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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  34

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 女は三四郎を見なかった。
 その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
 「お金は……」
 「金なんぞ……」
 二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。
 それなりで、また小半町ほど来た。

 今度は女から話しかけた。
 「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」
 答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。
 「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」
 「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。
 考えると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。
 展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである。

 三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。
 「いつから取りかかったんです」
 「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、
  そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」
 「そのまえって、いつごろからですか」
 「あの服装《なり》でわかるでしょう」

 三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。
 「そら、あなた、椎《しい》の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」
 「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」
 「あの絵のとおりでしょう」
 「ええ。
  あのとおりです」
 二人は顔を見合わした。

 もう少しで白山《はくさん》の坂の上へ出る。
 向こうから車がかけて来た。
 黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡《めがね》を掛けて、遠くから見ても色光沢《つや》のいい男が乗っている。
 この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。
 二、三間先へ来ると、車を急にとめた。
 前掛けを器用にはねのけて、蹴込《けこ》みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面《ほそおもて》のりっぱな人であった。
 髪をきれいにすっている。
 それでいて、まったく男らしい。

 「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」
 と美禰子のまん前に立った。
 見おろして笑っている。
 「そう、ありがとう」
 と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。
 「どなた」と男が聞いた。
 「大学の小川さん」と美禰子が答えた。
 男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶《あいさつ》をした。
 「はやく行こう。
  にいさんも待っている」
 いいぐあいに三四郎は追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。
 金はとうとう返さずに別れた。

       一一

 このごろ与次郎が学校で文芸協会の切符を売って回っている。
 二、三日かかって、知った者へはほぼ売りつけた様子である。
 与次郎はそれから知らない者をつかまえることにした。
 たいていは廊下でつかまえる。
 するとなかなか放さない。
 どうかこうか、買わせてしまう。

 時には談判中にベルが鳴って取り逃すこともある。
 与次郎はこれを時利あらずと号している。
 時には相手が笑っていて、いつまでも要領を得ないことがある。
 与次郎はこれを人利あらずと号している。
 ある時便所から出て来た教授をつかまえた。
 その教授はハンケチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま急いで図書館へはいってしまった。
 それぎりけっして出て来ない。
 与次郎はこれを――なんとも号しなかった。
 後影《うしろかげ》を見送って、あれは腸カタルに違いないと三四郎に教えてくれた。

 与次郎に切符の販売方《はんばいかた》を何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。
 あまり売れすぎて演芸場にはいりきれない恐れはないかと聞くと、少しはあると言う。
 それでは売ったあとで困るだろうと念をおすと、なに大丈夫《だいじょうぶ》だ、なかには義理で買う者もあるし、事故で来ないのもあるし、それから腸カタルも少しはできるだろうと言って、すましている。

 与次郎が切符を売るところを見ていると、引きかえに金を渡す者からはむろん即座に受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。
 気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。
 あとから思うとおりお金が寄るかと聞いてみると、むろん寄らないという答だ。
 几帳面《きちょうめん》にわずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて利益だからこうすると言っている。
 与次郎はこれをタイムス社が日本で百科全書を売った方法に比較している。
 比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなく思った。

 そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事はおもしろかった。
 「相手は東京帝国大学学生だよ」
 「いくら学生だって、君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう」
 「なに善意に払わないのは、文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。
  どうせいくら切符が売れたって、とどのつまりは協会の借金になることは。
  明らかだから」

 三四郎は念のため、それは君の意見か、協会の意見かとただしてみた。
 与次郎は、むろんぼくの意見であって、協会の意見であるとつごうのいいことを答えた。
 与次郎の説を聞くと、今度は演芸会を見ない者は、まるでばかのような気がする。
 ばかのような気がするまで与次郎は講釈をする。
 それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰しているためだか、あるいはただ自分の景気をつけて、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰《めいせき》に区別が立たないものだから、相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化をこうむらない。

 与次郎は第一に会員の練習に骨を折っている話をする。
 話どおりに聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日前《ぜん》に役に立たなくなりそうだ。
 それから背景の話をする。
 その背景が大したもので、東京にいる有為の青年画家をことごとく引き上げて、ことごとく応分の技倆《ぎりょう》を振るわしたようなことになる。

 次に服装の話をする。
 その服装が頭から足の先まで故実ずくめにでき上がっている。
 次に脚本の話をする。
 それが、みんな新作で、みんなおもしろい。
 そのほかいくらでもある。

