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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 28

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 前後して、保から久しぶりにたよりが来た。
 またハガキだった。温室は好調でメロンが育ちつつあるということや、僕もそろそろ大学の入学準備で、科の選定をしなければならない。
 姉さんはどう思いますか、僕は大体哲学か倫理にしようと考えて居ます。と例の保の、軽いペンのつかいかたの几帳面な細字でかかれていた。

 その頃から、モスクワでは目に見えて夕方の時間がのびた。
 午後九時になっても、うすら明りのなかにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が艷の消えた金色で大きく浮び、街々の古い建物にぬられている桃色や灰色が単調な、反射光線のない薄明りの中で街路樹の葉の濃い緑とともにパステル絵のように見えた。
 物音も不思議に柔らかく遠くひびくようになった。
 夜のなくなりはじめた広い空に向って、あいている二つの窓にカーテンのない伸子たちの部屋では、いつの間にやら二時三時になった。
 電車が通らなくなってしまってからの時刻、静かな、変化のないうすら明りにつつまれて、まばらに人通りのあるアストージェンカの街角の眺めは、そよりともしない並木道《ブリワール》の深い茂みの一端をのぞかせて、魅力のある外景であった。
 窓のそとの小さいバルコニーへ椅子を出して、伸子と素子とはいつまでも寝なかった。

 伸子は、保が、大学で哲学だの倫理だのを選ぼうとしていることを気にした。
 「倫理学なんて、それだけを専門にするような学問なのかしら。
  あんまりあのひとらしくて、わたし苦しくなってしまう」
 くもった真珠色のうすら明りの中で、小さく美しく焔を燃えたたせながら素子はマッチをすってタバコに火をつけた。
 そして、指先で、唇についたタバコの粉をとりながら云った。
 「哲学の方が、そりゃましさね」
 「哲学って云ったって……」

 保のそういう選択に加わっているに相違ない越智の考えや、それに影響されている多計代の衒学好みを思いあわせ、伸子は信用しないという表情をかえなかった。
 「哲学なんかやって、あのひとは益々出口がなくなってしまうばかりだわ、どうせカントなんかやるんだろうから……」
 昔東大の夏期講座できいたカントの哲学の講義を思いおこし、保の抽象癖が、カント好みで拡大され組織されるのかと思うと、伸子はこわいような気がした。
 そんな学者になってしまった保を想像すると、伸子は保の一生と自分の生涯とを繋ぐどんな心のよりどころも失われてしまうように思った。
 「あのひとに必要なのは、思いきって社会的にあのひとを突き出してくれる学科だのに」
 「経済でもやればいいのさ、いっそのこと。
  さもなければ、哲学だって、ここの国でやってるような方法で哲学をやりゃいいのさ。
  それなら、生きていることはたしかだもの」

 でも保は、保のこのみで、あらゆる現実から絶対に影響されない純粋な真理を求めようとしている。
 そのことは伸子にわかりすぎるほどわかっていた。
 それは人間と自然の諸関係のおどろくべき動きそのものにわけ入って、その動きを肯定し、動きの法則を見出そうとする唯物弁証法の方向とはちがった。
 保は、何かの折唯物という言葉にさえ反撥したのを、伸子は覚えていた。
 利己という字につづいた物質的というような意味に感じて。

 しばらく言葉をとぎらせて伸子と素子とがうすら明りの街を見下している午前二時のバルコニーへ、遠くから一つ馬の蹄の音がきこえて来た。
 その蹄の音は、伸子たちのバルコニーが面している中央美術館通りから響いて来た。
 石じき道の上へ四つの蹄が順ぐり落ちる音がききわけられるほどゆっくり、アストージェンカに向って進んで来る。
 やや暫くかかって、モスクワの一台の辻馬車があらわれた。
 それは、人も馬も眠りながら、白夜の通りを歩いてゆく馬車だった。

 黒い馬が、頸を垂れて挽いてゆく辻馬車の高い御者台の上で、毛皮ふちの緑色の円型帽をかぶった御者は、すっかりゆるめた手綱をもったまま両手をさしかわしに外套の袖口に入れて、こくりこくり揺られている。
 座席に一人の酔っぱらいが半分横倒しにのっていた。
 薄い外套の下に白ルバーシカの胸をはだけ、ギターをかかえている。
 馬車は、伸子たちの目の前へあらわれたときののろさで、アストージェンカの角へ見えなくなって行った。
 馬車が見えなくなったあといつまでも、蹄の音が単調なうす明りの中に建ち並んでいる通りの建物に反響して、伸子たちのところまできこえた。

