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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  29

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ゴーリキイは、伸子たちに、ソヴェトをどう思うか、ときいた。
 伸子は少し考えて、
 「大変面白いと思います」
 と答えた。
 「ふむ」
 ゴーリキイは、面白い、という簡単な表現がふくむ端から端までの内容を吟味するようにしていたが、やがて、
 「そう。たしかに面白いと云える」
 と肯いた。

 「ソヴェトは、大規模な人類的実験をしています」
 そして、日本へ行ったソヴェト作家の噂が話題になった。
 また、日本で翻訳されているゴーリキイの作品につき、上演された「どん底」につき、主として素子が話した。
 素子は、素子の訳したチェホフの書簡集を、伸子は伸子の小説をゴーリキイにおくった。
 ゴーリキイは、綺麗な本だと云って伸子の小説をうちかえして眺めながら、日本の法律は婦人の著作について特別な制限を加えていないのかと素子に向ってたずねた。

 素子は、
 「女でも自分の意志で本が出せます――勿論検閲が許す範囲ですが」
 と答えた。ゴーリキイは、
 「そうですか」
 と意外そうだった。
 「イタリーでは、婦人が著書を出版するときには、若い娘ならば父兄か、結婚している婦人なら夫の許可が必要です」
 そして、真面目に考えながら、
 「それはむしろ不思議なことだ」
 と云った。

 「日本というところは婦人の社会的地位を認めていないのに、本だけが自由に出せるというのは――」
 「それだけ日本が女にとって自由だということではないと思います」
 伸子が、やっとそれだけのロシア語をつかまえて並べるように云った。
 「それは、古い日本の権力が、女の本をかく場合を想像していなかったからでしょう」
 「――あり得ることだ」
 社会のそういう矛盾を度々見て来ている人らしく、ゴーリキイは、笑った。
 伸子たちも笑った。

 三人の間に、やがて日本の根付《ねつけ》の話が出た。
 はじめゴーリキイは、誰かにおくられて日本の独特な美術品のニッケをもっていると云った。
 話してゆくと、それは根付のことだった。
 低い肱かけ椅子にかけているゴーリキイは顔のよこから六月の朝の澄んだ光線をうけて額に大きく深い横皺が見えた。
 ネワ河の小波だつ川面をわたって、ひろく窓から入っている明るさは、ゴーリキイの薄灰色のやわらかな服の肩にも膝にも落ちて、それは絨毯の上で伸子たちの靴のつまさきを光らせている。
 自分が話そうとするよりもゴーリキイの真率でとりつくろったところのない全体の様子を伸子は、吸いとるように眺めた。

 ゴーリキイには、有名な人間が自分の有名さですれているようなうわ光りが微塵《みじん》もなかった。
 ゴーリキイの全体は艷消しで、年をとったことで一層人間に大切なものは何かということしか気をとめなくなった人の、しんからの人間らしさ、その意味での気もちよい男らしさがあった。
 いろいろなことをつよく感じとりながら、ゴーリキイの精神には誇張がなかった。
 あぶなっかしい伸子のロシア語を、ゴーリキイは骨骼の大きい上体を椅子の上にこごみかげんにして、左膝へつっぱった肱を張りながらきき、あり得ることだと云って肯くようなとき、ゴーリキイの簡素さと誠実は伸子に限りないよろこびと激励を与えた。

 そろそろ暇《いとま》をつげかけたとき伸子がゴーリキイに云われて贈呈した小説の本の扉へ、ロシア語で署名した。
 書きにくい字が、改まったらなお下手にかけた。
 伸子はそれをきまりわるがったが、ゴーリキイは、ほんとにそんなことは問題にしないで、ゆっくり、
 「ニーチェヴォ」
 と云いながら、窓の方へ体をよじるようにして伸子の書いた字の濡れているインクの上を吹いた。
 それは自然で、伸子の心をぎゅーっとつかむような自然さだった。
 ゴーリキイに会っていると、伸子のよんだ作品の世界のすべてが、人間の多様さと真実性をもって確認される感じだった。

 ゴーリキイの室を出て、自分たちの部屋へと廊下を歩いて来ながら、伸子はうれしさから段々しんみりと沈んだ心持に移って行った。
 ゴーリキイの深い味わいのある艷消しの人間性にこのましさを感じたとき、伸子は反射的に、父の泰造にある艷を思った。
 泰造のもっている艷の世俗性が伸子にまざまざとした。
 そしてそこに赤インクのかぎが見えた。
 伸子はまばたきをとめて父の艷と赤インクのかぎとを見つめるような心持になった。
 一人の芸術家が、個性的だというような表現で概括されるうちは、そのひとの線はほそく、未発展のものだということも、ゴーリキイを見ると伸子に感じられた。

 それから五、六日後、伸子と素子とはヨーロッパ・ホテルから冬宮わきにある学者の家へ移った。
 レーニングラード対外文化連絡協会の紹介と、メーデイのすぐあと日本へかえった秋山宇一を送ってからレーニングラードへ来ている内海厚の斡旋であった。
 そこはネワ河の河岸で、窓ぎわにたつと目の下に黒く迅いネワの流れがあった。
 遠く対岸にペテロパウロフスク要塞の金の尖塔が見えている。
 伸子と素子とが並んで、ネワの流れの落日を眺めたりする窓は、二人の立姿が小さく見えるぐらい高く大きかった。
 白夜の最中で、毎日午後十二時をすぎての日没だった。

