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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  56

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 彼は眼をつぶった。
 彼女が彼のうちに沁《し》み込んできた。
 彼は彼女の顔だちを見なかった、
 声を聞かなかった。
 がその必要はなかった。
 彼女は彼のうちにはいり込み、彼女は彼をとらえ、彼は彼女を自分のものにした。
 そういう熱烈な幻覚状態のうちにあっては、彼は彼女といっしょにいるということ以外には、もう何事も意識しなかった。

 その状態は長くはつづかなかった。
 実を言えば、彼がまったく真実だったのはただ一回だけだった。
 翌日からは、早くも意志が加わった。
 そしてそれ以来、クリストフはその状態を復活させようといたずらにつとめた。
 その時になって彼は初めて、ザビーネのはっきりした姿を心に描き出そうと考えた。
 それまでは、そんなことは思いもしなかったのである。

 彼は閃光《せんこう》的にそれを描き出すことができ、それにすっかり光被された。しかしそれも、長い期待と暗黒とをもってして初めて得られるのであった。
 「憐《あわ》れなザビーネよ!」
 と彼は考えた。
 「彼らは皆お前を忘れている。
  お前を愛し、永久にお前を心にとどめているのは、私だけだ、おう私の貴い宝よ!
  私はお前をもっている、お前をとらえている。
 決してお前をのがすまい!」

 彼はそういうふうに言っていた。
 なぜならすでに彼女は彼からのがれかかっていたから。
 あたかも水が指の間から漏るように、彼女は彼の考えから逃げ出しかかっていた。
 彼はいつも忠実に密会にやって来た。
 彼は彼女のことを考えようとして、眼をつぶった。
 しかし往々にして彼は、三十分の後に、一時間の後に、時には二時間の後に、自分が何にも考えていなかったことに気づいた。

 低地の物音、水門に水の奔騰する音、丘の上に草を食《は》んでる二匹の山羊《やぎ》の鈴の音、彼が寝ころがってるすぐそばの細い小さな木立を過ぎる風の音、そういうものが、海綿のように粗《あら》い柔軟な彼の考えを浸していた。
 彼は自分の考えに憤った。
 その考えは彼の望みに従おうとつとめ、故人の面影を固定させようとつとめた。
 しかし飽き疲れうっとりしてまた力を失い、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつきながら、種々の感覚の怠惰な波動にふたたび身を任すのであった。

 彼は自分の遅鈍な気分を振いたたした。
 ザビーネを求めて田舎《いなか》を歩き回った。
 その笑顔が宿ったことのある鏡の中に彼女を求めた。
 その手が水に浸ったことのある川縁に彼女を求めた。
 しかし鏡も水も、彼自身の反映をしかもたらさなかった。
 歩行の刺激、新鮮な空気、脈打つ強健な血潮、それらは彼のうちに音楽を呼び覚《さま》した。

 彼は自分を欺こうとした。
 「ああザビーネ!……」と彼は嘆いた。
 彼はそれらの歌を彼女にささげた。
 自分の愛と苦しみとを、頭のうちに蘇《よみがえ》らせようと企てた。
 しかしいかにしても甲斐《かい》がなかった。
 愛と苦しみとはよく蘇った。

 しかし憐《あわ》れなザビーネはそれにかかわりをもっていなかった。
 愛と苦しみとは未来の方をながめていて、過去の方をながめてはいなかった。
 クリストフはおのれの青春にたいしてはなんらの手向いもできなかった。
 活気は新たな激しさをもって彼のうちに湧《わ》き上ってきた。
 彼の悲痛、愛惜、清浄な燃えたつ愛、抑圧された欲望は、彼の熱を高進さしていった。
 喪の悲しみにもかかわらず、彼の心臓は快い激しい律動で鼓動していた。
 いきり立った歌が酔い狂った音律で踊っていた。
 すべてが生命を祝頌《しゅくしょう》し、悲しみさえも祝いの性質を帯びていた。
 クリストフはきわめて率直だったから、みずから幻を描きつづけることができなかった。
 そして彼はおのれを蔑《さげす》んだ。

 しかし生命は彼に打ち勝った。
 死に満ちた魂と生命に満ちた身体とを持って、彼は悲しみながら、復活の力に身を任せ、狂妄《きょうもう》な生の喜びに身を任した。
 強者にあっては、苦悶《くもん》も、憐憫《れんびん》も、絶望も、回復できない亡失の痛切な負傷《いたで》も、死のあらゆる苦痛も、猛烈な拍車で彼らの脇腹《わきばら》をこすりながら、この生の喜びを刺激し煽動《せんどう》するばかりである。

