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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  46

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 しかし、クリストフがしばらくその言葉に耳を傾けた後、それは問いをもって問いに答えることであって、自分が求めてるのは、ちょうど自分の疑惑の対象となってるところのものを示してもらいたいのではなく、疑惑を解く方法を示してもらいたいのであると言って、彼の言葉をさえぎると、彼は顔色を曇らし始めた。

 クリストフは思ったよりいっそう不健全であり、理性によってしか説服されまいと自負してることを、レオンハルトは認めざるを得なかった。
 けれども彼はなお、クリストフが唯我独尊主義者の真似《まね》をしている――(彼は本心から唯我独尊主義者たり得る者があろうとは想像だもしなかった)――のだと考えた。

 で彼は落胆もせず、最近に得た学問を鼻にかけて、学校で習い覚えた知識に頼った。
 そして命令よりもいっそうおごそかな調子で、神と不滅なる魂との存在の形而《けいじ》上学的証拠を、ごたごたと並べたてた。
 クリストフは気を張りつめ、額に皺《しわ》を寄せて一生懸命になり、黙って考えつめていた。

 彼はレオンハルトに言葉をくり返させては、その意味を理解し、それを心にかみしめ、その理路をたどろうと、はなはだしく骨折った。
 次に彼はにわかに癇癪《かんしゃく》を起こして、人を馬鹿《ばか》にしてると言いきり、そんなことは頭の遊戯であって、言葉をこしらえだし次にその言葉を実物だと考えて面白がってる話し上手《じょうず》な奴《やつ》どもの冗談だと、言い放った。

 レオンハルトは気を悪くして、そういうことを述べる人たちのりっぱな信仰を保証した。
 クリストフは肩をそびやかして、もし奴らが道化者でないとすれば三文文学者だと、ののしりながら言った。
 そして他の証拠を要求した。
 レオンハルトはクリストフが回復の道ないほど不健全であることを認めて、あきれ返ってしまうと、もう彼にたいする興味を失った。

 不信仰者と議論をして時間をつぶすな――少なくとも彼らが信じまいとつとめてる時には、と言われた言葉を思い出した。
 そんな議論は、相手の利益にもならないうえに、自分の心を乱す恐れがある。
 不幸な者どもは、これを神の意志のままに打捨てておく方がいい。
 もし神に思召しがあったら、彼らを啓発してくださるだろう。
 もし神に思召しがなかったら、だれがあえて神の意志にそむくことをなし得よう?

 それでレオンハルトは、議論を長くつづけようとは固執しなかった。
 そしてただ、当分のうちは仕方がない、いくら論じても、道を見まいと決心してる者にはそれを示すことはできない、祈らなければいけない、御恵みにすがらなければいけない、と静かに言うだけで満足した。
 神の恵みなしには何事もできはしない。
 御恵みを望まなければいけない。
 信ずるためには欲しなければいけない。

 欲する?
 とクリストフは苦々しく考えた。
 それならば神は存在するだろう、なぜなら神が存在することを自分が欲するのだから。
 それならばもう死は存しないだろう、なぜなら死を否定するのが自分にうれしいから。
 嗚呼《ああ》!
 真理を見る心要のない人々、自分の欲するとおりの形に真理を見ることができ、自分の気に入る幻をこしらえることができ、その中に甘く眠ることができる人々、彼らにとっては人生はいかに気楽であることだろう!

 しかしクリストフは、決してそういう寝床には眠れないに違いなかった。
 レオンハルトはなおつづけて話した。
 好きな話題に話をもどして、観照的生活の魅力を説いた。
 そしてこの危険のない境地になると、もう彼の言葉は尽きなかった。
 彼が意外にも憎悪の調子で述べたてる世の喧騒《けんそう》(彼はほとんどクリストフと同じくらい喧騒をにくんでいた)から遠く離れ、暴戻《ぼうれい》から遠ざかり、嘲笑《ちょうしょう》から遠ざかり、毎日人の苦しむ種々の惨《みじ》めな事柄から遠ざかり、世俗を超脱して、信仰のあたたかい確実な寝床から、もはや自分に関係のない遠い世間の不幸を、平和にうちながめるという、神に委《ゆだ》ねた生活の楽しみを、彼はその単調な声を喜びに震わしつつ語った。

 クリストフはその言葉に耳を傾けながら、そういう信仰の利己的なのを看破した。
 レオンハルトはそれに気づきかけて、急いで言い訳をした。
 観照的生活は怠惰な生活ではないと。
 否実際、人は行為よりも祈祷《きとう》によってさらに多く行動するものである。
 祈祷がなかったら、世の中はどうなるであろう?
 人は他人のために罪を贖《あがな》い、他人の罪過を身に荷《にな》い、おのれの価値を他人に与え、世のために神の前を取りなしてやるのである。

