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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 27

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 鉄の手摺のついたせまいバルコニーの片隅には、空箱だの袋だのが積まれていて、ニューラが洗濯するブリキの盥《たらい》もおいてある。
 バルコニーは、この建物の内庭に面していて、じき左手から建物のもう一つの翼がはり出しているために日当りがわるかった。
 内庭のむこう側にコンクリート壁があって、ギザギザの出た針金が二本その上にまわしてある。
 そこにくっついて塀の高さとすれすれに赤茶色に塗られたパン焼工場の屋根があった。

 その屋根の上に、もうメーデイの行進から帰って来たのか、それとも行かなかったのか、三人の若者が出てふざけていた。
 ニューラがバルコニーへ出ると、その若者たちのなかから挑むような鋭い口笛がおこった。
 伸子は反射的にドアのかげに体をひっこめた。
 「ヘーイ!
  デブチョンカ(娘っこ)!」
 「来いよ、こっちへ!」
 屋根の上から笑いながら怒鳴る若者の声がきこえた。

 むこう側からはこちらの建物の、内庭に面しているすべての窓々とバルコニーとが見えるわけだった。
 若い者たちはおそらくその窓々がきょうはみんなしまっていて、バルコニーで働いている女の姿もないのを見きわめて、たった一つあいているバルコニーのニューラをからかっているらしかった。
 赤茶色の屋根のゆるい勾配にそって横になっていた一人の若者が、重心をとりながら立ちあがって、ポケットから何か出した。
 そして、それを、ニューラのいるこちらのバルコニーへ向って見せながら、伸子にはききわけられない短い言葉を早口に叫んだ。
 そして、声をそろえてどっと笑った。

 一人が口へ指をあてて高い鋭い口笛をならした。それは何か猥褻《わいせつ》なことらしかった。
 ニューラは、メーデイだのに着がえもしなかった汚れたなりで、両方の腕を平べったい胸の前に組み合わせ、いかついような後姿でバルコニーに立ち、笑いもしないが引こみもしないで、じっとパン工場の屋根を見ている。
 伸子はそっと台所から出て、自分たちの部屋に戻った。
 建物の表側にある伸子たちの部屋では、あけ放された窓ガラスに明るくフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の色が映って、祭り日の街路を通る人々の気配がかすかにつたわって来る。

 こっちには祭日のおもて側があった。
 モスクワのメーデイのよろこびの深さがわかるだけに、建物のうら側のバルコニーにはメーデイの閑寂の裏がある。
 台所のバルコニーに立ったニューラの姿は伸子に印象づけられた。
 伸子の心は象徴的に形を大きくした赤インクのかぎの形を忘られていなかった。


        七


 メーデイがすぎると、モスクワの街々には一足とびの初夏がはじまった。
 すべての街路樹の若芽がおどろくようなはやさで若葉をひろげた。
 フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大理石の胸壁を濡らして明るい雨が降った。

 伸子が、モスクワの印象記を書き終ろうとしている机のところから目をあげて雨のあがったばかりの、窓のそとを見ると、雨の滴をつけた一本の電線に雀が七八羽ならんでとまっていたりした。
 伸子は、このごろ直接多計代あての手紙は書かなくなってしまっていた。
 モスクワの町に雪があったころ、保にかいた手紙のことで多計代から来た手紙を、伸子は半分よんだだけでおしまいまで読めなかったことがあった。
 それ以来、伸子は時々エハガキに近況をしらせる文句をかき、佐々皆々様、という宛名で出していた。

 動坂の家からは、伸子が東京あてのエハガキをかくよりも間遠に、和一郎がかいたり、寄せ書きしたりした音信が来た。
 相かわらずとりとめなく、どこへドライヴしたとかいう出来ごとばかりを知らせて。
 メーデイの前後しばらくの間、伸子はちょくちょく父のペンでつけられた赤インクのかぎつきの新聞記事を思い出してこだわった。
 泰造が、例によって一人がそこにいる朝の食堂のテーブルであの新聞を読み、無意識に、入歯のはいっている奥歯をかみ合せながら、しっぽのひろがった太く短い眉をひそめてすぐテーブルの上においてあるインクスタンドからペンを執り、せっかちな手つきで赤インクのかぎをかけたときの顔つきが、手にとるように伸子にわかった。
 泰造のその表情や、わるく刺戟的な赤インクのかぎをかけた新聞を送らせるようなやりかたのなかに、伸子は、これまで心づかなかった父と自分との心のへだたりを知った。
 三月十五日に日本で共産党の人々が検挙されたという記事に、泰造は、どんなつもりでそんな、衝動的な赤インクのかぎをかけ、伸子へ送らせたのだろう。