 伸子と素子が日本の女の肌理《きめ》のこまかい二つの顔を真正面から西日に照らされながら見ている前で、太陽は赤い大きな火の玉のようにくるめきながら、対岸に真黒く見えている三本の大煙突の間に沈みかかっていた。
 ネワの流れが先ず暗くなって鋼《はがね》色に変った。
 しかし、まだ伸子たちの顔を眩しくてりつけている斜陽は、もとウラジーミル大公の宮殿だったというその部屋の、天井や壁についている金の縁飾りを燃え立たせている。
 伸子たちが立って入日を見ている窓のよこに大煖炉があって、その上の飾り鏡に、西日をうけて眩しいその室の白堊の欄間や天井の一部が映っていた。
 レーニングラードのこの季節の日没と日の出は一つの見ものだった。

 対岸に真黒く突立っている三本の煙突の一本めと二本めとの間に沈んだ太陽は、十二三分の間をおいただけで、すぐまた、沈んだところからほんの僅か側へよった地点からのぼりはじめた。
 沈むときよりも、手間どるようにその太陽はのぼって来る。
 バルト海からの上げ潮でふくらみはじめたネワの水の重い鋼色の上を光が走った。

 河岸通りには、人通りが絶えている。
 こういう時間の眺めは憂愁にみち、また美しかった。
 伸子はレーニングラードという都会がそんなにも北の果ちかくあることや、地球の円さが日没と日の出とにそんなにはっきりあらわされる自然にうたれた。
 レーニングラードは、ソヴェト同盟の首都でない。
 このことが、半年モスクワでばかり生活しつづけて来た伸子と素子とに、レーニングラードへ来てみるまではわからなかったそこでの暮しの味わいを知らせた。
 レーニングラードヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)は、伸子たちの泊っている元ウラジーミル大公の邸、ドーム・ウチョーヌイフ(学者の家)の通りを三位一体橋の方へゆく左側にあった。
 木煉瓦のしきつめられたそのあたりの通りは広くて、いつも静かで、ヨーロッパの貴族屋敷らしい鉄柵のめぐらされた庭の六月の青葉の茂みが歩道の上まで深く枝をのばしている。
 冬宮の周辺のそのあたりには、まるで人気のない建物があった。

 同じ広い通りの右側に、鉄柵のめぐらされた大邸宅が一つあった。
 槍形に尖《とが》った先が金色につらなっている鉄柵ごしに、窓々のかたく閉された館《やかた》が見え、ぐるりに繁っている雑草とその雑草に埋もれて大きい車寄せの石段が見えた。
 規則正しい輪廓を夏の外光に照りつけられている石造の人気ない大きなその家は、物音のすくないその通りにひとしお物音を消して立っていて、伸子と素子とがその長い鉄柵に沿った歩道を行くと、とかげが雑草の根もとを走ってかくれた。
 寂しいその通りは、三色菫の植えこまれた花壇が遠くに見える公園へ向ってひらいた。

 その左角の鉄柵に、レーニングラードヴ・オ・ク・ス(対外文化連絡協会)の白く塗られた札がかかっていた。
 瀟洒《しょうしゃ》な鉄門の左右からおおいかぶさるように青葉が繁っていて、高い夏草の間に小砂利道がひと筋とおっている。
 その門内にはいって伸子たちはおどろいた。
 そこは廃園だった。
 楡の枝かげの雑草のなかに、壊れた大理石の彫刻の台座の破片が二つ三つころがっていて、茂みのむこうは、河岸通りの見える鉄柵だった。
 そこにネワの流れが見えていた。

 濃い夏草と楡の下枝のむこうの鉄柵ごしに見えるネワの流れは、伸子がほかのどこで見たよりも迅く、つよく流れているようだった。
 その水音が聴えて来るかと思うほどひっそりとした真昼の小砂利道は、ドアの片びらきになっている一つの戸口へ伸子たちを導いた。
 奥の方へつづいた大きい建物のはずれにあいているそのドアは、事務所めいたところがどこにもなくて、外壁に改めてかけられているレーニングラードヴ・オ・ク・スの札がなければ、あたりの人気なさは伸子たちに自分たちを侵入者のように感じさせそうだった。
 伸子たちは、タイプライターの音をたよりに二階の一つの広間へ入って行った。
 そこは、壁に絹をはった本式の貴族の広間だった。

 楕円形の大テーブルが中央に置いてあって、その上にきちんと、ヴ・オ・ク・スの出版物が陳列されている。
 そこを通りぬけた小部屋でタイプライターがうたれている。
 声をかけて、あけはなされているその室の入口に立ったとき、伸子はまた不思議な心持になった。
 若いきれいな女のひとがたった一人、そのバラ色で装飾された室の真中にフランス脚の茶テーブルを出して、その上でタイプライターをうっていた。
 なぜ、このひどく華奢《きゃしゃ》な、なめらかなこめかみに蒼みがかった金髪を波うたせている女のひとは、こんな室の真中でタイプライターをうっているのだろう。
 その若い女のひとのこのみが、そういう位置を彼女に選ばせているらしかった。

 伸子たちが、そのきれいな人とでは事務的にてきぱきとはすすまない話をしているところへ、外から、この室の責任者である中年の男のひとが戻って来た。
 淡い肉桂色のネクタイをして、手入れのよい鳶色の髪や白い額の上に、いまその下をとおって来た青葉のかげが映っていそうな風采だった。
 モスクワのブロンナヤ通りに面して、フランスまがいの飾りドアが、一日中開いたりしまったりしているモスクワヴ・オ・ク・スの活況と、ここのしずけさとは、何というちがいだろう。
 モスクワのヴ・オ・ク・スは、あぶくを立て湯気をたてて煮えたっているスープ鍋だった。
 ここの、廃園の奥にあるレーニングラードヴ・オ・ク・スは丁度手綺麗な切子ガラスのオードウヴル(前菜)の皿のようだった。
 よけいなものは何一つない。
 いるだけのものは揃えられている。

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