 伸子は、翌日、保へあて、手紙をかいた。
 伸子には、倫理学が独立した専門の学問として考えられないこと。
 哲学そのものが、今日の世界では進歩して来ている。
 彼は、どういう方向で哲学をやって行こうとしているのか知らしてほしい、そういう意味を書いた。
 伸子が保へその手紙を出して一週間ばかり立ったとき、おっかけて保からまた一枚のハガキが来た。
 それには、前のたよりと何の関係もなく、保の夏のプランが語られていた。

 僕はこの夏は一つ大いに愉快にやって見ようと思います。
 保としては珍しく、決断のこもった調子の文章であった。
 字はいつもながらの字で、大いにテニスをやり、自転車をのりまわし、ドライヴもしてと書いてあった。
 伸子は、そのハガキを手にとって読んだとき、何となし唐突なように感じなくもなかった。
 けれども、伸子が保から来たそのハガキをよんでいるモスクワは、もう夏だった。
 並木道《ブリワール》の入口に、赤と桃色の派手な縞に塗ったアイスクリームの屋台店が出て、遊歩道には書籍市が出来た。
 日曜日には菩提樹の下で演奏される音楽が伸子たちの部屋へもきこえた。
 レーニングラードへ行こうとしてその支度にとりかかっていた伸子は、保の夏のプランというものも、ひとりでに自分がその中にいるモスクワの夏景色にあてはめて読みとった。


    第三章


        一

 白夜の美しいのは六月のはじめと云われている。
 伸子と素子とはその季節に、二ヵ月あまり暮したアストージェンカの部屋をひきあげてレーニングラードへ向った。

 春とともに乾きはじめて埃っぽくなるモスクワは、メーデイがすぎ、にわかに夏めいた日光がすべてのものの上に躍りだすと、いかにも平地の都会らしく、うるおいのない暑さになって来た。
 伸子たちは夜の十一時すぎの汽車でモスクワの北停車場を出発した。
 汽車がすいていて、よく眠って目がさめたとき列車の窓の外に見える風景が伸子をおどろかせた。

 列車は、ところどころに朽ちかけた柵のある寂しいひろい野原に沿って走っていた。
 その野原の青草を浸す一面のひたひた水が春のまし水のように明けがたの鈍い灰色の空の下に光っていた。
 瑞々しい若葉をひろげた白樺の林がその水の中に群れ立っている。

 白と緑と灰色の色調の水っぽくて人気ない風景は、いかにも北の海近い土地に入って来た感じだった。
 汽車の窓から見えた北の国らしい風物の印象は、レーニングラードという都会にはいって一層つよめられた。
 バルト海に面していくすじもの運河をもつこの都会は十八世紀につくられた。
 橋々は繁華で、いまは十月通りと呼ばれるもとのニェフスキー大通り《プロスペクト》はヨーロッパ風だけれども、都会の目抜きなところがドイツをまねたヨーロッパ式でいかつく無趣味につくられているために、かえってネワ河やバルト海や、その都会をとりかこむ水の多さを感じさせる。

 レーニングラードには不思議に憂鬱な美しさがあった。
 伸子と素子とはレーニングラードのはじめの十日間ばかり、小ネワ河の掘割の見えるヨーロッパ・ホテルにとまっていた。
 そこで伸子たちに予想しなかった一つのことがおこった。
 或る朝、新聞のインタービュー記事で、ゴーリキイが、伸子たちと同じヨーロッパ・ホテルに逗留していることがわかった。
 「へえ――じゃあ、もう南から帰って来ていたんだね」
 「そうらしいわねえ」