 伸子が仮にパリにいたとして、泰造はやっぱりこうして新聞をよこすだろうか。
 娘がモスクワにいるということだけで、泰造はその新聞記事から普通でない衝動をうけたのだ。
 どう表現していいか泰造自身にもわからなかったのだろうけれども、赤インクのかぎは、泰造の受けた衝撃の感情の性質を語っていることが伸子を悲しくさせた。
 去年の秋、伸子たちがソヴェトへ来るときめたとき、そして旅券のことについて動坂の家へ行ったとき、母の多計代は「ロ・シ・アへ?」と、ひとことひとこと、ひっぱって云って、いやな顔をした。
 半年近くたったこの間、伸子がそこまでよんで先がよめなくなった多計代の手紙には、「冷酷なあなたの心は、ロシアへ行ってから」とかかれていた。

 父の泰造は、旅券のことで助力をたのみに行ったときも、伸子がともかく自分の力で借金ができて、外国へも行くようになったことをよろこんで、行くさきについて意見は洩さなかった。
 その後の泰造の簡単なたよりにも、ロシアというものへの先入観や偏見はちっともあらわされていなかった。
 ところが、こうして、日本にも世界のよその国と同じようにいつの間にか共産党が出来ていて、それがわかった、と大臣や役人があわてて右往左往している様子のわかる新聞記事が出たら、泰造の心の安定はたちまち動揺した。
 程度のちがいこそあれ多計代と同じような性質で、ロシアというところ、そこにいる伸子というものについて普通でない心の作用をあらわしている。

 伸子には、無条件で父を肯定する習慣があった。
 母の多計代はどうであっても、父の泰造は、と思う習慣があった。
 その習慣的な父への安心が、伸子の心の中ではげしく揺られた。
 父と母とは、生れ合わせにもっている気質がちがって、そのちがいは永い年月が経つ間に双方からつよめられ、その間で育った娘の伸子には、父と母とがものの考えかたや感じかたで全くちがうように思えていた。
 けれども、いま伸子は、父と母との気質のそのちがいを実際よりも誇張して感じていたのは、自分の甘えだったとさとる心持になった。
 父と母とは、夫婦だったのだ。
 いざというところでは、いつも一致した利害を守って生きて来た夫婦だったのだ。
 伸子が、自分の都合のいいように誇張してそれに甘えて来たような本質のちがいが、両親のものの考えかたにあるという方が変だったのだ。

 四月の末モスクワの中央美術館でひらかれたゴーリキイ展を見に行ったとき、伸子は、そこでゴーリキイに子供のときの写真が一枚もないことを発見した。
 そして赤坊のときからの写真をどっさりもっている自分に思いくらべた。
 それにつれて、写真に対する自分の浅薄さを非常に苦しく自覚したことがあった。
 母親と仮借なく対立しながら、父にだけは批評なしに甘えられそうに思っていた自分の心の姿も、伸子にはじめて同じような醜さとして見えた。
 父の泰造が、よく云っていた見識とか常識とかいうことも、窮極では、母の多計代の量見とどこまでちがったものだったろう。

 泰造は役所や役人ぎらいであった。
 大学を出たばかりで勤めた文部省の営繕課をやめたいばかりに、若い旧藩主のお伴のような立場でイギリスへ行った。
 泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。
 伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵のように煉瓦建の棟を並べていた。
 外国から帰ってから泰造はずっと民間の建築家として活動して来ている。

