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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  37

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 煙がしきりに出る。
 「たとえば、ここに一人の男がいる。
  父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。

  その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、
  自分が死んだら誰某《だれそれがし》の世話になれという。
  子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。
  理由《わけ》を聞くと、母がなんとも答えない。
  しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。
  まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。
  すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」
 「そんな人はめったにないでしょう」

 「めったには無いだろうが、いることはいる」
 「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」
 先生はハハハハと笑った。
 「君はたしかおっかさんがいたね」
 「ええ」
 「おとっさんは」
 「死にました」
 「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」


       一二

 演芸会は比較的寒い時に開かれた。
 年はようやく押し詰まってくる。

 人は二十日《はつか》足らずの目のさきに春を控えた。
 市《いち》に生きるものは、忙しからんとしている。
 越年《おつねん》の計《はかりごと》は貧者の頭《こうべ》に落ちた。
 演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。
 それが、いくらでもいる。
 たいていは若い男女《なんにょ》である。

 一日目《いちじつめ》に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。
 三四郎は二日目《ふつかめ》の切符を持っていた。
 与次郎が広田先生を誘って行けと言う。
 切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。
 しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由《わけ》を説明して聞かせた。
 三四郎は承知した。

 夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。
 「おいでになりませんか」
 と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。
 子供のような所作をする。
 しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。
 口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。
 三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。
 
先生は断わったのが気の毒になった。
 「君行くなら、いっしょに出よう。
  ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」
 先生は黒い回套《まわし》を着て出た。
 懐手《ふところで》らしいがわからない。
 空が低くたれている。
 星の見えない寒さである。
 「雨になるかもしれない」
 「降ると困るでしょう」

 「出入《ではい》りにね。
  日本の芝居小屋《しばいごや》は下足《げそく》があるから、
  天気のいい時ですらたいへんな不便だ。
  それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、
  よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」
 「ですけれども、まさか戸外《こがい》でやるわけにもいかないからでしょう」
 「お神楽《かぐら》はいつでも外でやっている。
  寒い時でも外でやる」

 三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。
 「ぼくは戸外がいい。
  暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。
  透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」
 「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」
 「君ギリシアの芝居を知っているか」
 「よく知りません。
  たしか戸外でやったんですね」
 「戸外。
  まっ昼間。
  さぞいい心持ちだったろうと思う。
  席は天然の石だ。
  堂々としている。
  与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」
 また与次郎の悪口《わるくち》が出た。

 その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走しかつ斡旋《あっせん》して大得意なのだからおもしろい。
 もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。
 たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。
 困ったものだなあ。
 と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。

 先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。
 三四郎はこの時先生から、〔Theatron《テアトロン》,|Orche^stra《オルケストラ》, Ske^ne^《スケーネ》,Proske^nion《プロスケニオン》〕 などという字の講釈を聞いた。
 なんとかいうドイツ人の説によるとアテンの劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。
 それは小さいほうである。

 もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。
 入場券は象牙《ぞうげ》と鉛と二通りあって、いずれも賞牌《メダル》みたような恰好《かっこう》で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。
 先生はその入場券の価まで知っていた。
 一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。

 三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。
 さかんに電燈がついている。
 入場者は続々寄って来る。
 与次郎の言ったよりも以上の景気である。
 「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」
 「いやはいらない」
 先生はまた暗い方へ向いて行った。

 三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。
 前へ押されたと同じことである。
 入口に四、五人用のない人が立っている。
 そのうちの袴《はかま》を着けた男が入場券を受け取った。
 その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。
 かつはなはだ明るい。

 三四郎は眉《まゆ》に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。
 狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。
 自分の目を動かすからばかりではない。
 無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。
 舞台ではもう始まっている。
 出てくる人物が、みんな冠《かんむり》をかむって、沓《くつ》をはいていた。
 そこへ長い輿《こし》をかついで来た。
 それを舞台のまん中でとめた者がある。
 輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。
 その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。

 三四郎にはなんのことかまるでわからない。
 もっとも与次郎から梗概《こうがい》を聞いたことはある。
 けれどもいいかげんに聞いていた。
 見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。
 ところが見れば毫《ごう》もその意を得ない。
 三四郎の記憶にはただ入鹿《いるか》の大臣《おとど》という名前が残っている。
 三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。
 それはとうてい見込みがつかない。

 そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。
 すると冠でも、沓でも、筒袖《つつそで》の衣服《きもの》でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。
 実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。
 日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。
 推古天皇《すいこてんのう》の時のようでもある。
 欽明天皇《きんめいてんのう》の御代《みよ》でもさしつかえない気がする。
 応神天皇《おうじんてんのう》や聖武天皇《しょうむてんのう》ではけっしてないと思う。

 三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。
 芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐《から》めいた装束《しょうぞく》や背景をながめていた。
 しかし筋はちっともわからなかった。
 そのうち幕になった。
 幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。

 まるで訓練がないと非難していた。
 そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。
 ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。
 二人は登場人物の本名《ほんみょう》をみんな暗《そら》んじている。
 三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。
 二人ともりっぱな服装《なり》をしている。
 おおかた有名な人だろうと思った。
 けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。

 その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。
 隣の男は二人ともうしろを振り返った。
 それぎり話をやめてしまった。
 そこで幕がおりた。
 あすこ、ここに席を立つ者がある。
 花道《はなみち》から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。
 三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。
 来ているはずの人はどこにも見えない。
 本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。
 それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。

 三四郎は少し失望した。
 やむをえず目を正面に帰した。
 隣の連中《れんじゅう》はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。
 ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。
 なかには離れながら、互いに挨拶《あいさつ》をしたのも、一、二人ある。
 三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。
 そのなかには新婚したばかりの者もあった。
 これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡《めがね》をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。

 すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの端《はじ》からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。
 三分の二ほどの所で留まった。
 少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。
 三四郎はそれを見当にねらいをつけた。
 舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。
 そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。
 三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。

 うまいぐあいにその男は立った。
 すわりくたびれたとみえて、枡《ます》の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。
 その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。
 野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。
 三四郎はこの三人のほかに、まだ連《つれ》がいるかいないかを確かめようとした。
 けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。

 美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。
 野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。
 すると突然原口さんが幕の間から出て来た。
 与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。
 口はむろん動かしているのだろう。
 野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。

 その時原口さんはうしろから、平手《ひらて》で、与次郎の背中をたたいた。
 与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕の裾《すそ》をもぐってどこかへ消えうせた。
 原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。
 野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。
 原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。
 美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。

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