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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  27

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 美禰子はその一枚の前にとまった。
 「ベニスでしょう」
 これは三四郎にもわかった。
 なんだかベニスらしい。
 ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。
 三四郎は高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。
 それからこの字が好きになった。
 ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。
 黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片《きれ》とをながめていた。

 すると、
 「兄《あに》さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。
 三四郎にはこの意味が通じなかった。
 「兄さんとは……」
 「この絵は兄さんのほうでしょう」
 「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。
 「だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」
 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。
 同じように外国の景色《けしき》をかいたものが幾点となくかかっている。
 「違うんですか」 
 「一人と思っていらしったの」
 「ええ」と言って、ぼんやりしている。
 やがて二人が顔を見合わした。
 そうして一度に笑いだした。

 美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、
 「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。
 三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。
 先へ抜けた女は、この時振り返った。
 三四郎は自分の方を見ていない。
 女は先へ行く足をぴたりと留めた。
 向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

 「里見さん」
 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。
 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。
 事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。
 原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。
 美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。

 見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。
 人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。
 そうして何かささやいた。
 三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。
 聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。
 もう挨拶《あいさつ》をしている。

 野々宮は三四郎に向かって、
 「妙な連《つれ》と来ましたね」と言った。
 三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
 「似合うでしょう」と言った。
 野々宮さんはなんとも言わなかった。
 くるりとうしろを向いた。

 うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。
 その絵は肖像画である。
 そうしていちめんに黒い。
 着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬《ほお》の肉が落ちている。
 「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。

 原口は今しきりに美禰子に何か話している。
 もう閉会である。
 来観者もだいぶ減った。
 開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。
 きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。
 うまく出っくわしたものだ。

 この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。
 いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。
 必死の勉強をやらなければならない。
 それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである。
 迷惑だろうが大晦日《おおみそか》でもかかしてくれ。
 「その代りここん所へかけるつもりです」
 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。

 野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
 「どうです。
  ベラスケスは。
  もっとも模写ですがね。
  しかもあまり上できではない」
 と原口がはじめて説明する。
 野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

 「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
 「三井《みつい》です。
  三井はもっとうまいんですがね。
  この絵はあまり感服できない」
 と一、二歩さがって見た。
 「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
 原口は首を曲げた。

 三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。
 「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。
 原口は美禰子にばかり話しかける。
 「まだ」
 「どうです。
  もうよして、いっしょに出ちゃ。
  精養軒でお茶でもあげます。
  なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。
  会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。
  懇意の男だから。
  今ちょうどお茶にいい時分です。
  もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐《デナー》には早し、中途はんぱになる。
  どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。
 三四郎はどうでもいい顔をしている。
 野々宮は立ったまま関係しない。
 「せっかく来たものだから、みんな見てゆきましょう。
  ねえ、小川さん」
 三四郎はええと言った。
 「じゃ、こうなさい。
  この奥の別室にね。
  深見《ふかみ》さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。
  先へ行って待っていますから」
 「ありがとう」

 「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。
  どこまでも深見さんの水彩なんだから。
  実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、
  なかなかおもしろいところが出てきます」
 と注意して、原口は野々宮と出て行った。

 美禰子は礼を言ってその後影を見送った。
 二人は振り返らなかった。
 女は歩をめぐらして、別室へはいった。
 男は一足あとから続いた。
 光線の乏しい暗い部屋である。
 細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである。

 三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向《ひなた》へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。
 その代り筆がちっとも滞っていない。
 ほとんど一気呵成《いっきかせい》に仕上げた趣がある。
 絵の具の下に鉛筆の輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落《しゃらく》な画風がわかる。

 人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿《からざお》のようである。
 ここにもベニスが一枚ある。
 「これもベニスですね」と女が寄って来た。
 「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。
 「さっき何を言ったんですか」
 女は「さっき?」と聞き返した。
 「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」
 女はまたまっ白な歯をあらわした。
 けれどもなんとも言わない。

 「用でなければ聞かなくってもいいです」
 「用じゃないのよ」
 三四郎はまだ変な顔をしている。
 曇った秋の日はもう四時を越した。
 部屋は薄暗くなってくる。
 観覧人はきわめて少ない。
 別室のうちには、ただ男女《なんにょ》二人の影があるのみである。

 女は絵を離れて、三四郎の真正面に立った。
 「野々宮さん。
  ね、ね」
 「野々宮さん……」
 「わかったでしょう」
 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。
 「野々宮さんを愚弄《ぐろう》したのですか」
 「なんで?」
 女の語気はまったく無邪気である。

 三四郎は忽然《こつぜん》として、あとを言う勇気がなくなった。
 無言のまま二、三歩動きだした。
 女はすがるようについて来た。
 「あなたを愚弄したんじゃないのよ」
 三四郎はまた立ちどまった。
 三四郎は背の高い男である。
 上から美禰子を見おろした。
 「それでいいです」
 「なぜ悪いの?」
 「だからいいです」

 女は顔をそむけた。
 二人とも戸口の方へ歩いて来た。
 戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。
 男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。
 美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
 「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。
 向こうから二、三人連の観覧者が来る。
 「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。

 下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。
 「精養軒へ行きますか」
 美禰子は答えなかった。
 雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。
 さいわい雨は今降りだしたばかりである。
 そのうえ激しくはない。
 女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
 「あの木の陰へはいりましょう」
 少し待てばやみそうである。
 二人は大きな杉の下にはいった。

 雨を防ぐにはつごうのよくない木である。
 けれども二人とも動かない。
 ぬれても立っている。
 二人とも寒くなった。
 女が「小川さん」と言う。
 男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

 「悪くって?
  さっきのこと」
 「いいです」
 「だって」と言いながら、寄って来た。
 「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。
  野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。

 三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。
 必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。
 三四郎は、もう一ぺん、
 「だから、いいです」と答えた。

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