 泰造はよく、判断のよりどころのように常識があるとか、ないとかいうことを云った。
 それがイギリスには在って日本にはないものであるかのように「コンモンセンス」と英語で云って、常識が低いとか、常識がないとか云うことは、泰造にとって軽蔑すべきことだった。
 でも泰造が、あるとかないとか重々しくいう常識というものは、どういうものだったのだろう。
 考えつめながらもお父様というよび名が心にうかぶとき、伸子は懐しさにうごかされた。
 泰造の暖くて大きくてオー・ド・キニーヌの匂いのする禿げ頭をしのんだ。

 そのなつかしい父に、伸子は自分について発見していると同じ性質の浅薄を感じた。
 父の泰造も、つきつめてみればほんとに常識と呼ぶだけつよい常識はもっていないのに、コンモンセンスと英語でいうようなところがある。
 ほんとに分別にとんだ常識というものなら、資本主義の一つの国で法律が共産党を禁じるという事実があるなら、とりも直さずそのことがそういう改革的な政党の生れるような社会的条件をその国がもっていることを語っているのだと、理解するはずだった。
 五月の夜、若葉の香の濃い並木道《ブリワール》のアーク燈の下をぞろぞろ散歩しているモスクワの人々にまじって歩きながら、伸子はこの群集の流れの中で、あの赤インクのかぎを負っているのは自分だけだと思うと変な気がした。
 わきに並んで、時々腕をくみ合わせたりして歩いている素子にさえ、伸子のその奇妙な感じはわかっていない。

 モスクワの生活は、伸子を、日本にいたときはあることさえわからなかった広い複雑な社会現象のなかへつき出した。
 伸子はそれだけ自由にのびやかになった。
 そしたら、これまで気づかずにいたいろんな意味での赤インクのかぎが、自分にかかっていて、周囲に動いているモスクワの人たちにはかかっていないことを、見出しているのだった。
 こういう心の状態で夜の並木道《ブリワール》を散歩しているときなどに、伸子がもうちょっとで素子に話しそうになっては、話さなかった一つの気もちがあった。
 モスクワへ来る年の秋、駒沢の奥の家に素子と住んでいたころ、素子が買って来て伸子も読んだブハーリンの厚い本の中に書いてあったことにつながっていた。

 駒沢の、柘榴《ざくろ》の樹のある芝生に庭を眺めながら伸子はその本をよんで、今日の社会で資本というものが演じている役割や働く階級の歴史的な意味を知り、自分たちの属している小市民層というものの、どっちへでも動く可能をもった浮動的な立場の本質を知った。
 そのころ、伸子は父の泰造の建築家という仕事がもっている社会的な関係に新しく目をひらかれた。
 たとえ泰造がローヤル・アカデミーの特別会員であろうとも、アメリカの建築学会の名誉会員であろうとも、今の日本で建築家として働く佐々泰造は、日本の、建築工事を起すだけの金のある人々に奉仕するものであることを伸子は知った。
 そうわかって、泰造が折にふれてもらしていた依頼者の我ままな注文に対しての鬱憤に、娘として同情をもった。
 ところが、赤インクのかぎは、伸子のその理解を、もう一遍ひっくりかえしにして見せた。
 泰造のうそのない役人ぎらいは、そのまま泰造を、金をもっている人々ぎらいの人間にはしてはいないという現実を、伸子は理解したのだった。

 父の泰造のバロン、バロンとよんで話す或る富豪は美術と音楽の愛好者であった。
 同時に日本の大財閥で政党を支配し、日本の権力をにぎっている人の一人だった。
 その富豪と父の泰造とはイギリス時代からのつき合いで、友人の一種ではあったろうが、伸子たちをふくめる家族は、そのつき合いのなかに入れられていなかった。
 伸子が十か十一ぐらいのときだった。泰造が何かの用で箱根へ行くことができて、伸子もつれられた。
 夏のことで、伸子ははじめて箱根というところへ父につれられてゆく珍しさに亢奮し、自分が着せられている真白なリネンの洋服に誇りを感じた。
 箱根へ行って、大きな宿屋で御飯をたべて、それから泰造が少女の伸子でも知っていたその富豪の名を云って、その別荘へよって行こうと云った。

