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名作を読みませんかコミュの「蟹工船」  小林 多喜二  3

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 時化は頂上を過ぎてはいた。
 それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。
 一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛(びっこ)な音をたてて進んでいた。
 薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。

 小寒い雨がまだ止んでいなかった。
 四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。
 それは原始林の中に迷いこんで、雨に会うのより、もっと不気味だった。
 麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。

 学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。
 「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。
 「面白いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。

 今朝の二時頃だった。
 ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。
 夜の闇(やみ)の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた。
 時化のために皆寝ずにいた。

 その時だった。
 船長室に無電係が周章(あわ)ててかけ込んできた。
 「船長、大変です。S・O・Sです!」
 「S・O・S? ――何船だ」
 「秩父丸です。
  本船と並んで進んでいたんです」
 「ボロ船だ、それア!」
 浅川が雨合羽(あまがっぱ)を着たまま、隅(すみ)の方の椅子に大きく股(また)を開いて、腰をかけていた。

 片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。
 「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」
 「一刻と云えないようです」
 「うん、それア大変だ」
 船長は、舵機室に上るために、急いで、身仕度(みじたく)もせずにドアーを開けようとした。然し、まだ開けないうちだった。

 いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
 「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」
 誰が命令した?
 「船長」ではないか。
 が、突嗟(とっさ)のことで、船長は棒杭(ぼうぐい)より、もっとキョトンとした。
 然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。

 「船長としてだ」
 「船長としてだア――ア」
 船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で抑(おさ)えつけた。
 「おい、一体これア誰の船だんだ。
  会社が傭船(チアタア)してるんだで、金を払って。
  ものを云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。

  お前なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、
  糞場の紙位えの価値(ねうち)もねえんだど。
  分ってるか。
  あんなものにかかわってみろ、一週間もフイになるんだ。冗談じゃない。
  一日でも遅れてみろ!
  それに秩父丸には勿体(もったい)ない程の保険がつけてあるんだ。
  ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」

 給仕は「今」恐ろしい喧嘩が!と思った。
 それが、それだけで済む筈がない。
 だが(!)船長は咽喉(のど)へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。
 給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。
 船長の云ったことが通らない?
 馬鹿、そんな事が!
 だが、それが起っている。

 給仕にはどうしても分らなかった。
 「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」
 唇を思いッ切りゆがめて唾(つば)をはいた。
 無電室では受信機が時々小さい、青白い火花(スパアクル)を出して、しきりなしになっていた。

 とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
 「ね、こんなに打っているんです。
  だんだん早くなりますね」
 係は自分の肩越しに覗(のぞ)き込んでいる船長や監督に説明した。
 皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と顎根(あごね)に力をこめて、じいとしていた。

 船の動揺の度に、腫物(はれもの)のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。
 横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉(とびら)を隔てて聞えていた。
 ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。
 と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。
 それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。

 係は周章(あわ)てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。
 が、それッ切りだった。
 もう打って来ない。
 係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。
 「沈没です!……」
 頭から受信器を外(はず)しながら、そして低い声で云った。
 「乗務員四百二十五人。
  最後なり。
  救助される見込なし。
  S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」

 それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。
 無意味な視線で、落着きなく四囲(あたり)を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。
 そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。
 その船長は見ていられなかった。

 学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。
 その話にひきつけられていた。
 然し暗い気持がして、海に眼をそらした。
 海はまだ大うねりにうねり返っていた。
 水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭(せ)ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた。
 「本当に沈没したかな」独言(ひとりごと)が出る。
 気になって仕方がなかった。

 同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。
 蟹工船はどれもボロ船だった。
 労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。
 資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。
 そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。

 蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。
 だから航海法は適用されなかった。
 二十年の間も繋(つな)ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧(こいげしょう)をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。

 少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。
 露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに解(ほ)ぐれそうだった。
 中風患者のように身体をふるわした。
 然し、それでも全くかまわない。
 何故(なぜ)なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「秋(とき)」だったから。

 それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。
 然し工場法の適用もうけていない。
 それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。
 利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。
 嘘(うそ)のような金が、そしてゴッソリ重役の懐(ふところ)に入ってくる。
 彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。

 が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千哩(マイル)も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑(ガラスくず)のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
 学生上りは「糞壺(くそつぼ)」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
 「他人事(ひとごと)ではないぞ」
 「糞壺」の梯子(はしご)を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、


 雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。
                  浅川監督。


 と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼(は)らさってあった。


        三

 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目鰻(うなぎ)のように延びて見えた。
 沖合四浬(かいり)のところに、博光丸が錨(いかり)を下ろした。
 三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。

 網さばきが終って、何時(いつ)からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。
 カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股(また)までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。

 周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈(はず)がなかった、とブツブツ云っていた。
 「独(ひと)り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
 「ちげえねえ、独り寝さ。
  ゴロ寝だもの」

 学生は十七、八人来ていた。
 六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団(ふとん)、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。
 それが初めて分ったとき、貨幣(かね)だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。
 はじめ、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固(かたま)っていた。

 函館(はこだて)を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。
 寝床に入ってから、膝(ひざ)を立てて、お互に脛(すね)を指で押していた。
 何度も繰りかえして、その度(たび)に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。
 脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。
 棚(たな)の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。

 それに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。
 学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。
 「そんなぜいたくな薬なんて無いとよ」
 「んだべ。船医なんてんなものよ」側(そば)で聞いていた古い漁夫が云った。
 「何処(どこ)の医者も同じだよ。
  俺のいたところの会社の医者もんだった」坑山の漁夫だった。

 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。
 「皆、寝たか。
  一寸(ちょっと)聞け。
  秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。
  生死の詳しいことは分らないそうだ」
 唇をゆがめて、唾(つば)をチェッとはいた。癖だった。

 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。
 自分が現に手をかけて殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。
 皆はムクムクと頭をあげた。
 急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。

 行衛(ゆくえ)の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。
 二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった。
 捕(つか)んだのは中年過ぎの漁夫だった。
 若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った。
 「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」
 バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。

 雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた。
 初め、皆は便所へ行くのを嫌った。
 隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった。

 二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。
 そして、そのわめきが間を置くようになった。
 その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで直(す)ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から叩(たた)きつける音もしていなかった。
 こっちから合図をしても、それが返って来なかった。
 その遅く、睾隠(きんかく)しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。
 唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。

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