 かつまたクリストフは、ザビーネの影が閉じ込められてる近づきがたい侵しがたい奥殿を、自分の魂の底の深みにもっているということを、よく知っていた。
 生命の急流もこの奥殿を流し去ることはできないだろう。
 人は皆おのおの、おのが心の奥底に、愛した人たちの小さな墓場のごときものをもっている。
 彼らは何物にも覚《さま》されずに、幾年月かをそこに眠る。

 しかし他日その墓窟《はかあな》の開ける日が――人の知るごとく――めぐって来る。
 死者はその墓を出でて、母の胎内に眠ってる子供のように、彼らの思い出が息《やす》らっている胸を持つ愛人へ、愛する者へ、色褪《あ》せた唇《くちびる》で頬笑《ほほえ》みかける。


     三 アーダ


 雨がちな夏のあとに、秋が輝いていた。
 果樹園の中には、果実が枝の上に群れをなしていた。
 赤い林檎《りんご》が、象牙珠《ぞうげだま》のように光っていた。
 ある樹木は早くも、晩秋の燦爛《さんらん》たる衣をまとっていた。
 火の色、果実の色、熟した瓜《うり》や、オレンジや、シトロンや、美味な料理や、焼肉などの、種々の色彩《いろどり》。
 鹿子色《かのこいろ》の光が、林の間の至る所にひらめいていた。
 そして牧場からは、透き通ったさふらんの小さな薔薇《ばら》色の炎が立ちのぼっていた。

 彼は丘を降りていた。
 日曜の午後だった。
 彼は傾斜に引かれてほとんど駆けながら、大胯《おおまた》に歩を運んでいた。
 散歩の初めから頭につきまとってた律動をもってる一句を、彼は歌っていた。
 そして真赤《まっか》な色をし、胸をはだけ、狂人のように腕を振り、眼をきょろつかせながら、やって行くと、道の曲り角で、金髪の大きな娘に、ぱったり出会った。
 娘は壁の上に乗って、大きな枝を力任せに引張りながら、紫色の小さな梅の実を、うまそうに食っていた。

 彼らは二人とも同じようにびっくりした。
 彼女はどきまぎして、口いっぱいほおばりながら彼をながめた。
 それから笑い出した。
 彼も同じく放笑《ふきだ》した。

 彼女は見るも快い姿だった、光の粉を散らしたような、縮れた金髪で縁取られた丸顔、赤いふっくらとした頬《ほお》、青い大きな眼、横柄にそりくり返ってるやや太い鼻、つき出た強い糸切歯をそなえたまっ白な歯並が見えてる、ごく赤い小さな口、貪食《どんしょく》的な頤《あご》、それから、丈夫な骨組みの体格のよい、大きな脂《あぶら》ぎった豊饒《ほうじょう》な身体。

 彼は彼女に叫んだ。
 「御馳走《ちそう》さま!」
 そして歩きつづけようとした。
 しかし彼女は呼びかけた。
 「もし、もし、少し親切にしてくださらないこと?
  助けておろしてちょうだいな。
  降りられなくなったから。」
 彼はもどってきた。

 どうして上ったかと尋ねた。
 「手足で。
  上るのはいつもやさしいものよ。」
 「うまそうな果物《くだもの》が頭の上にぶらさがってる時には、なおさらでしょう。」
 「ええ。
  でも食べてしまうと、がっかりするわ。
  もうどこから降りていいかわからなくなってしまうわ。」
 彼はそこにとまってる彼女をながめた。

 そして言った。
 「そうやってるとよく似合いますよ。
  そこにじっとしていらっしゃい。
  また明日《あした》見に来ます。
  さよなら!」
 しかし彼は彼女の下にたたずんで、動かなかった。

 彼女は恐《こわ》がってるふうをした。
 そしてかわいい顔つきで、置きざりにしないようにと願った。
 二人は笑いながら、そのまま顔を見合っていた。
 彼女はつかまってる枝を彼にさし示しながら言った。
 「あげましょうか。」
 所有権にたいするクリストフの尊重の念は、オットーとともに彷徨《ほうこう》していたころよりも、少しも発達していなかった。

