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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  59

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 七月一日マルセーユ着という多計代からの電報をうけとってから、日に一度伸子の病室へ来る素子の来かたもおのずから内容がかわった。
 病人である伸子の気分もかわって、二人はこれまでのようにミカンをたべながらのんびりしているというような時間がなくなった。

 伸子と素子とは長椅子へ並んでかけた膝の上にヨーロッパ地図をひろげて手帳のうしろについているカレンダーを見くらべながら、モスクワからパリまでの道順を相談した。
 ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつの日数を滞在するかという予定をたてた。

 素子はそれとなしに河井夫人に相談して、二人の最少限の服装はでずいらずのウィーンでととのえるのがよかろうということになった。
 ウィーンからプラーグ。
 そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。

 それにしても、伸子がいつ退院できるものか。
 うちへは、今月末までに退院と電報をうってやったけれども、それは退院の見こみ、または伸子たちの予想というだけで、フロムゴリド教授はその点について、はっきりしたことは何も言っていなかった。

 ただ、教授の話しぶりから伸子自身が、内科的な治療としてはするべきことがすべて試みられたこと、フロムゴリド教授は現在肝臓のはれのひききらない状態のまま伸子がだんだん動けるように訓練していること。
 しかしそれは快癒の状態ではないから、外科に診察をうけさせようと思っていることなどを判断しているのだった。

 そして、自分としてはかたく心をきめているのだった。
 よしんば不十分な癒りかたであるにしても、白くて、丸くすべすべした自分の脇腹から年じゅう胆汁を流す一本のゴム管をぶら下げて生きていなければならなくなるような手術は断じて受けないと。
 伸子は不具のような体になるのはいやだった。
 ブラウスの下にゴム管をさげている女の姿を想像すると、伸子はそこに遮断され、限定された未来を感じた。

 伸子は未来をそっくり未来のまま欲しているのだった。
 三月の雪どけがはじまって、冬じゅう静かな雪あかりにみたされていた伸子の病室の壁にも、雪どけでどこかにできた水たまりから反射するキラキラした光りがおどるようになった。

 そういう一日、伸子はショールをかぶり、毛布に包まれ、運搬車にのせられて、病室からはなれた構内にある外科へ診察をうけに運ばれた。
 ワーレンキ(長防寒靴)をはいたナターシャが看護服の上から外套を着、プラトークをかぶってついて来た。
 適当な温度にあたためられたひろい手術室で、伸子は着ているものをすっかりぬがされた。

 そして、手術台の上によこたえられた。
 マスクをつけていず、手袋をはめていないというだけで、すっかり手術者のなりをした三人の医者が、つやのいい体を裸でころがされ、きまりのわるさと厳粛さとまじりあった表情で口をむすんでいる手術台の上の伸子をかこんだ。

 そして、だまって診察しはじめた。
 内科の医者がやるとおり、肝臓の上を押したり、それを痛がって伸子が顔をしかめると、
 「痛む(ボーリノ)」
 と仲間同士でつぶやいたりしながら。
 いくたびも同じ調べかたをしてから、三人のうちの一番年長で髭の剃りあとの鮮やかな医者が、
 「さて…………」
 手術台から一歩どいた。

 手術室づきの看護婦の方へ伸子に着せるようにと合図しながら、
 「あなたは手術をのぞんでいますか?」
 伸子は、手術台の上におきあがり看護婦のきせる病衣に腕をとおしながら断髪の頭をもたげてその医者を仰ぎ見、ひとこと、ひとことをあいての理解にうちこもうとするように云った。
 「ヤー・ソフセム・ニェ・ハチュー(わたしは全然のぞんでいません)」

 みんなの顔に瞬間微笑がうかんだ。
 主任医師が、ちょっと考えた末、
 「あなたに手術の必要はありません」
 そう結論した。
 医者の一人はそれだけきき終ると手術室のドアの方へ去りかけた。
 「フロムゴリド教授はあなたをよく治療しました。
  あんまり脂《あぶら》っこいものを食べなさるな。
  ウォツカは一滴もいけませんよ。
  いいですね」

 また運搬車にのせられて、菩提樹並木の間の雪どけ道を内科病室の方へもどるとき、伸子は、
 「ナターシャ、どんなにわたしがうれしいか察して頂戴!」
 と言った。
 「わたしは手術を恐れていたんだもの」
 「まったくですよ」
 大きなワーレンキとふくらんだ体つきとでロシア人形のようなかっこうのナターシャは、折から行手にあらわれた水たまりをよけながら内科の看護婦らしく同意した。
 「わたしも手術はきらいです」

