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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  47

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そしてローザも、自分の鼻の格好には無頓着《むとんじゃく》で、素敵な家庭的義務を典例に従って履行することばかりを、自ら誇りとしていた。
 人から教え込まれるすべてのことを、福音書の言葉のように受けいれていた。
 家から出かけることはほとんどなかったので、比較の対象をあまりもたなかったし、家の者たちを率直に感嘆し、彼らの言うことを信じきっていた。
 腹蔵のない信頼的な満足しやすい性質だったから、家の中の憂鬱《ゆううつ》な気分に調子を合わせようとつとめ、耳にする悲観的な言葉を従順にくり返していた。

 彼女は最も献身的な心をもっていて、常に他人のことを考えて、他人を喜ばせようとつとめ、他人の心配を分ち取り、その欲望を推察し、ただ愛したがっていて、報酬を求むる念はなかった。
 家の者たちは、皆善人ではあり彼女を愛してはいたが、自然に彼女のそういう性質につけ込んでいた。

 人は常に、自分に身をささげてる者の愛情を濫用しがちなものである。
 家の者たちは彼女の世話を信じきっていたから、それを彼女に少しもありがたいと思わなかった。
 彼女から何をしてもらっても、さらにそれ以上を期待した。

 彼女は無器用だった。
 疎忽《そこつ》であり、性急であり、唐突なお転婆《てんば》な動作をし、むやみに愛情に駆られ、いつも家の中の災難となった。
 コップをこわし、水差をひっくり返し、扉《とびら》を激しく閉《し》め、あらゆることで家じゅうの怒りを招いた。
 たえずひどい目にあって、片隅《かたすみ》へ行っては泣いた。
 しかしその涙はすぐにやんだ。
 彼女はまたにこにこした様子になり、おしゃべりを始め、だれにたいしても恨みの影さえいだいていなかった。

 クリストフの到来は、彼女の生活じゅうの大事件であった。
 彼の噂《うわさ》はしばしば聞いていた。
 クリストフは町の世間話の中に一地位を占めていた。
 そういうことは、地方の小さな評判の一形式であった。
 彼の名前は、オイレル家の話の中にもしばしば出てきた。

 ことにジャン・ミシェル老人がまだ生きてたうちはそうだった。
 老人は自分の孫を自慢にして、知人の家を回り歩いてはほめたてていた。
 ローザはまた一、二度、その若い音楽家を音楽会で見たことがあった。
 彼が自分の家に来て住むことを知ると、彼女は手をたたいた。
 その不謹慎な態度をきびしくしかられて、まったく当惑した。
 別に悪いことだとは思っていなかった。
 彼女のような平板な生活をしていると、新しい借家人が来ることは望外の気晴しだった。

 いよいよクリストフがやって来るという数日の間、彼女は待ち焦れて苛《い》ら苛《い》らしていた。
 家が彼の気に入らなくはないだろうかと心配して、できるだけ彼の部屋をきれいにしようと骨折った。
 移転の朝になると、歓迎のしるしとして、暖炉の上に小さな花束をもって来さえした。

 けれども自分の身については、見栄をよくしようとは少しも気を配らなかった。
 クリストフは最初にちらりと見ただけで、醜い無様《ぶざま》な娘だと判断してしまった。
 彼女の方では彼にそのような判断は下さなかった。
 だがむしろそのような判断を下すべき理由は十分あったに違いない。
 なぜならクリストフは、疲れはて、忙しく働き、服装《みなり》にも注意しないでいて、平素よりいっそう醜くなっていたから。

 しかしだれのことをも少しも悪く思えないローザは、自分の祖父や父や母を完全にきれいだと見なしていたローザは、予期どおりの姿でクリストフを見てしまって、心から彼に感嘆した。
 食卓で彼の隣にすわると、非常に気恥ずかしかった。
 そして不幸にも、その気恥ずかしさは饒舌《じょうぜつ》となって現われた。
 そのためにクリストフの同情は一挙にぶちこわされた。
 彼女はそれに気づかないで、その第一夜は、輝かしい思い出となって頭に残った。

