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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  45

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 喧騒《けんそう》にたいするそういう憎悪は、彼をレオンハルトに近づかせた。
 この少年だけがただ一人、家じゅうの混雑の中にあって、いつもじっと落着いていて、場合によって声を高めるようなことがなかった。
 言葉を選んで、少しも急がず、控え目な正しい口のきき方をしていた。
 性急なアマリアには、彼が言い終えるのを待つだけの忍耐がなかった。
 皆の者が、彼の悠長《ゆうちょう》さに怒鳴り声をたてた。

 それでも彼は平気だった。
 どんなことがあろうと、彼の平静さと敬意のこもった謙譲さとは変化しなかった。
 クリストフはレオンハルトが宗教生活にはいるつもりだと聞いていた。
 そのために彼の好奇心はひどく動かされていた。
 クリストフは当時、宗教にたいしては、かなり門外漢の状態にあった。
 彼は自分でもどういう心持にあるか知らなかった。
 それを真面目《まじめ》に考えるだけの隙《ひま》がなかった。

 彼は十分の教養がなく、かつ困難な生活にあまり頭を奪われていたので、自分の心を分析してみることができず、思想を整理することができなかった。
 そして激しい性質だったので、自分の心に一致しようがしまいがそんなことはいっこう平気で、極端から極端へと移りゆき、全的信仰から絶対的否定へと移り変った。
 幸福な時には、ほとんど神のことは考えなかった、しかしかなり神を信ずる気持になっていた。

 不幸な時には、神のことを考えた、しかしほとんど神を信じていなかった。
 神が不幸や不正を許すとは、あり得べからざることのように考えられた。
 それに元来彼は、そういうむずかしい事柄をあまり念頭においていなかった。
 根本においては、彼はひどく宗教的だったから、神のことを多く考えなかった。
 彼は神のうちに生きていた。
 神を信ずる必要がなかった。

 神を信ずるのは、弱い者や衰えた者など、貧血的な生活者にとってはよいことである。
 植物が太陽にあこがれるように、彼らは神にあこがれる。
 瀕死《ひんし》の者は生命にとりすがる。
 しかし、自分のうちに太陽と生命とを有する者は、なんで自分以外のところにそれらを求めに行く要があろう?
 クリストフはもしただ一人で生きていたら、おそらくそれらの問題に頭を向けることがなかったであろう。

 しかし社会的生活の義理として、彼はそれらの幼稚な閑問題に考慮を向けざるを得なかった。
 社会においては、それらの問題は不均衡なほど大きな地位を占めていて、人は歩々にそれにぶっつかり、いずれか心を定めなければならないのである。
 力と愛とにあふれてる健全な豊饒《ほうじょう》な魂にとっても、神が存在するか否かを懸念《けねん》することより、もっと緊急な沢山《たくさん》の仕事があたかもないかのようである。

 神を信ずることだけが唯一の問題であるならばまだ分る。
 とはいえ、ある大きさのある形のある色のそしてある種類の、何か一つの神を信じなければいけない。
 このことについても、クリストフは考えてはいなかった。
 彼の思想の中では、キリストもほとんどなんらの地位をも占めていなかった。
 それは、彼がキリストを少しも愛していないからではなかった。
 キリストのことを考えたらそれを愛したに違いなかった。

 しかし彼はキリストのことを考えたことがなかった。
 時にはそれをみずからとがめ、心苦しく思った。
 どうしてキリストにもっと興味を見出せないのか、自分でも分らなかった。
 それでも彼は教義を実行していた。
 家の者は皆教義を実行していた。
 祖父はよく聖書《バイブル》を読んでいた。
 クリストフ自身も几帳面《きちょうめん》にミサに出かけていた。
 彼はオルガン手だったからいくらかミサに手伝ってもいた。
 そして模範的な良心をもってその役目に勉励していた。

 しかし彼は教会堂から出ると、その間何を考えていたかはっきり言い得なかったであろう。
 彼は自分の思想を定めるために経典を読み始めた。
 そしてその中に面白みを見出し、愉快をさえも見出した。
 しかしそれは、だれも神聖な書物とは言いそうもないような、本質的には他の書物と少しも異るところのないある面白い珍しい書物の中から、くみとって来るのに似ていた。
 ほんとうを言えば、彼はキリストにたいして同感をもっていたとするも、ベートーヴェンにたいしてはさらに多く同感をもっていた。

