ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  21

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 三四郎も黙っている。
 三四郎は高飛びに口を出すのをいさぎよしとしないつもりである。
 すると美禰子が聞いた。
 「この上には何かおもしろいものがあって?」
 この上には石があって、崖があるばかりである。
 おもしろいものがありようはずがない。

 「なんにもないです」
 「そう」と疑いを残したように言った。
 「ちょいと上がってみましょうか」よし子が、快く言う。
 「あなた、まだここを御存じないの」と相手の女はおちついて出た。
 「いいからいらっしゃいよ」
 よし子は先へ上る。

 二人はまたついて行った。
 よし子は足を芝生のはしまで出して、振り向きながら、
 「絶壁ね」と大げさな言葉を使った。
 「サッフォーでも飛び込みそうな所じゃありませんか」
 美禰子と三四郎は声を出して笑った。
 そのくせ三四郎はサッフォーがどんな所から飛び込んだかよくわからなかった。
 「あなたも飛び込んでごらんなさい」と美禰子が言う。
 「私?
  飛び込みましょうか。
  でもあんまり水がきたないわね」
 と言いながら、こっちへ帰って来た。

 やがて女二人のあいだに用談が始まった。
 「あなた、いらしって」と美禰子が言う。
 「ええ。
  あなたは」
 とよし子が言う。
 「どうしましょう」
 「どうでも。

  なんならわたしちょっと行ってくるから、ここに待っていらっしゃい」
 「そうね」
 なかなか片づかない。
 三四郎が聞いてみると、よし子が病院の看護婦のところへ、ついでだから、ちょっと礼に行ってくるんだと言う。
 美禰子はこの夏自分の親戚《しんせき》が入院していた時近づきになった看護婦を尋ねれば尋ねるのだが、これは必要でもなんでもないのだそうだ。

 よし子は、すなおに気の軽い女だから、しまいに、すぐ帰って来ますと言い捨てて、早足《はやあし》に一人丘を降りて行った。
 止めるほどの必要もなし、いっしょに行くほどの事件でもないので、二人はしぜん後にのこるわけになった。
 二人の消極な態度からいえば、のこるというより、のこされたかたちにもなる。

 三四郎はまた石に腰をかけた。
 女は立っている。
 秋の日は鏡のように濁った池の上に落ちた。
 中に小さな島がある。
 島にはただ二本の木がはえている。
 青い松《まつ》と薄い紅葉がぐあいよく枝をかわし合って、箱庭の趣がある。
 島を越して向こう側の突き当りがこんもりとどす黒く光っている。

 女は丘の上からその暗い木陰《こかげ》を指さした。
 「あの木を知っていらしって」と言う。
 「あれは椎《しい》」
 女は笑い出した。
 「よく覚えていらっしゃること」
 「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」
 「ええ」
 「よし子さんの看護婦とは違うんですか」
 「違います。
  これは椎、といった看護婦です」
 今度は三四郎が笑い出した。

 「あすこですね。
  あなたがあの看護婦といっしょに団扇《うちわ》を持って立っていたのは」
 二人のいる所は高く池の中に突き出している。
 この丘とはまるで縁のない小山が一段低く、右側を走っている。
 大きな松と御殿の一角《ひとかど》と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。
 「熱い日でしたね。
  病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。
  あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」
 「熱いからです。
  あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたの  です。
  なんだか心細くなって」

 「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」
 「いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
 「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」
 「ええ、珍しくフロックコートをお着になって。
  ずいぶん御迷惑でしょう。
  朝から晩までですから」
 「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」
 「だれが?
  野々宮さんが?
  あなたもずいぶんね」
 「なぜですか」
 「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」

 三四郎はまた話頭を転じた。
 「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」
 「会場で?」
 「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。
 女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。
 少し下唇《したくちびる》をそらして笑いかけている。

 三四郎はたまらなくなった。
 何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。
 「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」
 三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。
 女はくれともなんとも言わない。
 「あなた、原口《はらぐち》さんという画工《えかき》を御存じ?」と聞き直した。
 「知りません」
 「そう」
 「どうかしましたか」
 「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、  私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意して  くだすったんです」
 美禰子はそばへ来て腰をかけた。