 新しく来た借家人たちがその部屋《へや》へ上った後、彼女は自分の室にただ一人で、彼らの歩き回る足音を頭の上に聞いた。
 その足音は彼女のうちに愉快な響きを伝えた。
 家じゅうが蘇《よみがえ》ったように思われた。

 翌日、彼女は初めて、不安げに注意しながら自分の姿を鏡に映してみた。
 そして自分の不幸の大いさをまだはっきり知りはしなかったが、それでも不幸を予感し始めた。
 自分の顔だちを一々判断しようとつとめたが、どうもうまく分らなかった。
 悲しい懸念にとらえられた。
 深い溜息をついて、装いを少し変えてみた。
 それでもますます醜くなるばかりだった。
 そのうえ生憎《あいにく》な考えをいだいて、種々な世話でクリストフをうるさがらした。

 新しい知人たちにたえず会い、用をしてやろうという、単純な希望に駆られて、始終階段を上り降りし、そのたびごとに不用な品物をもって来、しつこく手伝いをしたがり、そして常に笑いしゃべり叫んでいた。
 ただ母親の苛立《いらだ》った声に呼び立てられる時だけ、彼女はその熱心と話とを中止した。

 クリストフは厭《いや》な顔つきをしていた。
 もしつとめて我慢しなかったら、幾度となく癇癪《かんしゃく》を起こすところだった。
 彼は二日間辛抱した。
 三日目には扉《とびら》に錠をおろした。
 ローザは扉をたたき、呼び声をたて、それと悟り、当惑して降りてゆき、そしてもう二度と始めなかった。

 彼は彼女に会った時、急ぎの仕事にとりかかっていて隙《ひま》がないのだと説明した。
 彼女はつつましく詫《わ》びを述べた。
 彼女は自分の無邪気なやり口の不成功をみずからごまかすことができなかった。
 それは目的とはまったく背馳《はいち》していて、かえってクリストフを遠ざけていた。

 クリストフはもはやその不機嫌《ふきげん》さを隠そうとしなかった。
 彼女が口をきいてる時に耳を貸そうともせず、我慢しきれない様子を隠しもしなかった。
 彼女は自分の饒舌《じょうぜつ》が彼を苛立《いらだ》たせてるのを感じた。
 そしてつとめて晩は少しの間黙ってることができた。
 しかし彼女の力には及ばなかった。
 またもやにわかにさえずりだした。
 クリストフはその話の中途で、彼女を置きざりにして出て行った。

 彼女はそれを彼に恨まなかった。
 自分自身を恨めしく思った。
 自分は馬鹿で面白くない滑稽《こっけい》な者だと判断した。
 あらゆる欠点が非常に大きく思われて、それを押し伏せたかった。
 しかし最初の試みに失敗してから勇気がくじけ、どうしても成功すまいと考え、それだけの力がないと考えた。

 それでもふたたびつとめてみた。
 しかし彼女は、自分でどうにもできない欠点をもっていた。
 容貌《ようぼう》の醜さにたいして施す術《すべ》があろうか?
 彼女はもはやそれを疑い得なかった。
 ある日鏡で自分の顔を見てると、自分の不運の確実さが突然分ってきた。
 それは雷に打たれたようなものだった。
 もとより彼女は悪い点をもなお誇張して考え、自分の鼻を実際よりは十倍も大きく見た。

 鼻が顔全体を占めてるかと思った。
 もう人前に顔出しもしかねた。
 死にたいほどだった。
 しかし青春は非常な希望の力をもってるもので、そういう落胆の発作は長くつづきはしない。
 彼女はそのあとで、思い違いをしたのだと想像した。
 その想像をほんとうだと信じようとつとめ、そして時には、自分の鼻はまったく人並でかなり格好もよいと、思うまでになった。

