だったろう。
 どんなことを言ってやっても、皆彼からすべり落ちて少しも刃が立たなかった。
 彼は媚《こび》を含んだ美しい眼で微笑《ほほえ》み、つとめて悔悟の様子を装い、他のことを考え、首肯し、感謝し、そしてしまいにはいつも、兄のどちらかから金をしぼり取っていた。

 クリストフは心ならずも、この道化た愛敬者に愛情をいだいていた。
 彼の顔だちは、クリストフと同じく、否より以上に、父のメルキオルに似ていた。
 クリストフと同様に背が高く頑丈《がんじょう》であって、整った顔つき、淡懐な様子、澄んだ眼、真直な鼻、にこやかな口、美しい歯、愛想のいい態度、をもっていた。
 クリストフは彼を見ると、心が解けてしまって、前から用意しておいた小言も半分しか言えなかった。

 自分と同じ血を分け、少くとも容姿の点では自分の名誉となる、その美しい少年にたいして、クリストフは本来、一種親愛の情を感じていた。
 悪い奴だとは思っていなかった。
 それにエルンストは決して馬鹿ではなかった。
 教養はなかったが、才智がないではなかった。
 精神的な事柄に興味を覚え得ないでもなかった。

 音楽を聞くと愉快を感じていた。
 兄の音楽を理解してはいなかったが、それを物珍しそうに聴《き》いていた。
 クリストフは身内の者の同情に甘やかされたことがなかったので、自分の音楽会にときおり弟の姿を見つけると喜んでいた。

 しかしエルンストの主な才能は、二人の兄の性質を知りぬいてることと、二人を巧みにあやなすこととであった。
 クリストフはエルンストの利己心と冷淡とを知り、エルンストが必要な時にしか母や自分のことを考えないと知っていても、いつもその愛情を含んだ素振りに陥れられて、何事でも拒むことは滅多になかった。

 クリストフは彼の方を、も一人の弟のロドルフよりもずっと好んでいた。
 ロドルフは端正謹直で、事務に勉励し、徳義心が強く、金を求めることもなく、また金を与えることもなく、毎日曜日には几帳面《きちょうめん》に母に会いに来、一時間留って、自分のことばかりしゃべり、勝手な熱を吹き、自分の家やまた自分に関することはなんでも自慢をし、他人のことは尋ねもせず、また興味も覚えず、そして時間が鳴ると、義務を果したことに満足して、立去ってゆくのであった。

 こんな人物をこそクリストフは我慢ができなかった。
 ロドルフが来る時間には、外出するようにしていた。
 ロドルフはクリストフをねたんでいた。
 彼は芸術家をすべて軽蔑《けいべつ》していて、クリストフの成功を苦々しく思っていた。

 それでも彼は、自分の出入する商人間におけるちょっとした評判を、利用せずにはおかなかった。
 しかしかつて、母にもクリストフにも、それを一言ももらしたことがなかった。
 クリストフの成功を知らないようなふうをしていた。
 それに引代え、クリストフに起こった不快な出来事は、些細《ささい》なことまでも皆知っていた。

 クリストフはそういう下らなさを軽蔑して、さらに気づかないふうを装っていた。
 しかし彼がもし知ったら平気でおられなかったろうことであるが、そして実際思ってもみなかったことであるが、彼に不利なロドルフの知識の一部分は、エルンストから来たものであった。
 この狡猾《こうかつ》な少年は、クリストフとロドルフとの違いをよく見分けていた。
 もちろん、クリストフのすぐれてることはよく認めていたし、彼の廉潔さにたいして多少皮肉な一種の同情さえいだいてるようだった。
 しかし彼はそれを利用することをはばからなかった。
 また、ロドルフの悪い感情を軽蔑《けいべつ》しながらも、それに卑屈にも乗じていた。

 その虚栄心や嫉妬《しっと》心に諛《こ》び、その冷遇をおとなしく甘受し、町の醜聞を、ことにクリストフに関する醜聞を、一々告げ知らした――そんな話なら彼はいつでも不思議なほどよく知っていた。
 そして彼はまんまと目的を達した。
 ロドルフは吝嗇《りんしょく》にもかかわらず、クリストフと同様に、エルンストから騙《だま》し取られていた。
 かくてエルンストは、公平に二人を利用し愚弄《ぐろう》していた。また二人とも彼を愛していた。

