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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  39

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 よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。
 うまい事を考えた。
 「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」
 「病気が直っても、寝て待っている」

 二人は笑って別れた。
 帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。
 晩になって、医者が来た。
 三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽《ろうばい》した。
 そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。
 年の若い丁寧な男である。
 三四郎は代診と鑑定した。
 五分ののち病症はインフルエンザときまった。
 今夜頓服《とんぷく》を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。

 翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。
 寝ていれば、ほとんど常体に近い。
 ただ枕を離れると、ふらふらする。
 下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。
 三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。
 時々うとうと眠くなる。
 明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。
 三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。
 病症が軽いからだと思った。

 四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。
 しきりに寝返りを打つ。
 外はいい天気である。
 障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。
 雀《すずめ》が鳴く。
 三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。

 ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。
 よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。
 与次郎だけに敏捷《びんしょう》な働きをした。
 寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。
 きょうは紫の袴《はかま》をはいている。
 足は両方とも廊下にある。
 ちょっとはいるのを躊躇《ちゅうちょ》した様子が見える。
 三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。

 よし子は障子をたてて、枕元《まくらもと》へすわった。
 六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除《そうじ》をしないから、なお狭苦しい。
 女は、三四郎に、
 「寝ていらっしゃい」と言った。
 三四郎はまた頭を枕へつけた。
 自分だけは穏やかである。
 「臭くはないですか」と聞いた。
 「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。
 「熱がおありなの。
  なんなんでしょう、御病気は。
  お医者はいらしって」
 「医者はゆうべ来ました。
  インフルエンザだそうです」

 「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから、
  見舞いに行ってやってください。
  何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、
  私も美禰子さんもびっくりしたの」
 与次郎がまた少しほらを吹いた。
 悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。
 三四郎は人がいいから、気の毒でならない。

 「どうもありがとう」と言って寝ている。
 よし子は風呂敷包《ふろしきづつ》みの中から、蜜柑《みかん》の籠《かご》を出した。
 「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。
 どっちのお見舞《みやげ》だかわからない。
 三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。
 「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから。
  どうぞよろしくって……」
 「何か特別に忙しいことができたのですか」
 「ええ。できたの」と言った。

 大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。
 三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。
 はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。
 今でもものうげに見える。
 同時に快活である。
 頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。

 「蜜柑をむいてあげましょうか」
 女は青い葉の間から、果物《くだもの》を取り出した。
 渇《かわ》いた人は、香《か》にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。
 「おいしいでしょう。
  美禰子さんのお見舞《みやげ》よ」
 「もうたくさん」
 女は袂《たもと》から白いハンケチを出して手をふいた。

 「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
 「あれぎりです」
 「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」
 「ええ、もうまとまりました」
 「だれですか、さきは」
 「私をもらうと言ったかたなの。
  ほほほおかしいでしょう。
  美禰子さんのお兄《あに》いさんのお友だちよ。

  私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。
  美禰子さんが行ってしまうと、
  もうご厄介《やっかい》になってるわけにゆかないから」
 「あなたはお嫁には行かないんですか」
 「行きたい所がありさえすれば行きますわ」
 女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。
 まだ行きたい所がないにきまっている。

 三四郎はその日から四日《よっか》ほど床を離れなかった。
 五日目《いつかめ》にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。
 亡者《もうじゃ》の相がある。
 思い切って床屋へ行った。
 そのあくる日は日曜である。
 朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。

 玄関によし子が立って、今沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。
 今兄の所へ行くところだと言う。
 美禰子はいない。
 三四郎はいっしょに表へ出た。
 「もうすっかりいいんですか」
 「ありがとう。
  もう直りました。
  里見さんはどこへ行ったんですか」
 「にいさん?」
 「いいえ、美禰子さんです」
 「美禰子さんは会堂《チャーチ》」
 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。

 どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。
 横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。
 三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》に縁のない男である。
 会堂の中はのぞいて見たこともない。
 前へ立って、建物をながめた。
 説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。
 ある時は寄りかかってみた。

 三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。
 やがて唱歌の声が聞こえた。
 賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。
 締め切った高い窓のうちのでき事である。
 音量から察するとよほどの人数らしい。
 美禰子の声もそのうちにある。
 三四郎は耳を傾けた。
 歌はやんだ。

 風が吹く。
 三四郎は外套の襟《えり》を立てた。
 空に美禰子の好きな雲が出た。
 かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。
 所は広田先生の二階であった。
 田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。
 その時も一人ではなかった。
 迷羊《ストレイ・シープ》。
 迷羊《ストレイ・シープ》。
 雲が羊の形をしている。

 忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。
 中から人が出る。
 人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。
 美禰子は終りから四番目であった。
 縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。
 寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。
 美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。
 その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。

 三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。
 二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。
 「どうなすって」
 「今お宅までちょっと出たところです」
 「そう、じゃいらっしゃい」
 女はなかば歩をめぐらしかけた。
 相変らず低い下駄《げた》をはいている。
 男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。

 「ここでお目にかかればそれでよい。
  さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」
 「おはいりになればよいのに。
  寒かったでしょう」
 「寒かった」
 「お風邪はもうよいの。
  大事になさらないと、ぶり返しますよ。
  まだ顔色がよくないようね」
 男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。
 「拝借した金です。
  ながながありがとう。
  返そう返そうと思って、ついおそくなった」

 美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。
 しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。
 三四郎もそれをながめている。
 言葉が少しのあいだ切れた。
 やがて、美禰子が言った。
 「あなた、御不自由じゃなくって」
 「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、
  どうか取ってください」
 「そう。
  じゃいただいておきましょう」
 女は紙包みを懐へ入れた。

 その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。
 鼻のところへあてて、三四郎を見ている。
 ハンケチをかぐ様子でもある。
 やがて、その手を不意に延ばした。
 ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。
 鋭い香《かおり》がぷんとする。
 「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。
 三四郎は思わず顔をあとへ引いた。
 ヘリオトロープの罎《びん》。
 四丁目の夕暮。
 迷羊《ストレイ・シープ》。
 迷羊《ストレイ・シープ》。
 空には高い日が明らかにかかる。

 「結婚なさるそうですね」
 美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。
 「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。
 三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。
 そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。
 三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった。
 女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。

 やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
 「我はわが愆《とが》を知る。
  わが罪は常にわが前にあり」
 聞き取れないくらいな声であった。
 それを三四郎は明らかに聞き取った。
 三四郎と美禰子はかようにして別れた。

 下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。
 あけて見ると、いつ立つとある。

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