 伸子が父の泰造につれられて行ったその富豪の別荘は、伸子が少女小説の絵で見知っている城のようだった。
 大きな鉄の蝶番《ちょうつがい》をつけた玄関の扉があいて、入ったところは、二階まで天井がつつぬけになっているホールだった。
 高いところに手摺が見えて、そこから赤い美しい絨毯が垂れていた。
 一つの大きいドアの左右に日本の緋おどしの甲冑《かっちゅう》と、外国の鋼鉄の甲冑とが飾られていた。
 そのほかホールには壺や飾皿があった。
 それらの飾りものは、ホールについている窓の、緑にいくらか黄色のまじったようなステインド・グラスを透してさし込んで来る光線をうけて、どれもどっしりと生きているようだった。

 少女の伸子は父とつれ立って目をみはりながらも、勝気な少女らしく、そのホールの絨毯の上を歩いた。
 自分が、よく似合うリネンの白い洋服をつけ、桃色のリボンで頭をまき、イギリス製のしゃれたサンダルをはいていることに伸子は満足していた。
 伸子は、帰るまでにはきっとここの主人に会うものと思っていた。
 けれども父の泰造は伸子をつれて、執事の男と二つ三つの室をまわって見ただけだった。
 それきりで、また夏の日が土の上に照りつけている外へ出てしまったとき、伸子はあてがはずれ、辱しめられたような、がっかりしたいやな感じがした。

 あとで伸子に、主人が留守だから自分をつれて行ってくれたのだったということがわかった。
 泰造はまた、財閥としてはその富豪と対立の立場にいて、同時に対立する政党を支配しているような人々とも同じような友人めいた交渉があった。
 全然政治的な興味も野心も持たない泰造の気質は、ひろい趣味をもっていて、或る意味では至極さっぱりしていたから、そういう年じゅうごたごたした関係の中で生きている人々にとって、らくにつき合える建築家の友人という関係であったのかもしれない。
 しかし、伸子は赤インクのかぎを思いだすと、父の泰造のそういう社交性を、やっぱり複雑に感じとらずにいられなかった。
 そういう人々の住んでいる、伸子が見たこともなく快適な住居で、主人と泰造とが談笑しているとき、誰かが検挙された共産党を、少くともそれが生れる必然を肯定して話したとしたら、主人も泰造もどんな顔をするだろう。
 泰造はきっと、場所柄を考えずそんな話題をもちだした者の常識なさをとがめるだろう。

 でも、その場合の常識とは何だろう。
 富豪で権力をもっている人が、共産党の話なんかはきらうというその人たちの気分の側に立った泰造の判断であり、その人たちがきらうことを、よくないこととする通念にしたがう泰造の判断でなかったろうか。
 伸子は、心ひそかに父の泰造を誇って来ていた。
 日本で有数の建築家として。
 役人でも実業家でもなく、軍人や政治家でもなくて、自分の父は建築家であり民間の独立した一人の技術家であるということを、文学を愛するような年ごろになってからの伸子は、どんなに心の誇りとして来たろう。
 けれども、泰造の建築家としての独立性はほんとに狭い範囲のもので、根本では、民間の大建築を行う経済能力をもった者によって活動を支配されていることがわかったのは、伸子にとってそう遠いことではなかった。
 そして、泰造のそういう社会的な立場は、泰造の清廉さ、誠実さ、正義感、独立性にも限界を与えていて、泰造の紳士らしさには、何か見えないものへの服従が感じられることを、いま伸子は悲しく認めるのだった。

 伸子の意識は、そういう服従を、自分に求めていなかった。
 けれども、と伸子は自分について考えめぐらすのだった。
 たとえば自分が泰造の娘として、そのバロンなる人と一座しているとき、伸子が父の泰造の服従した感情とどれだけちがった自由をその心に保っていると期待できるだろうか。
 伸子は、自分がそういう場面におかれれば、やっぱり泰造と同じようにその人たちに好感を与える若い女として自分をあらわすにちがいないと感じた。
 さもなければ、そういう人が自分に加える圧力に負ける自覚がいやで、こわばって一座をさけるか。
 伸子が十六七になったころ、日本ではじめてフィルハーモニーという洋楽愛好者の組織が出来た。
 パトロンは、泰造と友人めいた交渉を持つそのバロンだった。