 エルンストは日ごろの狡猾にもかかわらず、母のところへ姿を現わした時には気の毒な様子をしていた。
 彼はミュンヘンからやって来たのだった。
 そこで彼は最後の地位を見つけ出したが例のとおりすぐに追い払われてしまった。
 篠《しの》つく雨に打たれたり、どことも知れぬ所に臥《ふ》したりしながら、大半の道程《みちのり》を歩かなければならなかった。
 泥《どろ》にまみれ、着物は裂け、乞食《こじき》のようなふうをし、また痛々しい咳《せき》をしていた。
 途中で悪い気管支炎にかかったのである。

 彼がはいって来るのを見ると、ルイザは心転倒してしまい、クリストフは感動して駆け寄った。
 エルンストは涙もろかったし、その場の効果に乗じないではおかなかった。
 そして皆が感情に駆られた。
 三人ともたがいに抱《だ》き合って泣いた。

 クリストフは自分の室を与えた。
 寝床をあたためられ、病人はそこに寝かされたが、もう死にかけてるかと思われた。
 ルイザとクリストフとは、その枕頭《ちんとう》につき添って、交替に看護をした。
 医者、薬剤、室内の十分な火、特別の食物、などが必要だった。

 その次にはまた、足から頭までの服装《みなり》を心配してやらなければならなかった。
 シャツ、靴《くつ》、服、すっかり新しくしてやらなければならなかった。
 エルンストはされるままに任していた。
 ルイザとクリストフとは、その費用を償うために、血の汗を流して働いた。

 二人はその当座非常に困窮していた。
 新たに家具を整えたし、住居は前と同様に不便でありながら借賃が高かったし、クリストフには弟子が減っていたし、費用はかさんでいた。
 辛うじてやりくりをしてるだけだった。
 二人はできるかぎりの手段を尽した。

 もちろんクリストフは、自分よりもよくエルンストを助け得るような身分にあるロドルフに、頼み込むこともできるはずだった。
 しかし彼はそうしたくなかった。
 独力で弟を救わなければ名誉にかかわると考えていた。
 自分に救う責任があると思っていた、兄としての資格から言って――またクリストフたるべきゆえんから言っても。

 彼は恥ずかしさに顔を赤らめながら、二週間前には憤然として拒絶した仕事を――ある富裕《ふゆう》な匿名の好事家があって、楽曲を一つ買い取って自分の名前で発表したいというのを、その仲介者がクリストフのところに申込んできたのであったが、それを、こちらから引受けて頼みに行かなければならなかった。
 ルイザは日当で雇われていって、衣類を繕った。
 二人ともたがいに犠牲を隠し合っていた。
 家へもって帰る金については、嘘《うそ》を言い合っていた。

 エルンストは病後に、暖炉のすみにうずくまりながら、ある日、激しい咳の間々に、多少の借金があることをうち明けた。
 でそれも支払われた。
 だれも彼に小言一つ言わなかった。
 病人にたいして、悔悟してもどって来た放蕩息子《ほうとうむすこ》にたいして、小言をいうのは親切な処置とは言えないのだったから。

 そしてエルンストは、艱難《かんなん》のために人が変ったかと思われた。
 彼は涙声で過去の過《あやま》ちを述べた。
 ルイザは彼を抱擁しながら、もうそんなことを考えてくれるなと頼んだ。
 彼は元来甘えっ子だった。
 愛情をぶちまけてはいつも母に取り入っていた。

 昔クリストフはそれを多少ねたんだものだった。
 しかし今では、最も年下で最も弱い子がまた最も愛せられるのを、当然だと思っていた。
 彼自身も、たいして年齢が違わないにもかかわらず、エルンストを弟というよりもむしろ、ほとんど息子のように見なしていた。
 エルンストは彼に非常な尊敬の念を示していた。

 時には、クリストフが負担してる重荷のこと、金の不自由を忍んでること……などをそれとなく言い出すこともあった。
 しかしクリストフは言葉をつづけさせなかった。
 エルンストは卑下したやさしい眼つきで、ただそれを認定するだけにした。
 彼はクリストフが与える助言に賛成した。
 健康が回復したら、生活を一変して、真面目《まじめ》に働くつもりでいるらしかった。

 彼は回復しかけていた。
 しかし予後は長かった。
 その濫用された身体には養生が肝要だと、医者は明言した。
 それで彼は引きつづいて、母のもとにとどまり、クリストフと床を分ち、兄がかせぎ出してくれるパンや、ルイザが工夫してこしらえてくれるちょっとした御馳走《ごちそう》を、うまそうに食べていた。

 立去るなどとは口にも出さなかった。
 ルイザとクリストフも、そのことを彼に言わなかった。
 彼らは、かわいい息子《むすこ》を、かわいい弟を、見出してたいへんうれしがっていた。

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