 すると彼女は本能から、ある子供らしい策略を、あまり額を現わさず顔の不均衡をさまで見せつけないような髪の結い方を、しかもきわめて無器用に思いついた。
 それには少しも嬌態《きょうたい》を装う考えは交っていなかった。
 浮気心は少しも頭に浮かんでいなかったし、もし浮かんだにしろそれは知らず知らずにであった。
 彼女の求めるところはわずかなものだった。
 少しの友情きりだった。

 そしてその少しのものをも、クリストフは彼女に与えたく思っていないらしかった。
 二人が顔を合せる時、今日はとか今晩はとかいう親しい言葉を、彼が親切にかけてやりさえしたら、ローザはどんなにか幸福に思ったろう。
 しかしクリストフの眼つきは、平素からいかにもきびしく冷やかだった。
 彼女はそれにぞっとした。彼は彼女に何にも不愉快なことさえ言わなかった。
 彼女はそういう残忍な沈黙よりも、叱責《しっせき》の方をまだ好んだであろう。

 夕方、クリストフはピアノについて演奏した。
 なるべく物音に煩わされないように、家の一番上の狭い屋根裏の室にこもっていた。
 ローザは下から、それを聴《き》いて感動した。
 彼女は少しも教養のない粗悪な趣味をもってはいたが、音楽を好んでいた。
 彼女は母がそばにいる間は、室の片隅にとどまって、仕事の上にかがみ込み、それに夢中になってるらしかった。

 しかし彼女の魂は、上から響いてくる音律に引きつけられていた。
 幸いにも、アマリアが近所に用があって出かけると、ローザはすぐに飛び上り、仕事を投げすて、心を踊らせながら、屋根室の入口まで上っていった。
 息を凝らして、扉《とびら》に耳をあてがった。
 そのままじっとしていたが、ついにアマリアがもどってきた。
 彼女は音をたてまいと用心しながら、爪先《つまさき》立って降りていった。

 しかしきわめて無器用だったし、いつも急いでいたので、階段から転げ落ちそうになることがたびたびだった。
 それからある時は、身体を前方につき出し、頬《ほお》を錠前にくっつけて、耳を傾けていると、平均を取り失って、額を扉にぶっつけた。
 彼女は非常にあわてて息を切らした。
 ピアノの音はぴたりと止った。
 彼女は逃げ出すだけの力もなかった。
 ようやく立上ると、扉が開《あ》いた。

 クリストフは彼女の姿を見、怒気を含んだ一瞥《べつ》を投げて、それから、なんとも言わずに荒々しくそばを離れ、怒って降りてゆき、外に飛び出した。
 食事の時になってもどって来たが、許しを願ってる彼女の悲しい眼つきにはなんらの注意も払わず、あたかも彼女がそこにいないかのようなふうをした。
 そして数週間、彼はまったく演奏をやめた。
 ローザは人知れずしきりに涙を流した。
 だれもそれに気づかなかった。
 だれも彼女に注意を向けていなかった。
 彼女は熱心に神に祈った。
 なんのために?

 それは彼女にもよくわからなかった。
 ただ自分の悲しみをうち明けたかった。
 彼女はクリストフにきらわれてると信じていた。
 それでもやはり、彼女は希望をつないでいた。
 クリストフが多少の同情を示す様子を見せてやり、彼女の言葉に耳を傾けるふうをしてやり、いつもより少し親しく握手してやったら、それで十分だったのであるが。
 しかるに、家の者らの不謹慎な数語を聞くと、彼女はあられもない方面へ想像を走らしてしまった。

 家じゅうの者は皆クリストフに同情を寄せていた。
 真面目《まじめ》で孤独で、自分の義務にたいしてりっぱな考えをいだいている、十六歳のえらい少年は、皆に一種の尊敬の念を起こさした。
 彼の発作的な不機嫌《ふきげん》や、執拗《しつよう》な沈黙や、陰気な様子や、乱暴な振舞などは、このような家にあっては少しも人を驚かすものではなかった。