 天気のいい午前十一時ごろで、大気はつめたくひきしまっているけれど、三月の日光は晴れやかにその爽《さわ》やかな大気を射とおし、伸子が運搬車で押されて行くふみつけ道のあたりのしずけさのうちには、樹の枝々からとけた雪が、地面にまだ厚く残っている雪の上へしたたり落ちるかすかなざわめきがあった。
 伸子はまる二ヵ月ぶりで外気にふれたのだった。
 手術をしないでいいときまって、しんから安心した伸子の体にも心にもよろこびがあふれた。

 長い冬ごもりからとかれた動物が春の第一日の外出で、自分の巣をもの珍しげに勿体《もったい》ぶって外から眺めるような感情で、伸子は菩提樹並木の彼方の平屋建木造の内科病室を眺めやった。
 その午後、病室にあらわれた素子を見るなり伸子は、
 「万歳よ!」
 握りあわせた両手をすとんとベッドのかけものの上へうちおろしながら告げた。
 「悪魔退散よ!
  手術しないでいいときまったことよ」
 そして、上機嫌のおしゃべりで、伸子はけさ外科へ診察のため運搬車にのせられて出かけて行ったことや、久しぶりの外気がどんなに爽やかで気持よかったかということや、雪どけの道で、どんなに多くの悪魔の黒い穴を見つけたかという話をした。

 外科から病室へ帰って来る途中の菩提樹並木のところで、伸子は人のふまない白い雪の上に、いくつもいくつも泥のしぶきでまわりの雪のよごれた小さい黒い穴ぼこができているのを発見した。
 樹の枝々からしたたり落ちる雪どけ水が点々と地べたの雪をうがってつくる穴ぼこだった。
 モスクワに春の来たしるし、季節の足跡として、去年の早春も並木道《ブリワール》を散歩するたびに伸子の目についた。

 いよいよ手術しなくてよくなったうれしさでいたずらっぽくなった伸子は、爽快な外気の中を運搬車にねたままで押されてゆきながら道ばたの菩提樹の下にあらわれるそのよごれた小さい黒い穴を、あんこのついた日本の子供の口のまわりのようだと思った。
 ひとり笑いたいような気持で眺めて通ってゆくうちに連想がひろがって、伸子はチョルト・ポヴェリ(悪魔にさらわれろ!)と、すぎさった手術に向って心の内で陽気にルガーチ(罵り)しながら、ひとり笑いで唇をゆるめた。

 ロシアの人が言うように、一つの黒い小さい穴から一匹の悪魔《チョルト》が消えるものなら、何てどっさりの悪魔が、ここいら辺の雪の上についた穴から消えたことだろう。
 何ぞというとチョルトという言葉をつかって悪態をつくロシアの大人や子供が、冬じゅうめばりをした家の中ではき出した大小無数のチョルトが、春になって開いた戸口からみんなにげ出して、やれやれと穴へもぐったかと思うと伸子はひどく滑稽だった。

 「わたしのロシア語じゃ、とてもこんなおかしさは話せないしさ。
  それこそまったくチョルトだと思っておかしくって……」
 伸子は安心を笑いにとかし出して素子とふざけた。


        十七

 手術しなくていいときまって、伸子はなるたけ一日のうちの長い時間をベッドから出て、起きている稽古をはじめた。
 三月中に退院することについて現実のよりどころができた。
 フランスでうちのものたちと合流するという計画も実際的に考えられて来た。
 三月十四日に間に合うように和一郎と小枝との結婚を祝う電報をうったなかに伸子はハハノケンコウノタメアメリカケイユデコラレヨと云ってやった。

 糖尿病からのアセモがひどくて、毎年夏は東京にもいられない多計代が、どうして真夏の欧州航路で印度洋の暑熱をとおって来る気になっているのだろう。
 伸子はだんだん考えを実際的にひろげて行って、それを無謀だと思った。
 うちのものが少くとも恙《つつが》なく旅をたのしむには多計代の健康が第一であり、そのために金はかかっても、涼しい太平洋の北方航路をとり、アメリカも北方鉄道でぬけて大西洋からフランスへ来た方が、安全と思われるのだった。