 彼は躊躇《ちゅうちょ》なく承諾した。
 彼女は彼に梅の実を投げつけながら面白がった。
 彼が食べてしまうと、彼女は言った。
 「さあこれで!」
 彼はなお待たして意地悪くうれしがった。
 彼女は壁の上でじれったがっていた。

 ついに彼は言った。
 「さあ!」
 そして彼は腕を差出した。
 しかし飛び降りようとする時になって彼女は考え直した。
 「待ってちょうだい!
  先に食べ物を取込んでおかなくちゃならないわ。」
 彼女は手の届くかぎりのりっぱな梅の実を摘み取って、ふくらんだチョッキにいっぱいつめた。

 「用心してくださいよ。
  つぶしちゃいけないわよ。」
 彼はつぶしてやりたいほどだった。
 彼女は壁の上に身をかがめ、彼の腕に飛び込んだ。
 彼は頑丈《がんじょう》ではあったが、その重みをささえかねて、彼女とともに後ろざまに倒れかけた。

 二人は同じくらいな身長だった。
 顔が触れ合った。
 梅の汁《しる》にぬれた甘い唇《くちびる》に、彼は接吻《せっぷん》した。
 彼女も同じく無遠慮に接吻を返した。
 「どこへ行くんです?」と彼は尋ねた。
 「わからないわ。」
 「一人で散歩してるんですか。」
 「いいえ。
  友だちといっしょなの。
  でも見失ってしまったのよ。
  おーい!」
 と彼女はいきなり精いっぱいに呼び声をたてた。
 何の答えもなかった。
 彼女は別にそれを気にもかけなかった。

 二人はどこへともなくただまっすぐに歩き出した。
 「そしてあなたは、どこへいらっしゃるの?」と彼女は言った。
 「僕もわからないんです。」
 「ちょうどいいわ。
  いっしょに行きましょう。」
 彼女は少しはだけてるチョッキから梅の実を取出して、それをかじりだした。
 「毒になりますよ。」と彼は言った。
 「いいえちっとも。
  いつも食べてるのよ。」

 チョッキの隙間《すきま》から彼は彼女の肌襦袢《はだじゅばん》を見ていた。
 「もうすっかりあたたかになっちゃったわ。」と彼女は言った。
 「どれ!」
 彼女は笑いながら彼に一つ差出した。
 彼はそれを食べた。
 彼女は子供のように梅の実をすすりながら、横目で彼をながめていた。
 彼にはこの出来事がしまいにどうなるかよくわからなかった。
 が彼女には少なくとも多少の見当はついていた。

 彼女は待っていた。
 「おーい!」と林の中で叫ぶ声がした。
 「おーい!」と彼女は答えた。
 「あらいたわ、」とクリストフに言った。
 「まあよかった。」
 彼女は反対に、かえって悪いと考えていた。
 しかし女にとっては、言葉というものは考えどおりのことを言うために与えられたものではない。

 ありがたいことだ!
 もしそうでなかったら、地上にはもはや道徳が存し得なくなるだろう。
 人声は近づいてきた。
 連れの者たちが道に出て来るところだった。
 彼女は一飛びに路傍の溝《みぞ》を踊り越し、その土手によじ上り、木立の後ろに隠れた。

 彼はびっくりして彼女のすることをながめていた。
 彼女は来いと強く相図をした。
 彼はあとについていった。
 彼女は林の中の方にはいり込んでいった。
 「おーい!」と彼女は連れの者たちがかなり遠くなった時にふたたび言った。
 「少し捜さしてやらなきゃいけないわ。」
 と彼女はクリストフに言ってきかした。

 連れの者たちは道の上に立止って、どこから声が響いてくるのか耳を傾けた。
 彼らは彼女の声に答えて、つづいて林の中にはいってきた。
 しかし彼女は待っていなかった。
 右に出たり左に出たりして面白がった。
 彼らは喉《のど》を涸《か》らして呼んでいた。
 彼女はそのままにさしておいて、それから反対の方へ行って呼んだ。
 ついに彼らは疲れてしまった。

 彼女を出て来させる最上の策は、少しも捜してやらないことにあるのだと信じて、こう叫んだ。
 「さようなら!」
 そして歌いながら去っていった。
 彼女は彼らにほったらかされたのを怒った。
 彼らを厄介払いしようとしてはいたが、しかし彼らにそうやすやすと思い切られたことが許せなかった。
 クリストフは馬鹿《ばか》げた顔つきをしていた。
 見知らぬ娘といっしょにやった隠れん坊の遊びが、たいして面白くもなかった。
 そして二人きりなのに乗じようとも考えてはいなかった。
 彼女も別にそうしようとは考えていなかった。
 腹だちまぎれにクリストフのことなんか忘れていた。