 三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。
 「よし子さんはにいさんといっしょに帰らないんですか」
 「いっしょに帰ろうったって帰れないわ。
  よし子さんは、きのうから私の家にいるんですもの」
 三四郎はその時はじめて美禰子から野々宮のおっかさんが国へ帰ったということを聞いた。

 おっかさんが帰ると同時に、大久保を引き払って、野々宮さんは下宿をする。
 よし子は当分美禰子の家《うち》から学校へ通うことに、相談がきまったんだそうである。
 三四郎はむしろ野々宮さんの気楽なのに驚いた。
 そうたやすく下宿生活にもどるくらいなら、はじめから家を持たないほうがよかろう。
 第一鍋、釜《かま》、手桶《ておけ》などという世帯《しょたい》道具の始末はどうつけたろうと、よけいなことまで考えたが、口に出して言うほどのことでもないから、べつだんの批評は加えなかった。

 そのうえ、野々宮さんが一家の主人《あるじ》から、あともどりをして、ふたたび純書生と同様な生活状態に復するのは、とりもなおさず家族制度から一歩遠のいたと同じことで、自分にとっては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移したような好都合にもなる。
 その代りよし子が美禰子の家へ同居してしまった。

 この兄妹《きょうだい》は絶えず往来していないと治まらないようにできあがっている。
 絶えず往来しているうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移ってくる。
 すると野々宮さんがまたいつなんどき下宿生活を永久にやめる時機がこないともかぎらない。
 三四郎は頭のなかに、こういう疑いある未来を、描きながら、美禰子と応対をしている。
 いっこうに気が乗らない。
 それを外部の態度だけでも普通のごとくつくろおうとすると苦痛になってくる。

 そこへうまいぐあいによし子が帰ってきてくれた。
 女同志のあいだには、もう一ぺん競技を見に行こうかという相談があったが、短くなりかけた秋の日がだいぶ回ったのと、回るにつれて、広い戸外の肌寒《はださむ》がようやく増してくるので、帰ることに話がきまる。
 三四郎も女連《れん》に別れて下宿へもどろうと思ったが、三人が話しながら、ずるずるべったりに歩き出したものだから、きわだった挨拶《あいさつ》をする機会がない。

 二人は自分を引っ張ってゆくようにみえる。
 自分もまた引っ張られてゆきたいような気がする。
 それで二人にくっついて池の端《はた》を図書館の横から、方角違いの赤門の方へ向いてきた。
 そのとき三四郎は、よし子に向かって、
 「お兄《あに》いさんは下宿をなすったそうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、
 「ええ。
  とうとう。
  ひとを美禰子さんの所へ押しつけておいて。
  ひどいでしょう」
 と同意を求めるように言った。

 三四郎は何か返事をしようとした。
 そのまえに美禰子が口を開いた。
 「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。
  ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」
 と大いに野々宮さんをほめだした。
 よし子は黙って聞いている。

 学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。
 野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも必竟《ひっきょう》野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。
 美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。

 三四郎は赤門の所で二人に別れた。
 追分《おいわけ》の方へ足を向けながら考えだした。
 なるほど美禰子の言ったとおりである。
 自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。
 自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。
 学問という学問もなければ、見識という見識もない。
 自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。

 そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。
 さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。
 あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄《ぐろう》した言葉かもしれない。
 三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。

 三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。
 ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。
 与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。
 学生は帽子をとって礼をしながら、
 「昨夜は。
  どうですか。
  とらわれちゃいけませんよ」
 と笑って行き過ぎた。


       七

 裏から回ってばあさんに聞くと、ばあさんが小さな声で、与次郎さんはきのうからお帰りなさらないと言う。
 三四郎は勝手口に立って考えた。
 ばあさんは気をきかして、まあおはいりなさい。
 先生は書斎においでですからと言いながら、手を休めずに、膳椀《ぜんわん》を洗っている。

 今晩食《ゆうめし》がすんだばかりのところらしい。
 三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝いに書斎の入口まで来た。
 戸があいている。
 中から「おい」と人を呼ぶ声がする。
 三四郎は敷居のうちへはいった。
 先生は机に向かっている。
 机の上には何があるかわからない。
 高い背《せ》が研究を隠している。
 三四郎は入口に近くすわって、
 「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。
 先生は顔をうしろへねじ向けた。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名作を読みませんか 更新情報

名作を読みませんかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。