 日本ではきょう和一郎と小枝の結婚式があげられたという夜、伸子は何とはなし眠りにくくて、九時すぎても病室のあかりを消さずにいた。
 かれこれ十時になろうとするころだった。
 伸子の病室のドアがあいて、よほど前に一ぺん見たことのある女の助医が入って来た。
 看護婦とフロムゴリド教授の助手であるボリスとのちょうど中間のような地位で、伸子が入院して間もなく回診について来たことのある女助医だった。

 「こんばんは。
  いかがですか?」
 伸子が名前を知らない女助医は、ずっと伸子のベッドのそばへよって来た。
 「久しくお会いしませんでしたね。
  もうほとんど恢復しなすったんでしょう?」
 この前みたときと同じ四角い乾いた顔つきで、彼女は愛嬌よくしゃべりながら、伸子を見たりベッドの枕もとのテーブルの上へ眼を走らせたりした。

 「今晩、わたしは当直なんです。
  あなたのことを思い出しましてね、よし、ひとつあの気持のいい日本の御婦人を、
  見舞って来ようと思いついたんです」
 彼女の来た時間も、また彼女のいうこともとってつけたように感じながら伸子は、
 「ありがとう」
 と答えた。

 「やっとそろそろ歩きはじめました。
  もう結構永いことねたきりだったけれど」
 「おめでとう」
 女助医は何だかおちつかない風で病室のなかをひとわたり見まわし、
 「ちょいとかけていいですか」
 ときいた。
 「どうぞ」

 伸子は、病室へ来たものは誰でもそうするようにその女助医もむこうの壁ぎわにおかれている長椅子にかけるものと思った。
 ところが、彼女は伸子が思ってもいなかったなれなれしさで、いきなり伸子がねているベッドの脇へはすかいに腰をおろした。
 伸子は思わずかけものの下で少し体を横へずらせた。
 女助医は、伸子がその表情をかくそうともしないで迷惑がっているのに一向かまわず、夜の十時の患者の室がまるで非番の日曜日の公園のベンチででもあるかのように、
 「あなた、作家でしたね、そうでしたね」
 と言いだした。

 「ええ」
 伸子は短く答えた。
 「どんなものをお書きなさるの?
  ロマン?
  それともラススカーズ(短篇)?
  ああ、わたしは文学がすきですよ。何てどっさり読むでしょう!」
 だまっている伸子に、彼女はくりかえしてきいた。
 「ね、何をおかきなさるの?」
 「小説(ポーヴェスティ)です」
 「すばらしいこと!
  ロシア語でかかれないのはほんとに残念です。
  本になっていますか」

 「わたしはもう幾冊かの本を出版しています」
 だが、一体何のためにこういうばからしい会話をしていなければならないのだろう。
 伸子には訳がわからなくなった。
 彼女が伸子を迷惑がらしているということをはっきり知らすために、伸子は、
 「私に幾冊本があろうと、あなたには同じことです。
  残念ながらあなたは読めないんだから」
 そう言った。
 「さあ、もうそろそろねる時間です」

 そして、伸子がベッドの中で寝がえりをうちそうにすると、女助医はどうしたのか、
 「もうちょっと! 可愛いひと!(ミヌートチク! ミーラヤ!)」
 というなり、ベッドのはじに斜《はす》かいにかけていた体を、半分伸子の上へおおいかぶせるようにして右手を伸子の体のあっち側についた。
 「きいて下さい、わたしはゆうべ結婚したんです」
 その瞬間伸子は女助医が酔っぱらっているのかと思った。
 ウィシュラ・ザームジュ。
 嫁に行った。
 そうだとしてこのひとは何故伸子に知らさなければならないのだろう。

 伸子は枕の上でできるだけ頭と顎をうしろへひき、きめの荒い四角いどっちかというと醜い女助医の顔から自分の顔を遠のけるようにした。
 「あなた、旦那さんがありますか?」
 不機嫌に伸子は、
 「わたしに旦那さんがあるんなら、どうぞ見つけ出して下さい」
 と云って、片手で、
 「窮屈(トゥーゴ)」
 と自分の上へかぶさりかかっている女助医の白い上っぱりの腕をおしのけるようにした。

 そう大柄ではないが重い彼女の体と、伸子の体ごしにつっぱった彼女の手との間で伸子のベッドのかけものは息ぐるしく伸子の胸の上でひきつめられた。
 「ね、息をさせて!」

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