 クリストフは黙って耳を傾けてるうちに、反感が募ってきた。
 彼はレオンハルトのうちに、その脱却の偽善を感じた。
 元来彼は、信仰するすべての人に偽善があると見なすほど不正ではなかった。
 かく人生を捨て去ることは、ある少数の人々にあっては、生活の不可能、悲痛な絶望、死にたいする訴え、などであるということを、――さらに少数の人々にあっては、熱烈な恍惚《こうこつ》の感……(それもどれだけつづくか分らないが)……であるということを、彼はよく知っていた。

 しかし大多数の人々にあっては、他人の幸福や真理などよりもむしろ自分一身の静安に多く気をとられてる魂の、冷やかな理屈であることがあまりに多いではないか。
 もし誠実な心にしてそれに気づいたならば、そういうふうに理想を冒涜《ぼうとく》することをどんなにか苦しむに違いない!
 レオンハルトは今や喜々《きき》として、自分の聖なる棲木《とまりぎ》の上から見おろした世界の美と調和とを述べたてていた。

 下界においては、すべてが陰鬱《いんうつ》で不正で苦痛だったが、上界から見おろすと、すべてが明るく輝かしく整然としてるようになった。
 世界はまったく調子の整った時計の箱に似ていた。
 クリストフはもう散漫な耳でしか聴《き》いていなかった。
 彼は考えた、「この男は信じてるのか、もしくは、信じてると自分で思ってるのか?」 けれども彼自身の信仰は、信仰にたいする熱烈な欲求は、そのために少しも揺がなかった。

 レオンハルトのような一愚人の凡庸《ぼんよう》な魂と貧弱な理屈とから、害せられるようなものではなかった。
 夜は町の上に落ちかかっていた。
 二人がすわってる腰掛は闇《やみ》に包まれていた。
 星は輝き、白い霧が河から立上り、蟋蟀《こおろぎ》が墓地の木陰に鳴いていた。

 鐘が鳴りだした。
 最初に最も鋭い鐘の音がただ一つ、訴える小鳥の声のように天に向って響いた。
 次に三度音程下の第二の鐘の音が、その訴えに響きを合した。
 最後に五度音程下の最も荘重な鐘の音が、前の二つに答えるかのように響いた。
 三つの響きが交り合った。
 塔の下にいると、大きな蜂《はち》の巣の響きのように思われた。

 空気も人の心もうち震えた。
 クリストフは息を凝らしながら、音楽家の音楽も、無数の生物のうなってるこの音楽の太洋に比すれば、いかに貧弱なものであるかと考えた。
 人知によって馴養《じゅんよう》され類別され冷やかに定列された世界の傍《かたわ》らにもち出すと、それは粗野な動物界であり、自由な音響の世界である。
 クリストフはその岸も際限もない広茫《こうぼう》たる鳴り響く海原のうちに迷い込んだ。

 そして力強いその呟《つぶや》きが黙した時、その余響が空中に消え去った時、彼は我れに返った。
 彼は驚いてあたりを見回した。
 もう何にも分らなかった。
 周囲も心のうちも、すべてが変っていた。
 もはや神もなかった。

 信仰と同じく、信仰の喪失もまた、神恵の一撃、突然の光明、であることが多い。
 理性はなんの役にもたたない。
 ちょっとしたことで足りる、一言で、一つの沈黙で、鐘の一声で。
 人は漫歩し、夢想し、何物をも期待していない。
 とにわかにすべてが崩壊する。

 人は廃墟《はいきょ》にとり巻かれたおのれを見る。
 一人ぽっちである。
 もはや信じていない。
 クリストフは駭然《がいぜん》として、なぜであるか、どうしてこんなことが起こったのか、了解することができなかった。
 春になって河の氷解するのにも似ていた。

 レオンハルトの声は、蟋蟀《こおろぎ》の声よりもさらに単調に、響きつづけていた。
 クリストフはもはやそれに耳を貸さなかった。
 すっかり夜になっていた。
 レオンハルトは言いやめた。
 クリストフがじっとしてるのに驚き、おそくなったのを心配して、帰ろうと言いだした。
 クリストフは答えなかった。
 レオンハルトはその腕をとらえた。