 その第一回のコンサートのとき、伸子はおしゃれをして、親たちとその音楽会をききに行った。
 そしてバロン夫妻に紹介されたとき、その人たちの光沢のよい雰囲気に伸子は亢奮と反撥とを同時に感じた。
 二様の感情をうけながら伸子は、我しらず利発そうな洗練された娘として自分をあらわした記憶があった。
 そういうところが、自分にそれを認めることがいつもきらいな伸子の腹立たしいすべっこさだった。
 素子に話しそうになりながら、話さなかったことのいきさつは、父の泰造に対すると同時に自分にも連関する伸子のこういう新しい気持の過程だった。

 それぞれの人がもっている道徳観というものも、その人たちの属す階級の利害に作用されている。
 それは、泰造についてみても真実だった。
 その真実は、伸子が生れかかっているイヴのように半分そこからぬけかかってまだ全体はぬけきっていない中流性にもあてはめられた。
 泰造がその限界の中では誠実な人であり、清廉な人であることにちがいはなかった。
 でも、伸子が新しく感じとった泰造の限界、自分の限界は、伸子にとってそれが分らなかった以前に戻すことは不可能だった。
 無条件に父を肯定しつづけ、父を肯定する自分を肯定して来た伸子にとって、こういう思いは、一段落がついたとき、痩せた自分に心づくような心の中の経験であった。

 三月十五日の事件に関連して、社会科学の研究会を指導していた京大や九大の教授の或る人々を、文部省ではやめさせるように命令し、大学総長たちはそれをすぐ承知しないという新聞の記事があった。
 しかし、結局辞職勧告をうけて京大の山上毅教授そのほかのひとが大学を去ることになった。
 山上毅教授の勅任官服をつけた写真とそのニュースとがのっている新聞に、伸子が校正を友達の河野ウメにたのんでモスクワへ立って来た長い小説がやっと本になって発売される広告があった。
 間もなく、河野ウメから、出来た本を送ってよこした。
 モスクワの町に、本はどっさりあるけれども、紙質もまだわるく、装幀も粗末だった。
 そういう本ばかりみている伸子は、送られて来た自分の本の立派さにおどろいた。
 「いい本ねえ」
 アストージェンカの室の机の上で小包をほどいて、伸子と素子とは、ひっぱり合うようにしてその美しい柿の絵のある和紙木版刷の表紙をもつ天金の本を眺めた。

 その小説は日本の中産階級の一人の若い女を主人公としていた。
 溢れようとたぎりたつ若々しい生活意欲と環境のはげしい摩擦を描いたその小説のかげには、伸子自身の歓迎されない結婚とその破綻の推移があった。
 上質の紙にルビつきの鮮やかな活字で刷られているその本の頁をひらいて、テーブルの前に立ったまま伸子は、あちらこちらと、自分のかいた小説をよんだ。
 「わたしにもお見せよ」
 と手を出す素子に本をわたし、小包紙や紐の始末をしながら、伸子は、ソヴェトの女のひとたちに果してこの小説にこめられている日本の女性の様々な思いが同感できるだろうかしら、と思った。
 「ここじゃあ、却ってこの小説の男の立場を女にした場合の方が多くて、それならここのひとたちにもわかるんじゃないか」

 素子が云う、男の立場というのは、主人公の夫である人物のことだった。
 その男は、若い妻が、息づまる生活環境に辛抱できないでもがく心持を理解することが出来ず、夫として妻を愛しているという自分の主観ばかりを固執して、複雑な関係の中で破局に導かれる人物だった。
 「そうともちがうんじゃない?」
 伸子は、その本の美しい小花の木版刷のついたケースをいじりながら云った。
 「『インガ』みたいな芝居でも、夫にとりのこされた女は自分で自分を伸してゆく余力をもっているし、またそれが可能な条件を社会生活の中でもっているんだもの……」

 伸子のその小説に描き出されているような娘の生活に対する親の執拗な干渉ということ一つとってみても、それはもうソヴェトの社会の習慣と感情のなかからはなくされている事実だった。
 モスクワのメーデイの行進の轟きの上に、象徴的に大きくされた赤インクのかぎを見たのが、日本の女であり、娘である伸子ばかりであったように。
 しかも、それは、伸子を愛していると自分でかたく信じている父の手によってひかれている赤インクのかぎを。

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