 サン・フロリアン会堂の大オルガンについて、日曜の祭式の伴奏をやっている時、彼はミサによりもむしろ大オルガンの方に多く気をとられていたし、聖歌隊がメンデルスゾーンを奏してる時よりもバッハを奏してる時の方が、はるかに宗教的気分になっていた。
 ある種の式典は彼に激しい信仰心を起こさした。

 しかしその時、彼が愛していたのは神であったろうか、あるいは、不注意な一牧師がある日彼に言ったように、ただ音楽ばかりであったろうか?
 この牧師の冗談は彼を困惑せしめたが、牧師自身はそれを夢にも知らなかったのである。
 他の者だったら、そんな冗談には気も止めず、そのために生活態度を変えようとはしなかったろう。
 (自分が何を考えてるか知らないで平然としてるような者が、世にはいかに多いことだろう!)

 しかしクリストフは、厄介にも真摯《しんし》を欲していたく悩んでいた。
 そのため彼はあらゆることにたいして慎重になっていた。
 一度慎重になれば、常にそうならざるを得なかった。
 彼は苦しんだ。
 自分が二心をもって動いてるように思われた。
 いったい信じているのか、もしくは信じていないのか?
 この問題を一人で解決するには、彼は実際的にもまた精神的にも――(知識と隙《ひま》とを要するので)――その方法をもたなかった。

 それでも問題は解決せなければならなかった。
 さもなくば彼は局外者となるかもしくは偽善者となるかの外はなかった。
 しかも彼は両者のいずれにもなることはできなかった。
 彼は周囲の人々をおずおず観察してみた。
 だれも皆各自に確信あるらしい様子をしていた。
 クリストフは彼らのその理由を知りたくてたまらなかった。
 しかし駄目《だめ》だった。
 だれも彼に明確な答えを与えてくれなかった。
 いつも顧みて他のことをばかり論じた。

 ある者は彼を傲慢《ごうまん》だとし、そういうことは論ずべきものではなく、彼よりも賢いすぐれた多くの人々が議論なしに信仰しているし、彼はただそういう人々と同じようにすればよいと言った。
 または、そういう問いをかけられることは、あたかも自分自身が侮辱されることででもあるかのように、気色を損じた様子をする者もあった。
 けれどもこういう人たちは、自分の事柄にたいして最も確信をいだいてる者では恐らくなかったろう。

 またある者らは、肩をそびやかして微笑《ほほえ》みながら言った、
 「なあに、信仰は別に害になるもんじゃない。」
 そして彼らの微笑は言った、
 「そしていかにも便利だよ!……」
 そういう者どもをクリストフは心から軽蔑《けいべつ》した。
 彼は自分の不安を牧師に打ち明けようとしたことがあった。
 しかしそのためにかえって勇気がくじけてしまった。

 彼は真面目《まじめ》に牧師と議論することができなかった。
 向うはいかにも愛想がよかったけれども、クリストフと彼との間には実際的に平等さがないことを、ていねいに感じさしてくれた。
 彼の優越は論ずるまでもなく分りきったことで、一種の無作法さをもってしなければ彼が押しつけた範囲から議論は出ることができないと、前もって定まっているかのようだった。
 敵の竹刀《しない》を交《か》わすだけの稽古《けいこ》試合だった。

 クリストフが思い切って範囲を踏み越え、一廉《ひとかど》の男にとっては答えるのも面白くないような質問をかけると、彼はただ庇護《ひご》するような微笑を見せ、ラテン語の句をもち出し、神様が解き明かしてくださるように祈りに祈れと、父親めいたとがめ方をした。
 クリストフは、そのていねいな優越の調子に屈辱と不快とを感じながら、話をやめてしまった。
 当不当にかかわらず、いかなることがあろうと、ふたたび牧師なんかの助けを借るまいと思った。

 理知と聖職者の肩書とによって自分より向うがすぐれてることは、彼もよく是認していた。
 しかし一度議論する場合には、もはや優越も低劣も肩書も年齢も名前もないはずである。
 ただ真理だけが肝心であって、真理の前には万人が平等である。
 それで彼は、信仰してる同年配の少年を見出してうれしかった。
 彼自身も信じたいとばかり思っていた。

 そしてレオンハルトからそのりっぱな理由を与えてもらいたいと希《こいねが》った。
 彼の方から話をしかけた。
 レオンハルトはいつもの静かな調子で答えて、別に熱心さを示さなかった。
 彼は何事にも熱心さを見せなかったのである。
 家の中では絶えずアマリアか老人かに邪魔されてまとまった話ができないので、クリストフは夕方食後に散歩をしようと申し出した。