 「まあ、ずいぶんひどい。」
 と彼女は手を打ちながら言った。
 「こんなに置いてきぼりにするなんて!」
 「でも、」
 とクリストフは言った。
 「自分で望んだことでしょう。」
 「いいえちっとも!」
 「自分で逃げたでしょう。」
 「私が逃げたって、それは私一人のことで、あの人たちの知ったことじゃないわ。
  あの人たちは私を捜してくれなけりゃならないはずだわ。
  もしも私が道にでも迷ったんだったら。」

 もしも、もしも事情が反対だったら、どんなことになっていたろうかと、彼女ははや心細がっていた。
 「そう、少し責めてやらなくっちゃ!」
 と彼女は言った。
 彼女は大跨《おおまた》に引返した。
 道の上に出ると、彼女はクリストフのことを思いだして、また彼をながめた。
 しかしもう時遅れだった。

 彼女は笑いだした。
 先刻彼女のうちにいた小さな悪魔は、もういなくなっていた。
 彼女はほかのがも一匹やって来るのを待ちながら、無関心な眼でクリストフをながめていた。
 それにまた、彼女は腹がすいていた。
 胃袋の加減で、夕飯時なのを思い出していた。
 飲食店で連れの者たちといっしょになろうと急いでいた。
 彼女はクリストフの腕をとらえ、力いっぱいにもたれかかり、しきりに吐息をつき、疲れ果てたと言った。

 それでもやはり、狂人のように叫んだり笑ったり駆けたりしながら、クリストフを引張って坂道を降りていった。
 二人は話しだした。
 彼女は彼がどういう者であるか知った。
 しかし彼女は彼の名前を知っていなかった。
 そして彼の音楽家たる肩書にたいして敬意を払わないらしかった。

 彼の方でも彼女のことを知った。
 カイゼル街(町の最もりっぱな通り)のある化粧品商の店員で、名前はアーデルハイト、
友だち仲間ではアーダ、であった。
 その散歩の仲間は、同じ商店に働いてる朋輩《ほうばい》の一人と、二人のりっぱな青年だった。

 青年の一人はヴァイレル銀行員で、も一人はある大きな流行品商の事務員だった。
 彼らは日曜を利用したのであって、ライン河の美景が見られるプロヘット飲食店で晩餐《ばんさん》をし、それから船で帰るつもりにしていた。
 二人が飲食店に着いた時、一同はもうそこにすわり込んでいた。
 アーダは一同を責めたてないではおかなかった。
 卑劣にも置きざりにしたことを彼らに不平言い、そしてこの人に助けてもらったのだと言ってクリストフを紹介した。

 彼らはアーダの苦情はいっこう構いつけなかった。
 しかし彼らはクリストフのことを知っていた。
 銀行員は評判を耳にしていたし、事務員は二、三の楽曲を聞いたことがあった。
 (彼はすぐに得意然とその一節《ひとふし》を口ずさんだ。)
 そして彼にたいする彼らの尊敬の様子は、アーダに感銘を与えた。

 そのうえ、も一人の若い女ミルハ――(実際はヨハンナという名前だったが)――栗《くり》色髪の女で、始終眼をまたたき、額が骨たち、前髪を引きつめ、その支那の女みたいな顔は、多少渋めがちではあったが、しかし利口そうでちょっとかわいく、山羊《やぎ》みたいな面影があり、脂気《あぶらけ》の多い金色の皮膚をしていた。

 それが急に宮廷音楽員をちやほやしだしたので、アーダはなお感銘を受けた。
 一同は晩餐御同席の栄を得たいと彼に願った。
 彼はかつてそういう供応に臨んだことがなかった。
 各人がきそって彼を尊敬した。
 二人の女が、仲よく彼を奪い合った。
 二人とも彼の気を迎えた。

 ミルハは、大仰な様子と狡猾《こうかつ》な眼つきをして、食卓の下で彼に膝頭《ひざがしら》をつきつけながら。
 アーダは、美しい瞳《ひとみ》や美しい口や、すべてその美しい身体のあらゆる誘惑の種を、厚かましく働かせながら。
 そしてやや露骨すぎるそういう嬌態《きょうたい》は、クリストフを当惑させ悩ました。

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