 また彼が、夕方幾時間もぼんやりして、屋根室の窓ぎわにもたれ、中庭をのぞき込み、夜になるまでじっとしていても、芸術家というものは皆のらくら者だと考えてるフォーゲル夫人でさえ、思う存分に攻勢的なやり方では、それを彼にとがめ得なかった。
 なぜなら、彼がその他の時間は稽古《けいこ》を授けるのに身を疲らしてることを、彼女はよく知っていたから。
 そしてだれも口には言わないがだれも皆知っている、あるひそかな考えから、彼女は彼を――皆もそうだったが――いたわっていた。

 ローザは、クリストフと話してる時に、親たちが眼を見合したり意味ありげな囁《ささや》きをかわしたりするのに気がついた。
 初め彼女はそれに気を留めなかった。
 それから気にかかって心ひかれた。
 彼らの言ってることが知りたくてたまらなかった。
 しかしあえて尋ねることもしかねた。

 ある夕方彼女は、洗濯《せんたく》物をかわかすため木の間に張ってある綱を解くために、庭の腰掛に上っていたが、クリストフの肩につかまって地面に飛び降りようとした。
 ちょうどその時、彼女の眼は祖父と父との眼に出会った。
 彼らは家の壁に背中をつけて、パイプを吹かしながら腰掛けていた。
 彼らはたがいに眼配せをし合った。
 そしてユスツス・オイレルはフォーゲルに言った。
 「似合いの夫婦になるだろう。」

 ところが、娘が聞いてるのを認めたフォーゲルに肱《ひじ》でつっ突かれたので、彼はかなり遠くまで聞えるように大声で「へむ! へむ!」と言って、ごく巧みに――(と少なくとも彼は考えたが)――前の言葉をごまかしてしまった。
 クリストフは背を向けていたから、何にも気づかなかった。
 しかしローザは心が転倒して、飛び降りかかってるのを忘れ、足をくじいた。
 もしクリストフが、相変らずの無器用さを小声でののしりながらも、つかまえてやらなかったら、彼女はころんでたかも知れなかった。

 彼女はひどく足を痛めたが、少しもそんな様子は見せず、ほとんどそれを気にもせず、今聞いたことばかりを考えていた。
 彼女は自分の室へ逃げていった。
 一歩を運ぶのも苦しかったが、
 人に気づかれまいとして気を張りつめた。
 彼女はうれしい胸騒ぎに満たされていた。
 寝床のそばの椅子《いす》に身を落として、蒲団《ふとん》の中に顔を隠した。
 顔は燃えるようだった。

 眼には涙を浮かべながら笑っていた。
 恥ずかしかった。
 穴にでもはいりたかった。
 考えをまとめることができなかった。
 顳《こめかみ》がぴんぴんして、踝《くるぶし》が激しく痛み、失神し発熱してるような状態だった。
 ぼんやり外の物音を聞き、往来で遊んでる子供の叫び声を聞いていた。
 そして祖父の言葉がまだ耳に響いていた。
 彼女は低く笑い、真赤《まっか》になり、顔を羽蒲団に埋め、祈り、感謝し、欲求し、気づかい――恋していた。

 彼女は母に呼ばれた。
 立上ろうとした。
 一歩踏み出すと、堪えがたい苦痛を感じて、卒倒しそうだった。
 眩暈《めまい》がしていた。
 死ぬのではないかと思った。
 死んでしまいたかった。
 と同時に、全身の力をあげて生きたく、前途に見えてる幸福のために生きたかった。
 ついに母がやって来た。

 やがて家じゅうの者が心痛しだした。
 彼女は例のとおりしかられ、包帯をされ、寝かされ、肉体の苦痛と内心の喜びとに浮かされて惘然《ぼうぜん》となった。
 楽しき夜……そのなつかしい一夜の些細《ささい》な思い出まで皆、彼女には聖《きよ》められたものとなった。
 彼女はクリストフのことを考えてはいなかった。
 何を考えてるかみずから知らなかった。
 幸福であった。