 クリストフは身を震わし、昏迷《こんめい》した眼でレオンハルトをながめた。
 「クリストフさん、帰らなけりゃいけません。」とレオンハルトは言った。
 「悪魔にでも行っちまえ!」とクリストフは激しく叫んだ。
 「え、クリストフさん、僕が何かしましたか?」とレオンハルトはびっくりしてこわごわ尋ねた。

 クリストフは正気に返った。
 「そうだ、君の言うのはもっともだよ。」と彼はずっと穏かな調子で言った。
 「僕は自分でわからずに言ったんだ。
  神に行くがいい、神に行くがいい!」
 彼は一人そこに残った。
 心は荒廃の極に達していた。

 「嗚呼《ああ》、嗚呼!」と彼は両手を握りしめ、真暗《まっくら》な空の方を熱心にふり仰いで叫んだ。
 「もう信じないのは、どうしたことなのか。
  もう信ずることができないのは、どうしたことなのか。
  自分のうちに何か起こったのか?」
 彼の信仰の破滅と、さっきレオンハルトとかわした会話との間には、あまりに大なる懸隔があった。

 彼の精神的決意のうちに近ごろ起こっていた動揺の原因は、アマリアの煩わしさや家主一家の者のおかしな様子などではなかったのと同じく、彼の信仰破滅の原因は、レオンハルトとの会話でないことは明らかだった。
 そういうのは口実にすぎなかった。
 惑乱は外部から来たのではなかった。
 惑乱は彼のうちにあった。

 見知らぬ怪物が心のうちに動き回ってるのを、彼は感じていた。
 そして自分の思想を内省して、自分の悪を真正面に見るだけの勇気がなかった。
 悪?
 それは一つの悪だろうか?
 倦怠《けんたい》、陶酔、快い苦悶《くもん》が、彼のうちにしみ込んでいた。
 もはや自分が自分のものではなかった。
 昨日まで信じていた堅忍主義のうちに堅く閉じこもろうとしても、駄目《だめ》であった。

 すべてが一挙に動揺した。
 彼はにわかに感じた、燃ゆるような野蛮な際限ない広い世界を……神よりも広大である世界を!……
 そういうのは一瞬間のことにすぎなかった。
 しかし彼のこれまでの生活の均衡は、そのために以後はすっかり破られてしまった。

 全家族のうちで、クリストフがなんらの注意をも払わなかった者は、ただ一人きりだった。
 それは娘のローザだった。
 彼女は少しも美しくなかった。
 そしてクリストフは、自分ではなかなか美しいどころではなかったが、他人の容貌《ようぼう》については非常にやかましかった。
 彼は青年の落ちつき払った残忍さをもっていて、女がもし醜い時には、少なくとも、人に愛情を起こさせるべき年齢を過ぎていず、真面目《まじめ》な穏かなほとんど宗教的な感情をもつまでに達していない時には、そういう醜い女は、彼にとっては存在しないも同じだった。

 そのうえローザは、怜悧《れいり》でないでもなかったが、これといって特別の才能をそなえてはいなかった。
 そしてまた、クリストフを逃げ回らせるほどの饒舌《じょうぜつ》な習慣で毒されていた。
 それでクリストフは、彼女のうちになんにも知るに足るべきものはないと判断して、あえて知ろうともしなかった。

 たかだか彼女の方へちょっと眼を向けるくらいのことだった。
 けれども彼女は、多くの若い娘たちよりもましであった。
 クリストフがあれほど愛したミンナよりも確かにまさっていた。
 媚態《びたい》もなく虚栄心もない善良な少女で、クリストフがやって来たころまでは、自分が醜いということに気づきもせず、それを気にしてもいなかった。

 なぜなら、周囲の人たちも彼女の不器量を気にしていなかったから。
 祖父や母が、しかる時にそれを言いたてることがあっても、彼女はただ笑うばかりだった。
 彼女はそれを信じていなかったし、あるいはそれを大したことだとも思っていなかった。
 そして祖父や母の方も同じだった。
 彼女と同じくらいに醜い女やもっと醜い多くの女も、自分を愛してくれる男を見出していたではないか!

 ドイツ人は、肉体上の欠点にたいしては幸福な寛容さをもっている。
 彼らはそれを見ないでいられる。
 あらゆる顔だちと人間美の最も有名な模範的顔だちとの間に、意外な関係を発見するところの勝手な想像力によって、欠点を美化することさえもできる。
 オイレル老人をして、自分の孫娘はリュドヴィジのジュノーに似た鼻をもってると断言させるには、彼に多く説きたてるの要はなかったろう。
 ただ幸いにも、彼はきわめて小言家《こごとや》でお世辞を言わなかったまでである。

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