 五月に五年ぶりでソレントからソヴェトへ帰って来たマクシム・ゴーリキイは、歓迎の波にまかれながら、じき南露へ行ってドニェプルのダム建設工事その他を見学していたのだった。
 「――そうか」
 そう云ったまま黙って何か考えている素子と顔を見合わせているうちに、伸子の心が動いた。
 「会ってみましょうか」
 伸子がいきなり単純に云いだした。
 どんなひとだか会って見ようという心ではなく、もっと対手《あいて》に信頼を抱いている素朴な感情から伸子はゴーリキイに会ってみたい心持になった。
 云ってみれば会いたくなるのがほんとなほど伸子はゴーリキイの作品の世界にふれていたし、ゴーリキイ展は伸子に人及び芸術家としてのゴーリキイに共感をもたせて伸子自身について考えさせたのだった。

 「――どう?」
 「ひとつ都合をきいて見ようか」
 明るく眼を瞠《みは》ったような表情を小麦肌色の顔に浮べて、素子ものりだした。
 「われわれはいつがいいだろう」
 「だって――。
  あっちは忙しい人だもの」
 「むこうの都合をきいてからこっちをきめるとするか」
 「そりゃそうだと思うわ」

 素子が小さい紙にノートの下書きをかいた。
 二人の日本の婦人作家が、あなたに会うことを希望している。
 短い時間がさいて貰えるでしょうか。
 御返事を期待します。
 そしてホテルの自分たちの室番号と二人の名をかいた。

 「ところで、宛名、何て書いたもんだろう――いきなりマクシム・ゴーリキイへ、かい?」
 なんとなしそれも落付かなかった。
 「グラジュダニン(市民)てこともないわねえ」
 区役所へでも行ったような不似合さにふき出しながら伸子が云った。
 「タワーリシチじゃ変かしら」
 「そのこころもちさね、土台会おうなんて――」
 「じゃ、そう書いちゃえ」
 「そうだ、そうだ」
 素子の書いたノートを、二人でホテルの受付へもって行った。
 そして、ゴーリキイの室の鍵箱へいれてもらった。

 ゴーリキイは八番の室であった。
 翌朝、伸子たちはその返事を自分たちの鍵箱に見出した。
 その次の日の朝十時半に、ゴーリキイは伸子たちを自分の室で待つということだった。
 伸子は白地にほそい紅縞の夏服をつけ、素子は、白ブラウスの胸に絹糸の手あみのきれいなネクタイをつけ、約束の朝の時間きっちりに、八番のドアをたたいた。
 白く塗られた大きいドアがすぐ開けられた。

 びっくりするほど背の高い、うすい栗色の髪をした若い男が、これはまたドアを開けたすぐのところに立っている二人の女があんまり小さいのにおどろいたようだった。
 「こんにちは。どんな御用でしょう」
 こごみかかるようにして訊いた。
 いくらか上気した頬の色で素子が自分たちの来たわけを告げた。
 「ああ、お待ちしていました。
  お入りなさい」
 狭い控間をぬけて、その奥の客室へとおされた。そこの窓にも小ネワの眺望があった。

 室のまんなかにおかれている大理石のテーブルの上に、どうしたわけかぽつんと一つ皿がおいてあって、ひと切れのトーストがのっていた。
 奥の別室に通じているもう一つのドアがあいた。
 ゴーリキイが出て来た。
 伸子たちを案内した若い背の高い男と一緒に。
 写真で見覚えているよりも、ゴーリキイはずっとふけて大柄な体から肉が落ちていた。

 同時に、薄灰色の柔かな布地の服を着ているゴーリキイには、写真でわからない老年の乾いた軽やかさがあった。
 二人つれだったところを見ると、一目で若い男がゴーリキイの息子であるのがわかった。
 二人とも背の高さはおつかつで、骨骼もそっくりだった。
 けれども、ちょっと形容する言葉の見出せないほど重々しく豊富なゴーリキイの顔と、善良そうであるけれどもどこか力の足りなくて、背がのびすぎたようなゴーリキイの息子とは、何とちがっているだろう。

 ゴーリキイ父子をそういうものとして目の前に見ることも伸子の心にふれた。
 ゴーリキイは大きくてさっぱりと暖い掌の中へ、かわりがわり伸子と素子の手をとって挨拶した。
 「おかけなさい」
 そして、自分もゆったりした肱かけ椅子にかけながら、
 「私の息子です」
 わきに立っている若い男を伸子たちに紹介した。
 「私の秘書として働いています」
 多分このひとの子供だろう、ゴーリキイが、赤坊をだいてとっていた写真のあることを伸子は思い出した。

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