 レオンハルトは礼儀深いので断りかねた。
 しかし気は進まなかった。
 なぜなら、彼の怠惰な性質は、歩行や、会話や、すべて努力を要するようなことを、恐れていたからである。
 クリストフは話を始めるのに困った。
 なんでもない事柄についてへまな二、三句を発した後、彼は少し乱暴なほど突然に、心にかかっていた問題に飛込んでいった。

 ほんとうに牧師になる気か、牧師になるのはうれしいのか、とレオンハルトに尋ねた。
 レオンハルトはまごついて、彼に不安そうな眼つきを向けた。
 しかし彼になんらの敵意もないことを見てとると、安心した。
 「そうです。」
 と彼は答えた。
 「そうでなくてどうしてなれましょう!」
 「ああ、」
 とクリストフは言った、

 「君はほんとに幸福だね!」
 レオンハルトはクリストフの声のうちに、羨望《せんぼう》の気味がこもってるのを感じた。
 そして心地よくおだてられた。
 彼はすぐに態度を変え、胸衿《きょうきん》を開き、その顔は輝いた。
 「そうです、」
 と彼は言った、
 「僕は幸福です。」
 彼は晴れやかになっていた。
 「どうしてそんなふうになったんだい?」
 とクリストフは尋ねた。

 レオンハルトは答える前に、サン・マルタン修道院の歩廊の静かな腰掛に、腰をおろそうと言い出した。
 そこからは、アカシアの植わった小さな広場の一隅《ぐう》が見え、なお向うには夕靄《ゆうもや》に浸った野が見えていた。
 ライン河は丘の麓《ふもと》を流れていた。
 荒れ果てた古い墓地が、墓石は皆雑草の波に覆《おお》われて、閉《し》め切った鉄門の後ろに彼らのそばに眠っていた。

 レオンハルトは語りだした。
 人生をのがれることは、永久の避難所たるべき隠れ家を見出すことは、いかに楽しいことであるかを、満足の色に眼を輝かしながら説いた。
 クリストフはまだ最近の心の傷が生々しくて、この休息と忘却との欲望を激しく感じていた。

 しかしそれには愛惜の念も交っていた。
 彼は溜息《ためいき》をついて尋ねた。
 「それでも、まったく人生を見捨ててしまうことを、君はなんとも思わないのかい?」
 「おう、何が惜しいことがあるもんですか。」と相手は静かに言った。
 「人生は悲しい醜いものではありませんか。」
 「美しいものもまたあるよ。」とクリストフは麗わしい夕暮をながめながら言った。
 「美しいものもいくらかありはしますが、それは非常に少ないんです。」
 「非常に少ないったって、僕にはそれで沢山《たくさん》なんだが。」
 「ああそれは分別くさい考えにすぎません。
  一面から見れば、少しの善と多くの悪とがあります。
  また他面から見れば、地上には善も悪もないんです。
  そしてこの世の後には、無限の幸福があります。
  なんで躊躇《ちゅうちょ》することがありましょう。」

 クリストフはそういう数理的な考えをあまり好まなかった。
 そんな打算的な生涯《しょうがい》はきわめて貧弱に思われた。
 けれども、そこにこそ知恵が存するのだと思い込もうとつとめた。
 「そんなふうでは、」と彼は少し皮肉を交えて尋ねた。
 「一時の楽しみに誘惑される恐れはないだろうね。」
 「あるもんですか!
  それは一時のことにすぎないが、そのあとには永遠があるということが、わかってま  すからね。」
 「じゃあ君は、その永遠というものを確信してるのかい?」
 「もちろんです。」

 クリストフはいろいろ尋ねた。
 彼は欲求と希望とに震えていた。
 もしレオンハルトが神を信ずべき不可抗の証拠を示してくれるとするならば!
 いかに熱心に彼は、神の道に従うために、あらゆる他の世界をみずから捨て去ることだろう。

 レオンハルトは使徒の役目をするのを得意に感じていたし、そのうえ、クリストフの疑惑は形式にたいするものにすぎなくて、理論にはすぐに屈するだけの鑑識をそなえたものであると信じていたから、まず最初に、経典や福音書の権威や奇跡や伝統などの力を借りて説いた。

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