 与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送ったと言っている。
 野々宮兄妹《きょうだい》と里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。
 万事が好都合だと言っている。
 三四郎は与次郎のために演芸会万歳を唱えた。
 万歳を唱える晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。
 昼間とはうって変っている。
 堅くなって火鉢《ひばち》のそばへすわって寒い寒いと言う。
 その顔がただ寒いのではないらしい。
 はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがて懐手《ふところで》になった。

 三四郎は与次郎の顔を陽気にするために、机の上のランプを端《はじ》から端へ移した。
 ところが与次郎は顎《あご》をがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒く灯《ひ》に照らしている。
 いっこうさえない。
 どうかしたかと聞いた時に、首をあげてランプを見た。
 「この家《うち》ではまだ電気を引かないのか」と顔つきにはまったく縁のないことを聞いた。
 「まだ引かない。
  そのうち電気にするつもりだそうだ。
  ランプは暗くていかんね」
 と答えていると、急に、ランプのことは忘れたとみえて、

 「おい、小川、たいへんな事ができてしまった」と言いだした。
 一応理由《わけ》を聞いてみる。
 与次郎は懐《ふところ》から皺《しわ》だらけの新聞を出した。
 二枚重なっている。
 その一枚をはがして、新しく畳《たた》み直して、ここを読んでみろと差しつけた。
 読むところを指の頭で押えている。
 三四郎は目をランプのそばへ寄せた。
 見出しに大学の純文科とある。

 大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者はいっさいの授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人の講義も必須《ひっす》課目として認めるに至った。
 そこでこのあいだじゅうから適当の人物を人選中であったが、ようやく某氏に決定して、近々《きんきん》発表になるそうだ。
 某氏は近き過去において、海外留学の命を受けたことのある秀才だから至極適任だろうという内容である。

 「広田先生じゃなかったんだな」と三四郎が与次郎を顧みた。
 与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。
 「これはたしかなのか」と三四郎がまた聞いた。
 「どうも」と首を曲げたが、
 「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。
  やりそくなった。
  もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが」
 と言う。

 「しかしこれだけじゃ、まだ風説じゃないか。
  いよいよ発表になってみなければわからないのだから」
 「いや、それだけならむろんかまわない。
  先生の関係したことじゃないから、しかし」
 と言って、また残りの新聞を畳み直して、標題《みだし》を指の頭で押えて、三四郎の目の下へ出した。

 今度の新聞にもほぼ同様の事が載っている。
 そこだけはべつだんに新しい印象を起こしようもないが、そのあとへ来て、三四郎は驚かされた。
 広田先生がたいへんな不徳義漢のように書いてある。
 十年間語学の教師をして、世間には杳《よう》として聞こえない凡材のくせに、大学で本邦人の外国文学講師を入れると聞くやいなや、急にこそこそ運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布《るふ》した。

 のみならずその門下生をして「偉大なる暗闇《くらやみ》」などという論文を小雑誌《こざっし》に草せしめた。
 この論文は零余子《れいよし》なる匿名のもとにあらわれたが、じつは広田の家に出入する文科大学生小川三四郎なるものの筆であることまでわかっている。
 と、とうとう三四郎の名前が出て来た。
 三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。
 与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。
 二人《ふたり》ともしばらく黙っていた。

 やがて、三四郎が、
 「困るなあ」と言った。
 少し与次郎を恨んでいる。
 与次郎は、そこはあまりかまっていない。
 「君、これをどう思う」と言う。
 「どう思うとは」
 「投書をそのまま出したに違いない。
  けっして社のほうで調べたものじゃない。
  文芸時評の六号活字の投書にこんなのが、いくらでも来る。
  六号活字はほとんど罪悪のかたまりだ。
  よくよく探ってみると嘘《うそ》が多い。
  目に見えた嘘をついているのもある。

  なぜそんな愚な事をやるかというとね、君。
  みんな利害問題が動機になっているらしい。
  それでぼくが六号活字を受持っている時には、性質《たち》のよくないのは、
  たいてい屑籠《くずかご》へ放り込んだ。
  この記事もまったくそれだね。
  反対運動の結果だ」
 「なぜ、君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」
 与次郎は「そうさ」と言っている。
 しばらくしてから、
 「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」と説明した。

 けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかった。

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