 クリストフはその出来事に多少責任があると思ったので、翌日、容態を尋ねに来た。
 そして初めてやさしい様子を彼女に示した。
 彼女はしみじみとそれを感謝し、怪我《けが》をありがたがった。
 生涯そんな喜びが得らるるなら、生涯苦しんでもいいと希った。
 彼女は身動きもしないで数日間寝ていなければならなかった。
 その間祖父の言葉をくり返し、それを考え回して過した。
 なぜなら疑問が出て来たから。

「……になるだろう、」と祖父は言ったのかしら?
「……になれるだろうが、」と言ったのかしら?
 あるいはまたそんなことは何にも言わなかったのかもしれない。
 いや、祖父は確かに言った。
 彼女はそれに確信があった。
 では彼らは、彼女が醜いことを、クリストフが彼女に我慢しかねてることを、知らなかったのか?

 しかし希望をかけるのはうれしいことだった。
 おそらく自分が思い違いしたんだろう、自分で思ってるほど醜くはないんだろうと、彼女は信ずるにいたった。
 彼女は椅子《いす》の上に身を起こして、正面にかかってる鏡を見てみた。
 もうどう考えていいかわからなかった。
 要するに、祖父と父とは彼女よりもすぐれた批判者だった。
 自分のことは自分で批判できないものだ。

 ああ、もしそうだったら……もしかして……自分でも気がつかずに……もしきれいだったとしたら!
 またおそらく、クリストフの素気ない感情を誇張して考えてるのかもしれなかった。
 だがもちろん、その冷淡な少年は、事変の翌日、同情の様子を彼女に示したあとは、もはや彼女のことを気にかけなかった。
 容態を見に行くことも忘れた。
 しかしローザは彼を許してやった。
 彼は種々なことに忙しいのだ。
 どうしてこちらのことを考えられよう。
 芸術家を他の人々と同じように批判してはいけないのだ。

 けれども、彼女はいかにあきらめても、彼がそばを通りかかると、心を踊らしながら同情の言葉を待たずにはいられなかった。
 ただ一言、ただ一瞥《べつ》……その他のことは想像でこしらえ出せるのだった。
 恋の初めは、ごくわずかな養分をしか必要としない。
 たがいに顔を合せ、たがいにすれちがうだけで、十分である。
 そういうころには、ほとんど一人で恋愛を創《つく》り出すに足りるほどの空想力が、魂から流れだす。

 些細《ささい》なことで魂は恍惚《こうこつ》の境にはいってゆく。
 後にそういう恍惚さを魂がほとんど見出さなくなるのは、次第に満足してゆき、ついに欲求の対象を所有してゆくに従って、ますます要求深くなる時のことである。
 だれもまったく気づかなかったが、ローザはいろんなものでみずからこしらえ上げた物語《ローマンス》の中にばかり生きていた。
 クリストフは人知れず彼女を愛している、けれどあえてそれをうち明け得ないでいる、それは気恥ずかしいからであり、あるいはまた、この感傷的な馬鹿娘の想像に気に入るような、ある小説的な架空的な馬鹿げた理由からである。

 そういうことについて、彼女はまったく荒唐無稽《むけい》なつきない話を作りだしていた。
 馬鹿な作り話だとは自分でも知っていたが、しかしそう認めたくなかった。
 幾日もの間、仕事の上にかがみ込みながら、みずから自分をだまかしては喜んでいた。
 そのためにしゃべることを忘れてしまった。
 彼女の言葉の波は彼女のうちに潜んでしまって、あたかも河が突然地面の下に流れ込んだようなものだった。

 しかしその補いはついていた。
 無言の話の、会話の、なんという耽溺《たんでき》だったろう!
 時としては、書物を読む時その文字の意味を理解するために、一音一音口の中で言ってみなければ承知しない人のように、彼女の唇《くちびる》の動くのが見えることもあった。
 そういう夢から覚《さ》めると、彼女はうれしくもありまた悲しくもあった。
 実際の事情は、今自分が心の中で語ったとおりではないことを、彼女はよく知っていた。

 しかし幸福の反映がまだ彼女のうちに残っていた。そして彼女はまたいっそう頼もしい心地《ここち》で生活しだした。
 クリストフを得られないと絶望してはいなかった。

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